4.眠り姫
平民ではあり得ないような魔術を使えるようになった私に対し、じいさまは繰り返し言い聞かせた。村で生きていくなら魔術を使わないように、と。
ニコラはこれまで村の外に興味を示したことが無かった。国境の山の話を聞いても、ファガーシへ村の男がお遣いをして来ても、村の若者が村を出て他所の仕事を探しに行っても。だからじいさまも、ニコラが村で暮らしていくためにそう言い聞かせたのだろう。
けれど私としては、眠ったままのニコラの魂を目覚めさせるために魔術を学ばなければいけないと考えていた。きっとニコラが元に戻る手がかりになると、藁にもすがる思いだった。
私は家族が寝静まった頃、小さな光を作ってこっそりと寝室を出た。レナートと二人で使っている子供部屋だ。物音を立てないように家の外に出て、物置から洗濯用の木の盥を引っ張り出す。
「ロヤ」
盥に水を張ると、次に火種を作る呪文を唱える。その火種で水を温めるのが、一般的なお湯の作り方、らしい。
じいさまのその説明を私は信じることができなかった。
私に魔術を教えるようになって、じいさまも魔術を使う頻度が高くなった。今まではこっそり使っていたのだろう。私の前では息をするように使うようになった。
その様子を見るに、魔術は相当便利だ。平民には思いもよらないことを魔術は可能にする。例えば、じいさまは書いていた手紙を四つ折りにして呪文を唱えるだけで、手紙を鳥の形にして飛ばすことができる。紙の鳥が戻ってくることもあるから、そうやって連絡を取り合っていることが分かる。
そんな魔術があるなら、お湯だってどうにかできるはずだ。
じいさまが教えてくれないなら自分でどうにかしてやる。
私にはアテがあった。いつだったかじいさまが唱えていた呪文だ。確か冷めたスープを温め直すのに使っていた。
「イケレ」
盥から湯気が立つ。火種を突っ込むよりよっぽど楽にお湯になった。
ふと気になって、もう一度「イケレ」と唱える。ただし今度は冷たくする。思った通り湯気は収まった。
私がこれまで習った魔術は単一の自然現象を発生させるものだった。火種を作る、水を出す、光を作る。
だから、イケレという呪文がものを温めるだけの呪文なら、恐らくそれはものを「蒸発させる」呪文ということになる。物質は熱することで気化するからだ。
しかし、そんな風に無限に熱を発生させるような危険な魔術を日常で使うわけがない。
つまりイケレという呪文は、温度を変える呪文、ということになる。そして恐らく温度を高くするか低くするかという双方向性を持つことが魔力の消費を増やすので、平民には使えない、と。
まあ私の仮定は置いておいて、はっきりしたことがある。
じいさまは私――村娘のニコラには平民用の魔術しか教える気がないということだ。
私はため息をつきながら盥いっぱいの水を処理して眠りについた。
翌日は雨だった。村人達は早々に仕事を済ませ、家の中でできる手仕事や昼食の下拵えを始める。子ども達は次々とじいさまの家に集まってきた。
「今日は何の話をしようかねえ」
じいさまを小さな子ども達が囲んで座る。十歳くらいの子は滅多にじいさまの家に遊びに来ないけど、雨の日は弟妹の送り迎えのついでといった顔で一緒に過ごす。私も例に漏れず、レナートと一緒にお噺を聞きに来ていた。
村の子ども達はみんな顔見知りだけど、やっぱり年が近いほど仲が良い。レナートが前の方に陣取るのを見つつ、同い年の女の子や男の子が固まっている所に混じった。
「『眠り姫』にしようか」
朗らかにひとつ頷いたじいさまがむかしむかしとお噺を始める。きゃっきゃと騒いでいた子どもがすぐに口を閉じた。じいさまの語りには不思議な力がある。
私といえば、異世界でもむかしむかしで始まるんだなあなんて呑気に考えていた。
「――お姫様の病気を治すにはそれしかない。王様は信じきって、悪い魔術師の言う通りにしてしまった」
「お姫様、どうなったの……?」
小さな幼女が不安げに尋ねる。じいさまは悲しそうな顔で続けた。
「お姫様は、魔術師の説明通り安らかな顔で眠りに落ちた。じゃが、何日待っても目が覚めない。季節が変わっても、何度冬を越しても目が覚めない。とうとう王様は、お姫様の綺麗な瞳を二度と見ることなく、遠い空に昇ってしまった。お姫様は結局、目覚めることなく、今でもずっと、すやすや眠っているらしい。これが一千年眠り続ける『眠り姫』のお噺じゃ」
場の空気がしんみり重くなった。不幸なお姫様と王様の話だ。そりゃ後味も悪い。そんな中で私はじいさまに尋ねた。声が震えないように注意を払って。
「お姫様は生きているの?」
私のその質問に、幼い子は期待するようにじいさまを見つめた。じいさまは静かに私を見据える。
「生きているよ。生きていると信じているうちはね」
子ども達は分かっているのかいないのか、お姫様は生きているという方向でまとまったようだった。
質問した私はといえば、ナイフを突きつけられたかのような気分だった。外の雨の音が、やけに耳についた。