鉄腕アキオ44: フェルミ一九七一
飾り気の無い古びた壁掛けの振り子時計が、四回鳴った。
僕は畳敷きの八畳間を見回した。以前、囲炉裏を使っていた名残で、土壁も板戸も、高い天井も真っ黒に煤けている。南向きの縁側から差し込む光が、黒い背景に鮮やかに浮かび上がり、透明な固体のプリズムのようだ。
中心には飴色の卓袱台。部屋の隅に茶箪笥。決して上等品ではないけれど、量産性重視の箱みたいな現代家具にはない、アンティークな美で部屋を飾っていた。
でも、この茶の間はもはや存在しないはずだ。とっくに家ごと建て替えられ、消滅しているはずなのだ。
思い違いかもしれない。ただ似ているだけの、別の家なのかも。確かめる方法が一つある。一瞬の躊躇のあと僕は振り向いた。
鴨居の上に居並ぶ、白黒のポートレート。僕のご先祖様たち。やはり、小さい頃によく遊ばせてもらったお祖母ちゃん家のお茶の間だ。しかし同時に目に入った、その下に掛けられた月めくりカレンダーの年号は!
昭和四十六年。一九七一年。ここは、僕が知っていた時代より、さらに四〇年遡った昔だったのだ。
「何をしている、ケンイチ隊員。こっちだ!」
縁側の外からバル山隊員が僕を呼んだ。防衛隊のヘルメットのバイザーが、午後の日差しにきらめいた。
「ごめん! 今行く!」
僕は縁側に走り、ブーツに足を突っ込んだ。ブーツ脇のファスナーを上げながら、交互に片足ケンケンで彼を追った。
バル山隊員は農家の庭先に停めた、やけに直線的な大型スポーツカーに飛び乗った。格好いいけど今時アメ車でもこんなの無いぞ。エンジンが強化されているのか、ボンネットが一段盛り上がっている。
僕が助手席に滑り込むと同時にバル山隊員は車をスタートさせた。
車内は狭い。耐弾仕様の上に、コンソールも天井も電子装備でぎっしりだ。エアコンがひっきりなしに唸りを上げている。
「この村の小学校で、宇宙円盤が目撃された。場所を知ってるか?」
「すぐ近くだよ」
この時代にはカーナビが無いので案内が必要だ。交差点ごとに方向を指示して急行した。
長野県中野市立澧泉小学校は、斜面に頑張って建てた山村の学校だ。敷地内に段差があり、校舎は土地なりに折れ曲がり、床下に川まで流れている。まるで複雑な秘密基地だ。侵略宇宙人が身を隠すには持って来いだろう。
着いてみると、校庭が、ルーローの三角形型の優美な宇宙船に半分くらい占拠されていた。三本の虫のような着陸脚が船体を支え、そのうち一本が階段になっている。
階段の足元に、二本足の大きな黒猫のような生き物が待ち構えていた。マズルから大きな耳にかけて三日月形に白い以外は、全身が黒い毛皮に包まれ、ほとんど縦に裂けた青い吊り目が、メフィストフェレスのように意地悪く光っている。
そして片手で脇にアキオを抱えていた。
「アキオ隊員! なんてことだ」
バル山隊員も僕も腰のホルスターから銃を抜いたが、人質の手前撃つわけにもいかず、宙ぶらりんにするしかなかった。
アキオは武装解除されていたが、僕らと同じブルーグレイのジャンプスーツは無事だった。一安心だ。アキオはアンドロイドだが、僕と同年代の子供と見分けがつかないほど精巧で、しかも美少年なのだ。ヘルメットも奪われ、少し乱れたさらさらの髪が露になっている。
「ケンイチ、こいつ話があるらしい。変なこと言うんだ」
「私は鯨座アルファ星から来たメンカブ星人だ」
黒猫宇宙人は言った。僕とバル山隊員は顔を見合わせた。
「私は地球とアキオ君がすっかり気に入ってしまってね。どうしても欲しくなってしまったんだ」
マヌルネコみたいな顔にも関わらず、メンカブ星人の言葉はとても聞き取りやすかった。僕らは思わずふむふむと先を促した。
「そこで一言、地球とアキオ君をあなたにあげましょう、と私に言ってくれないかね」
「いやだよ! 地球だけならともかく」
「おいおいおい、いや、いいのか、何でもない」
メンカブ星人は感慨深げに、同情を込めてゆっくりと頷いた。
「そうだろうねえ」
そして、自由な方の手を高く上げた。まるで預言者のように。何か棒のような物を握っている。それが光った。
一打ちの鐘の澄んだ響きが空に広がったかと思うと、荘厳なオルガンのような調べが轟いた。急に辺りが暗くなり、幽火が飛び交った。空震と怪光はすぐに消えたが、空は暗いままだった。雲を衝く大入道となったメンカブ星人に、空が半分覆われていたのだ。
「だから宇宙人相手は嫌なんだ!」
僕は逃げながらいきり立った。
「気に入らない事があるとすぐ巨大化しやがって!」
「くそっ、こんな時に薩摩の奴がいれば」
バル山隊員もぼやいた。薩摩隊員もバル山隊員と同じく、防衛隊の先輩だ。しかし、ここに彼が一人増えたからってどうなるというのか。
バル山隊員は急に立ち止まった。
「やむをえん。ケンイチ、聞いてくれ。実は俺は地球人じゃないんだ。蛇遣い座GJ699から来たバーナード星人なんだ」
「えっ、突然何を言い出すんだ」
「俺はこれから巨大化する。お前もしろ」
「そんな、できるわけないでしょ! 地球人が巨大化なんて、ウ……」
「できる。地球人は十分に進化している。間違い無い」
「えっ、そういう物なのかい」
「当たり前だ。進化した知的生物は例外なく、必ず巨大化し、宇宙を飛んだり、通信用レーザービームを出すことができるようになる。むしろ、なんで試そうとしないんだ。他にどうやって、環境破壊なしに宇宙に進出する。見てろ、こうするんだ」
彼は胸ポケットから何か取り出し、頭上で点灯させた。無数の人影が背後に閃めくように現れ、それを吸収しながら彼は見る間に巨大化した。またも巻き起こった不思議な光と音に包まれて。
ただ大きくなるでなく、姿も変わっていた。まるで背後の影たちから託された力に奮い立つように力強く。両腕に鋭く尖った金属的なハサミを備え、全身が甲殻類の装甲で守られている。二つの丸い目がトパーズの光にきらめいた。
二人の巨人はそれぞれに、威嚇的でありながらも、古代彫刻のような高貴な美しさに満ちていた。何かに似ている。
そうか。彼らはメンカブ星とバーナード星の守護者なのだ。二つの星の人々の希望が集まって、それぞれの正義のために戦う力に望んだ姿。地球で言うなら、ウ……
急に背中がゾクッと来た。僕は振り向いた。そこにも無数の幻が立っている。男、女、子供、大人、動物、植物……
「僕にどうしろと言うんだ」
影たちは何も言わない。言葉では言い尽くされた事だから。声の無い祈りのさざ波が重なった。それは轟く叫びとなって大地を揺り動かした。
「どいつもこいつも人を当てにしやがって」
ままならない世間への怒りが頂点に達した。僕もポケットからボールペンを引き抜いた。防衛隊信州中野支部の特製品だ。銀色のボディにプリントされた、アップルレッドの中野市章。さる有名特撮巨大ヒーローの胸の模様を象っている。軸を捻ってペンライトモードに切り替え、スイッチを入れた。
どんな姿に? 誰もが知っている。色は? 地球を照らす美しい光の色に。月光の銀。夕空の赤。メンカブ星人はたじろいだ。サファイア色の目が驚きに見開かれた。同じ視線の高さになった僕を、呆然と見返した。
「地球の巨人……!」
メンカブ星人は逃げ道を求めて周囲を見回した。そう、彼は一旦逃げてもいいかもしれない。彼には人質がいるのだ。しかし、バーナード星人バル山が、すでに片方のハサミを半開きにして、メンカブ星人の円盤に向けていた。必殺のビームを至近距離で、止める間もなく浴びせられるように。
「に、二対一とは卑怯だぞ」
「卑怯もラッキョもあるか」
バーナード星人が言い返した。バル山隊員、地球暮らしが長いようだ。
「て、停戦を提案する。宇宙人同士で戦ってもしようがない」
「明日の夜明けまでだ。巨大化を解き次第、人質を解放しろ」
「わかった」
黒猫はひゅーっと縮んでいった。僕らも後に続いた。
お祖母ちゃんは、まだ帰宅していなかった。宇宙円盤発見の通報で避難しているのかもしれない。
やむなく、手紙を書いて、勝手にお茶菓子を使うのを詫びた。書いている間、涙が自然に溢れてしょうがなかった。
アキオは何も言わず、お茶の用意はほとんど一人でしてくれた。
茶道具を二人で手分けしてお茶の間に持って行ったら、メンカブ星人が本物の猫のように畳の上をごろごろと転がっていた。
「うーん。この手触り、この香り。素晴らしいな、畳」
涙はひっこんだ。バル山隊員は縁側で夕景を鑑賞していたが、茶に誘われて戻って来た。
「ケンイチ隊員、いいな、この庭」
山村の斜地も悪いことばかりじゃない。榊の生垣が麓の町並みを隠し、高社山から遥か新潟の山々までが、田舎の素朴な庭に飛び込んでくる。借景だ。
「お祖母ちゃんが聞いたら喜ぶよ」
「なぜ地球人は夏に熱い茶を飲むんだ」
いい話にメンカブ星人が割り込んだ。
「あとで涼しくなるんだよ」
バル山隊員が訳知り顔に言った。こりゃ彼の潜伏生活は相当長いぞ。
「たぶん聞きたいだろうから言わせて貰うが……俺は侵略宇宙人だ。立場はこいつと変わらん」
彼はでかい黒猫の方に手を振った。
「こいつに地球を独り占めされちゃかなわんから、今回だけは味方したんだ」
メンカブ星人はぴょこんと起き上がった。
「独り占めしてるのは地球人だろ。これほどハビタブルな環境は他に無い。桁外れの生物多様性だ。宇宙共有の宝だ。俺たちが分け前を要求して何がおかしい」
立て板に水を流すように淀みない弁舌に、思わず頷きそうになってしまった。しかも喋くってる間に片手でアキオの座布団を自分の方に引き寄せようとしながらだ。怖るべき奴。
「他の星はそうじゃないんですか?」
アキオが自分に伸びてくる手を叩きながら言った。
「うん、無いな」
バル山隊員は腕を組んだ。
「地球の近くの星々だけ見たって分かるだろ。宇宙は怖ろしく荒れ果てたところだ。水も無い空気も無い鉱滓同然の星屑か、さもなきゃ氷の塊だ。それでも生命は進化し、必死で生きる」
彼は茶碗を手に縁側の外の空を見た。ようよう暮れ始めた東の空に、彼には見えるのだろうか、故郷の蛇遣い座が。
「知的生物なら、なおさら死に物狂いだ。たとえ巨大な怪物に成り果て、地球人の恐怖の的となろうとも」
「故郷の人々のために」
「わかってくれるか」
「立場は理解します。あれっ」
アキオが話に集中している隙をつき、メンカブ星人は彼をひょいと自分の膝に乗せた。
「なあ、地球人に巨大化、教えてよかったのか。後で困らないか」
「薩摩の奴、お人好しだからな。地球人が自分でやり方を見つけるまで、気長に待つつもりなんだ。いつになることか。付き合ってられん」
「ああ」
侵略宇宙人どうし通じる物があったのか、二人の異星人はしみじみと頷きあった。
外で誰かくしゃみした。
「あっ薩摩隊員!」
俳優の森次晃嗣そっくりな若い男が入ってきた。アキオが黒い毛皮の中で暴れているので、僕が茶を入れた。
「よかった、みんな無事か。遅れてすまん」
片手で礼をして茶碗を受け取りながら彼は一座を見回した。顔に安堵の色がありありと浮かぶ。いい人だ。僕はふと思い出し、ポケットから赤い鼻眼鏡を取り出した。
「薩摩隊員、これ落としたでしょ、本部の廊下で」
彼は愕然と凍りついた。そんなに驚くなんて、どうしたんだろう。
「声掛けても気がつかないんだもの。はい、返しましたよ」
彼の手に鼻眼鏡を押し込んだとたん、急にめまいがして、音がよく聞こえなくなった。みんなが騒いでいるのをおぼろげに感じた。アキオを除いて。彼は幻のように半透明になって、みるみる薄れて行くところだった。僕も、視界全体が、光の帳の中に霞んで行った。