酬い
「さてと…。」
時間を確認すると、何時ものように男は仕事をするため詰め所を出た。グレーの作業着を着込み、薄暗い廊下を通り抜け一週間前に収容された彼らの元に向う。男の仕事着には葬り去った命の情念であろうか、無数の貌型の染みが浮き上がっている。染みのかたちは無念さの現れのように苦悶の表情を浮かべているのだが、男は毎朝臆することなく、作業着の袖を通し、ステンレスの小部屋に向かうのだ。
外界との自由な行き来を阻害する幅数センチの格子からは、自分の数分後の運命を悟っているかのように悲痛な鳴き声が響いているが。男は無慈悲に扉を密閉すると、くぐもった抗議の声に耳も貸さず密閉容器の中に致死性のガスを送り込む。
数分後小部屋の中ですべての命の日が消え去った後、男は物言わなくなった小さな骸を処理に来た。
「今日は、5匹か…。」
男はまだ温かい犬たちの尻尾や耳を無造作に鷲掴みと、ヅタブクロに押し込みまとめると、72リットル入りの市指定のゴミ袋で外見を飾った。半透明のビニール袋越しには、犬たちの姿は見えず、廃棄するにはもってこいであった。
「そっちは終わったか。」
男がゴミ袋の口をゴム製の紐で縛り上げていると、隣の小部屋から一足速く作業を終えた同僚が声をかけてきた。
「ああ、もう終わるよ。今日は5匹だから少し捌くのに時間がかかるちまって…。そっちは何匹だ?」
「8匹かな。小さいのが何匹かいたから、もう少しいたかもしれんが…。」
「ネコはあまりデカくないから、カズが多くてもあまり変わらんからな。」
「明日は俺がお犬様の面倒の番だから、恨みっこは無しだぜ。」
「分かってるって。よし、これで終いだ。焼却炉に送って勤務終了。呑みに行こう、イッパイつき合えよ。」
「どこ行く?レイのお姉ちゃんのところか。お前相当入れ込んでんな。あのお姉ちゃんはマズいんじゃないのか…。」
男らがくだらない話をしていると、ゴミ袋の中から息を吹き返したのか弱々しい鳴き声が聞こえた。本来なら再度安楽死の行程をすべきなのであるが、男らは顔を曇らせることもなく次の行程に進んだ。自分の仕事はもう済んだのだと主張するが如く、彼らは無駄口を封じ、微かな命の気配を無視してゴミ袋を焼却炉に…。
命の尊さなど無視する男らの作業着の胸には『@@保◯所』と云う刺繍字が、呪文のように紅い糸で縫い込まれていた。
ペットなどという人の傲慢な範疇から逸脱してしまった命は、殺処分と云う名目で、ヒトの出すゴミとして焼却されるのか。
彼らは祝福されこの世に生を授けられたというのに、ヒトの勝手な価値観や無責任な行為で命を絶たれるのだ。ある時はヒトという種の盾になり、ヒトを捕食しようとする肉食獣に立ち向かい。またある時はヒトの備蓄する食料を貪食し、ヒトを絶滅せしめる病魔を媒介する小動物を駆逐してくれていた家族であるのに。
ヒトはこの世で最も信頼できるパートナーたちを、今日も何処かで裏切り続けているのである
同僚と夜の街で痛飲した男は、住宅地の片隅で酔いつぶれ、寝込んでしまった。比較的気候も温暖な彼の地では、風邪を引くことはなかったが、男が差し込み始めた朝陽に目覚めると。財布や腕時計など身に付けてたものは、案の定所有権が代わってしまっていた。
「参ったなあ〜。」と男は言ったつもりであった。
しかし、男の口から発せられたものは、声ではなく。単なる咽頭粘膜の鳴動でしかなかった。
「???。」
言葉が発せられない。何故だ!
男の絶叫は早朝の空気を切り裂き、住宅地に響き渡る…。
「!!!、!!。」
「!!!、!!。」
男がパニックを起こし騒ぎ立てていると、目の前に見慣れた職場の車が横付けされた。
「ほら、安心しな。」
車から出てきた人物が、男に声をかけてきた。彼の顔は見たことはなかったが、着ている作業着には例の紅い糸での刺繍が見えた。
部署は違うが、緊急事態なので自分のことを保護しに出動してくれたのかと男は思い、笑顔で手招きする人物に近づいていった。
すると突然、首に灼熱感を伴う痛みが走った。
ピアノ線で作られた首枷が括られていた。
『何をするんだ!』と叫んだつもりであったが、猛り狂った狂犬の口からは…。
おしまい