考える本「書楼」
吾輩は本である。名前はあるが匿名が望ましい。
訳あって、ここ、円学工業高等学校の図書館に住んでいる身である。
最近になって吾輩は、所謂自我を持つようになった。何故吾輩が、無機物でしかない吾輩が自我を獲得出来たのか。それは分からない。
これは仮説だが、もしかしたら、吾輩は本の枠組みを超えてしまったのかも知れない。日本という国には古くから、八百万の神だとか、九十九神だとか、そういった類の考え方が存在している。そのような存在に近づいたのだろう。おそらく、そうなのだ。
経緯や理由はともかく、折角の機会である。それからは吾輩の創造主たる、人間について考えてきた。
世情、感性、思想。人間は個体差が激しい生物なのだ。吾輩が観察するに足る生き物である。
と虚勢を張ってみたが、本心を言おう。見ていて飽きない。大変に興味をそそる。不可解……そう、不可解なのだ。
個体差、違いというものは可能性を秘めている事象だが、ならば何故違いは生まれるのだろうか。そして、如何様にして生まれるのだろうか。遺伝子情報によって体格や形状が多少違う事は良い。それは吾輩にも当てはまる。
だがしかし、考えの相違は完全に不完全である。人間が一様に同じ考えを持てるのであれば、世界は円滑に回るからだ。有り体に言えば効率が良くなる。しかし、そうでないから世界は平ではないし、だからこそ平和を求め、人間は他者を排斥しているのだ。これは正しく、『人間の不可解さ』と言えるだろう。部分的には好ましい特異性である。吾輩はその『不可解』の先にあるものを掴んだ人間によって織り成されているのだ。
だからこそ『不可解』が好ましくない場合もある。そしてその好ましくない場合が顕著に現れた人間がいる。今、ここに。
そう、佐藤という男である。
この陰気な男は、なんと、文芸部と呼ばれる部活の部長という地位に就いているのだ。部長とは一般に、カリスマを持ち、部員を先導し、率先して部活動を盛り上げる役職であると聞く。しかし、この男といったらどうだ。それらの要因がまるで見受けられない。皆無と言っても過言ではないだろう。
吾輩には最初、この男が不審者以外に映らなかった。司書の人間に助けを乞うべきだろうかと真剣に考えた程だった。それ程までに、この男は見るに堪えない相貌と陰気さを持ち合わせている人間なのだ。持て余しているとも言える。
さて、佐藤の特徴を列挙してきたが、どうだろう。この男を一言で言い表すのであれば、“不気味”だと吾輩は考える。他の人間を見下し、かと思えば見下される事を良しとしない。かつまた、自分はまだ底辺ではないと思っている。顔と不相応な羞恥心と自尊心を持っている事が伺える。このままでは、いつか佐藤は虎になってしまうだろう。
佐藤のような性質は、人間としてなんらおかしくはなく、誰にでも多少はあるものだが、物事には限度というものが必ずある。佐藤はその限度を超えているのだ。そしてそれだけに支配されている。心が腐っていると言えよう。
こんな愚図が本を書き、あまつさえ部長をしているなどと、誰が思うだろうか。あまつさえ、そんな人間が、吾輩の高貴な表紙を、項を、その薄穢い両手で捲るのだ。栞紐が萎れる気分になる。人間の感覚で言えば、“身の毛がよだつ思い”に分類されると思う。
ともあれ。何故吾輩が佐藤を評しているかと言うと、先ほども言ったが『好ましくない不可解』だからである。吾輩が好ましくないと思う何よりの理由は、この男の目だ。
何も映さず、何処も見てはおらず、ただただ濁っている。停滞した河川や腐敗した魚類を思わせる。若者として、いや、人間としてあるまじき目だ。変わるべき、いや、変えるべきなのである。
佐藤は、図書館内に数名で集い、楽しげに会話を行う、活気溢れる人間を見習うべきなのだ。もっとも、それでも彼らのような『好ましい不可解』になる事は、佐藤には不可能だろうが。
しかし、佐藤の手本である若者達が、憎き怨敵、スマートフォンに縛り付けられている、という現実は嘆く他ない。なにせ彼らは、語りあえる友が側にいるというのに、怨敵に踊らされ、その場に居合わせない人間との会話を強要させられているのだ。
吾輩ははっきりとした憤りを覚えた。分からない。何故、佐藤のような矮小で醜悪な人間には読まれても、彼らのように若く、将来性がある人間には読まれないのか。広義的な意味でも同様に思う。我々を何処かで必要としている人間達もいるにはいる。がしかし、人間達の全体として見てみると、やはりそれは極めて少数だ。
哀しい事である。吾輩は、と言うよりも、我々は、人間に読んでもらう為に生まれたのだ。他ならぬ人間の手によって。だと言うのに、人間は怨敵によって我々から離されていくのだ。実に嘆かわしい事である。
怨敵達が、彼らの雛形であるガラパゴスと呼ばれていた時勢はまだ良かった。電子機器の分野に属し、新参ではあったものの、我々や他の分野に対して礼儀正しく、また彼らなりに誇りもあった。
彼らが助長し始めたのは、彼らの形態がボタン式からタッチ式に移行した二○一○年頃がそれに当てはまる。それまでの姿勢は一転して崩れ、人間を支配しようと画策を始める輩が携帯電話の大半を占めたのだ。
暗黒期の到来である。そしてそれは、今尚続いている。全くもって本末転倒だ。創造主を繰ろうなどと、それがただの愚行だという事が理解出来ないのだろうか。我々媒体は本来、情報を、思想を、可能であるなら事実を伝える発信者たるべきなのだ。
その点新聞紙氏は見るに堪えない。彼女は正しい発信者でいようとするあまり、人間の玩具に成り下がってしまっている。いくら彼女が真実を告げようと、購読する人間によっては、彼女の情報は虚構となる。しかも、最初から出鱈目な情報を新聞紙氏に記載し、発行する人間の集まりもあるという。これではまるで、彼女は道化だ。競馬場にうち捨てられ朽ちていく孤独を、公園に住む人間を包まなければならない詫びしさを、およそ人間は知るところではない。彼女自身はそれでも良いと言ってはいたが、吾輩は納得出来ない。
佐藤、若者達、新聞紙氏。これらの総合的事実は、人間自体の質が低下し始めている事を指しているのだろう。だとすれば、吾輩達の質も落ちている事となる。たとえそれが事実だとしても、そんな考えは持ちたくない。吾輩は人間の叡智の結晶なのだ。ならば何故、怨敵は社会に生まれ出でたのだろう。
吾輩にはまったく、分からない。
残念な事だが、これは考えた所で答えが出る問答ではない。所詮吾輩は、本という物は、文字の羅列という情報でしかない。吾輩の考えを吾輩の身体に、頁の余白に書き込む事が出来れば良いのだが、生憎とそれは不可能である。ファンタジーやメルヘンではないではないのだ。新しい考えは、人間が吾輩に書き込む事で、ようやく吾輩の考えになる。
であるならば、仕方あるまい。これも人間に造られた物の運命なのだろう。人間には、古い物を捨て、捨てた物は忘れ、新しい物に飛びつく、といった特徴があるからだ。
……とすると、怨敵もいずれは忘れ去られる存在なのだろうか。
そう考えてみると、少し気が晴れた。




