閑話:長瀬慎二育成計画
長瀬慎二は氷の勇者である。
異世界に転移するという、年頃のインドア系男子垂涎の体験をしていながら、彼はそれを喜んだ事は無かった。
転移してすぐに捕えられ、奴隷に落とされていればそれもやむなし。
ならばと復讐を決意しようにも、奴隷から解放された後に接した人々は優しく、そして頼もしかった。
彼らを直接害する事は勿論だが、国を崩壊させて彼らの生活を壊す事も躊躇われた。
衣食住が保証から、目見麗しい、彼の命令ならなんでも聞くメイド達も与えられたが、自分の事をなんとも思っていない相手に二十一世紀の日本の倫理観から外れた命令を与える事はできなかった。
慎二が呼ばれたフェレノス帝国が戦争に負けてからの方が、異世界転移らしさを実感できるようになるのは皮肉な話だった。
異世界転移をし、勇者としての力を与えられながらも、慎二は自分がこの世界の主役だなどとは思わなかった。
本当に自分がこの世界の主役だったなら、つまづいて転んだ先にいたメイドを押し倒してしまったからって、自室で正座させられて説教を食らう筈がないからだ。
スカートが捲れて下着が見えていたが、慎二からは角度的に見えなかったし、メイドの胸に掌が押し当てられた訳でもない。
ましてや唇と唇が触れ合うだなんて、現実で有り得る筈が無かった。
転んだ拍子にそんな事になったら、それはもう頭突きだし、普通にキスをしようとして歯と歯がぶつかっただけでも激痛が走るのに、そんな勢いでぶつかり合えばお互いの歯が折れても不思議ではない。
そういう意味では、説教されても仕方ないかもしれない。
ステータスの関係で、歯が折れるのは間違いなくメイドの方だろうからだ。
とは言え、そのような事は一切なく、むしろメイドが廊下で背中や頭を打たないよう、抱きかかえる事ができた。
バランスが崩れていたので、そのまま倒れてしまったので、押し倒す形になってしまったが、そんなつもりでなかった事は、当のメイドがわかっていた筈である。
にも関わらず、メイドは悲鳴を上げた。
その後で、何かに気付いたような表情を浮かべ、すぐに覚悟を決めたような表情で慎二を睨みつけて来た。
「えっと、その……」
突然叫ばれた事もあって、どうすればいいかわからなくなった慎二。
メイドは無言のまま、しかしその場から逃げる事もせず慎二を見つめる。
メイドの背中に回した腕から、彼女の体が硬くなっているのが伝わって来た。
彼女達は慎二の命令はそれがどのようなものであれ従うよう命じられている。
慎二が望めば、このまま事故を事故でなくしてしまう事もできた。
そのため、メイドはついにこの時が来たか、と覚悟を決めたのだ。
つい悲鳴を上げてしまったのは、心構えができていなかったからだ。
慎二が常日頃からそのような態度をとっていたなら、いつもの事だとメイドも諦めていただろう。
或いは、慎二がメイドと積極的にコミュニケーションを取って、信用と好感度を稼いでいたなら、メイドは悲鳴を上げずに受け入れていただろう。
だが、慎二はどちらの努力も怠っていた。
そもそも慎二は、彼女達がどのような命令にも従うという事を知らない。
二十一世紀の日本の常識で、住み込みの家政婦が行うだろう仕事を任せているだけだ。
勿論、慎二の知識の中には雇っているメイドにそういう事を命じる作品の存在もあった。
だが、二次元の壁が無い女性とそのような行為をする事は、慎二にはハードルが高過ぎた。
結局、そのまま何もしないでいる間に、悲鳴を聞きつけたメイドのリーダー格の女性がやって来て、二人を引き離し、慎二を彼の自室へと連れて行ったのだった。
「お話しする事があります」
慎二が正座しているのは、リーダーからそのように言われた時に、自然と座ってしまったためだ。
うしろめいた事があったための行動だった。
(さて、どうしましょうか……)
慎二を彼の寝室へ連れて行ったメリーダは、自分の目の前で縮こまっている自分の主人を見下ろして、そんな事を考えていた。
正座という文化が帝国には存在しないが、慎二のこの姿勢が、反省を表しているように感じられて、少々罪悪感が込み上げていた。
メイドの悲鳴を聞いた時、メリーダの中に沸き上がった最初の感情は歓喜だった。
これまでの慎二の態度と、メイド達との接し方から、彼がメイドに迫ればメイドは嫌がるだろうと思っていた。
しかし、どのような命令にも従うように言われているメイドは拒絶ができない。
せいぜい、本能的な恐怖と生理的嫌悪感から悲鳴を上げる程度だろう。
丁度今のように。
侵入者の存在も一瞬頭をよぎったが、勇者の護衛と諜報も兼ねているメイド達が、侵入者程度で悲鳴を上げる筈がない。
自分が勝てないような相手に出会ったのなら、それを伝える符丁を叫ぶ手筈になっている。
そのため、メイドの悲鳴を聞いたメリーダは、とうとう慎二が行動に出たのだと考えたのだ。
何となく、慎二が他人に命令する事に慣れていない事は理解していた。
同様に、あまり女性に慣れていないという事も何となく察していた。
だから、最初は強引な方法でもいいから、他人より自己を優先する事に慣れてくれるならばメリーダにとってもそれは喜ばしい事だった。
そうすれば、気を遣うのではなく、気を配れるようになるだろう。
メイドの事を慮った命令を下せるようになるだろう。
傲慢な暴君にならないように誘導してやる必要はあるが、それはメリーダの腕の見せ所だ。
彼女の仕事に慎二の育成など入っていない。
仮に、慎二の無茶な命令のせいでメイドが全員潰されたとしても、帝国から新たなメイドが派遣されるだけで、慎二の生活には変わりがないだろう。
だが、帝国のために死ぬように教育されているメリーダでも、死なないで済むならその方が良かった。
ならば、この程度の越権行為は自己の防衛のためには許される行為だった。
慎二が帝国に文句を言えば粛清されてしまうだろうが、彼はそのような事はしないだろう事も織り込み済みだ。
とは言え、女性に慣れていない慎二が困っているようなら助けてやらなければ、と思いメリーダは悲鳴のした方へと向かった。
決して、彼がどのような行為を好むのか、興味があったわけではない。
いや、彼に従順なメイドとしては、主の好みも知っておく必要があるから、興味を持っていたとしても、それは悪い事ではないのだ。
出歯亀根性だけで確認に行った訳ではないのだ。
果たしてそこでメリーダの見たものは、覚悟を決めつつも慎二を睨むメイドと、彼女を押し倒しながらも、どうすればいいかわからずオロオロしている慎二の姿だった。
それだけでメリーダは全てを察し、二人を助け起こすと、メイドを仕事に戻らせて慎二を彼の部屋へと連れて行ったのだった。
正直、部屋に来た当初は主人としてメイドにもっと毅然として接するように言い含めるつもりだったのだが、
「お話しする事があります」
そうメリーダが言った瞬間、目の前で慎二が床に座り込んでしまったのだ。
慎二の性格とこれまでの言動から見て、彼が反省しているとするなら、それはメイドに対して何もできなかった事ではないだろうと容易に想像できた。
(多分、メイドが悲鳴を上げた事に対して、反省しているんでしょうね)
メリーダの常識から言えば、あれは悲鳴を上げたメイドの方が悪いのだが、慎二はそう思っていないようだった。
他のメイドよりは慎二の事を理解できているという自負のあるメリーダだったが、まだまだ彼との間に存在する常識に差があると改めて理解した。
(さて、どうしましょうか……)
このまま指導を続けると、慎二の性格的にますます女性に対して苦手意識を持つようになるかもしれない。
正直な話、慎二ほどの権力を持ちながら、メイドや使用人に対して配慮する、配慮しようとする人間の方がこの国では稀だ。
これは倫理や道徳が育っていないという話では無く、そうしないとこの帝国の土地で大勢の人間が生活するなど不可能だったからだ。
そのため、メリーダは慎二の育成に対して慎重にならざるを得なかった。
よくいる帝国貴族のように育てるのは簡単だ。
けれど、折角だから居心地の良い職場とするため、慎二には心ある主人となって貰いたかった。
それは、メイドに気を遣って必要最低限の命令しか出さない主人とも違う。
(ここに回された時点でまともな恋愛も結婚も望む事は不可能。ならば、唯一の相手に優しさや頼り甲斐を求めるのは仕方ない事ですよね)
多くのメイドが慎二を嫌っているのは、命令する権利を持っていながらまるで命令してこない、意気地なしだと思われているからだ。
とは言え、慎二の頼もしさは基本的に戦闘でしか発揮されない。
戦争にはメイドはついていけないし、最近解禁されたダンジョンの攻略でも、メイドは無理矢理連れていかれているようなものなので、ポジティブな要素がネガティブな要素を上回る事は少ない。
魔石や魔法の武具、マジックアイテムの回収にメイドに同行するよう命じたのは慎二ではなく帝国だった。
帝国からすれば、そうした宝物を、慎二に独り占めされないようにするための措置だった。
メイドから、帝国からそのように言われているから、と言われては、慎二も同行を断る事はできない。
勿論、慎二が命じれば可能なのだが、彼はそこまで考えが回らない。
帝国から命じられた事を、自分が口を出す訳にはいかない、と考えるのが慎二だった。
(職分を侵す事が悪い事だと思っている節がありますね)
それ自体は有り難い事だが、時にそれを越えて自分達を守るような甲斐性を見せて欲しい、というのが本音だった。
慎二が命令する事に慣れていない事を知らないメイド達は、『気を遣うくらいなら来るな、と命じてくれればいいのに』と思ってしまうのだ。
そんな状態で慎二が活躍するところを見ても、『これを見せたいから同行させてるんじゃないの?』『はいはいすごいすごい』としか思われなかった。
メリーダも最近は、慎二のそのような性格をさりげなく他のメイドに伝えているのだが、程度を間違えると、メイドにまともに命令を下せない情けない男、という評価が下されかねないので、中々浸透していなかった。
「シンジ様、まずは普通に椅子にお座りください」
「けど……」
「別に私は怒っている訳ではありません。シンジ様とお話をしたいだけですので」
「そ、そう?」
慎二はメリーダの事をチラチラと見ながら立ち上がり、椅子に座る。
(こういう所も、メイド達からは情けないと思われるんでしょうね)
それがわかるという事は、メリーダもそう思っているという事だった。
「まずシンジ様、シンジ様が助けて下さったのに、悲鳴を上げてしまった事を、彼女に替わって謝罪させていただきます」
「あ、いや。ぶつかったのは俺も同じだし……」
「次にシンジ様。以前ダンジョンでも申しました通り、我々はシンジ様のお言葉に従います。シンジ様は、シンジ様の望むようにしていただいて構いません」
「それって多分そういう事なんだろうけど、でもさ……」
どうやら、先のダンジョンから今までのメリーダの努力はある程度実を結んでいるらしかった。
どのような命令にも従う、という文言が、例外なくそのままである、と何となくではあるが理解してくれたようだった。
「シンジ様。私は、シンジ様のしたいようになさってくださいと言いましたよ」
「え?」
「シンジ様に対し、わたくし共は命令する権利を持ちません。勿論、円滑に仕事を進めるうえで、シンジ様にお願いする事はありますが、シンジ様はそれを断る権利を有しております」
「えっと……ああ」
メリーダの伝えたい事を、慎二は理解したようだった。
「したくない事をしたくないと言えって事……?」
「それもシンジ様の自由という事です。わたくし共に気を使ってくださって、断る事をしないのも自由ではありますが……」
「うむむ」
メリーダの言いたい事は慎二もなんとなく理解していた。
彼女の方こそ、自分に気を遣ってくれている事もわかっている。
とは言え、難しい事は難しいものだった。
いっそああしろ、こうしろ、と言われた方が楽ではある。
しかし、メリーダはそんな主に仕えたいとは思わなかった。
主を傀儡にして権力を得る、という事に彼女は魅力を感じなかった。
ただでさえそんな考え方なのに、慎二の持つ複雑な権力を得る意味は薄かった。
「ではシンジ様。まずはシンジ様の望みを口になさってください」
「俺の望みを?」
「はい。わたくし共の事は気になさらず、自分のしたい事を口になさってください」
「いや、でも……」
「その後に、わたくし共も望みを言いましょう」
「え?」
「そこから、お互いに丁度良いラインを探っていけばよいのです。他のメイドにもそのように伝えておきますので」
「え? でも、いいのかな……?」
「まずは自分の考えを伝える事に慣れるところから始めましょう。そしてわたくし達がどのように考えているかを知りましょう。そうすれば、どのような命令をくだせば良いか、おのずと理解できるようになるはずです」
「な、なるほど……」
そこでメリーダは慎二に体を寄せる。
耳元に口を寄せた事で、慎二の体に、メリーダの体が密着する。
肩に置かれたメリーダの両手から、熱が伝わり、慎二の鼓動を速くする。
ふわりと舞った花の香に、慎二の脳はとろけるような快感を覚えた。
「自分に自信をお持ちください。シンジ様にはそれだけの実力がございます」
「で、でも、俺なんて、運良くこの力を貰えただけで……」
「ならば、それに見合うシンジ様を目指せば良いのです」
耳元で囁かれるたびに、脳が揺すられ、現実感が薄れていく。
「わたくし共はみな、シンジ様に命令される事を望んでおります」
「そ、それは……」
「けれど、同じ命令されるのだとしても、こちらの顔色を窺う気の弱い方より、自分の正しさを信じる強い殿方に命令して欲しいと思っております」
「…………」
「その相手がシンジ様である事が、わたくし共の願いですよ」
その言葉を最後に、メリーダは慎二から離れた。
慎二は目を見開き、顔を真っ赤にして固まったままだ。
肘が曲がり、手の平が広げられたその腕の形から、メリーダを抱きしめようかどうしようか、葛藤していたのがわかる。
僅かではあるが、そんな慎二の行動を、可愛く感じられるようになっていた。
「それでは、失礼いたします」
一礼してメリーダが部屋から出るとようやく、慎二は大きな溜め息を吐いて体を弛緩させる事ができた。
「……………………抱きしめた方が良かったんだろうか……」
どうやらメリーダの教育は、まだまだ先が長いようだった。
奴隷落ちから戦争の便利屋として過ごしていたせいか、指示待ち人間になってしまっているシンジ君と、育成に喜びを見出すメリーダ。
win-winの関係ですね()。
次回から新章開始します。




