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ケモノケモノノケモノ

作者: 冬澄

語彙も乏しく、拙い文章ではありますが、読んでいただければ幸いです。

 

 初夏の湿った生暖かい風が吹く。

 鬱蒼と繁った山に沿うように電車が走る。

 既に日は沈み、辺りは青い闇に包まれつつある。


 男は、見たこともない異形の生き物を前にして、異形の、曖昧な混沌とした世界を前にして、今、その中へ飛び込もうとしていた――――







 …人間を、やめたい。

 男はとある企業の経理をしていた。大企業とはいかないものの、十分安定した企業と言える。

 しかし、何故か男は自分の現状に苦しんでいた。


 兄が結婚し両親と暮らし始めたため実家を出て独り暮らし。何年か前にひどい振られ方をしてから彼女はいない。

 仕事はそれほど辛くはない。骨の折れる仕事を任されたり神経をすり減らすことも度々あるが、何かアイデアを出したり工夫したりする必要はない。難易度も一般的な会社と同じであろう。いや、むしろブラック企業なんかに比べれば、大分楽である。

 上司は横暴だが、決して自分が強いたげられている訳ではない。失敗すれば謝り、機嫌をとるためにニコニコしていれば向こうは自分のことは特に気にしていなかった。

 先輩や同僚もいる。先輩や同僚の雰囲気や話に合わせ、当たり障りなく、仲良くできている。飲み会にも行く。



 つまり、男はこの男を取り巻く世界においての立ち位置を一応は確保しているのである。


 しかし、男は現状に苦しんでいた。


 確かに人間関係と仕事。それなりに上手く生きている。しかし、自分を特に可愛がってくれる上司はいない。心を割って本音で話し合える友人はいない。何というか、波長の合う人がいない。自分は元々人気者ではなかった。口下手で、空回りすることが多かった。かといって嫌われつづけて来たわけではないが、どうしても「生きづらさ」を感じてしまう。学生時代の友人とももうずいぶんと会っていない。おそらくこれからも会うことは無いだろう。食らい付くように必死になってやりとげなければならない仕事もない。仕事に対する充実感も無い。

 探せば他に、もっと楽しいことはあったはずなのに、何も思い浮かばない。

 すべてがピンとこない。


 ちょっと人よりも残念だけど平凡にいけているのだからこれでいいじゃないか、現状に満足しなくては、と自分に言い聞かせてみても、益々鬱々とした気持ちになる。惨めになる。決して特別な存在になりたかった訳ではないけれど……


 この人間社会の歯車に組み込まれて、このままただ回されるだけになってしまうような気がして。一つくらい外れてしまっても回転には問題ない小さな部品として歯車の重なりにくっついて、寿命がくれば呆気なく外れてただの屑鉄になってしまう、そんな気がして。


 いなくても困らないけど、いたいならいてもいいよ、と言われているような気がして。





 本当はこの世界で思いっきり生きたいのに、自分にはできない。本当はこの世界だって輝いていることを知っているのに、自分にはその輝きを見ることはできない。

 この世界は自分のための世界ではない。そう思ったら、妙に景色が綺麗に見え、同時に憎たらしく見えた。

 冬の曇り空の隙間から差し込む光を見ていると、吸い込まれてしまいそうで、吸い込まれてしまいたくて、そう思うと少し怖くて、それでもそれがひどく魅力的に感じられた。




しかし、この世界で生きていかなくてはならない。


人間である限りは。





 ある日、男は屋上のベンチに座り、弁当を食べていた。ここは都会とは言えない。少し遠くを見れば田畑も見える。枯れた草と土の匂いが風に混ざっている。冬の終わりは近く、日の光がやわらかく広がって、屋上は暖かい。

 不意に、光を遮って、何かが男に近づいてきた。


「先輩。」


 しまりの無い顔の、少し明るい茶色の瞳が男を見下ろしている。先輩と呼ばれた男はにへっと笑うと、男の横に腰を降ろし、弁当を広げた。


 二人はぽつりぽつりとした会話と共に、風で弁当の蓋が飛ばないように注意しながら食事を続けた。

 この先輩は先輩らしくなく、歳も男と近い。彼は特に何の業績も手柄も上げず、人柄もぼんやりふわふわしている。どの上司も彼に無関心で他の社員や部下からもなめられきって、後輩からタメ口で話されることもしばしばである。

 この先輩と男は、親友とまではいかなくとも、もやもやとした思いを抱える者同士、割りと気さくに話し合える数少ない仲間である。といっても、時々一緒に昼食を摂る程度であるが。それでも男にとっては、他の同僚との食事の時とは違って、この上司との会話は楽だった。この先輩が同僚であったり、もう少し権力を持っていたら、現状はもう少し違ったかもしれない。


 その先輩が、弁当を掻き込みながら、不意に突飛なことを言い出した。


「俺さ、会社、やめよっかな」

「え、本当すか。やめてそのあとどうすんですか」

 一応先輩なので男は敬語を使う。

「…人間、やめたいなー」

「……何言ってるんすか。やめてどうすんですか」

「お前も人間やめたいって思ったことくらいあるだろ。もし人間やめれたらさ、獣になって、どこかの森とか山の中で生きてくんだ。そりゃあ辛いだろうな。餌も自分で採らなきゃいけないし、他の生き物に襲われるかもだしな。冬は寒さに震えなくちゃいけない。」

「…そこまでわかってんならなんでそんな軽はずみなこと言うんですか」

「でもな、何もかもしがらみの捨てて、本能のままで生きていけるんだぞ、この社会の枠組みから離脱できるんだぞ。獣になっちまえば、人間の時には厳しかった自然の中の世界も、それが当たり前になって、何とも思わなくなる。それに」



 今まで少し笑いながら話していた先輩は急に静かな声で言った。

「軽はずみじゃねえよ。本気だ。」





 それから数ヶ月後、その先輩が行方不明になった。





 会社は一時期その先輩の噂話で盛り上がった。樹海へ自殺しに行ったんじゃないかとか、まだバレていないだけで実は会社の金を横領して逃げたんじゃないかとかいう話が錯綜した。

 このときばかりはその先輩は注目の的だったが、一ヶ月もすると完全に忘れ去られた。机には新しい社員が座り、今まで通り、当然のように、会社は回っていった。



 また一月経った。季節は初夏。

 男はそろそろ限界だった。

 どこにも馴染むことができない。そこに居ることはできても、ただ居るだけである。表面上は楽しそうにしていても、作り笑いを必死に隠し、なんとか皆の面白がることを言おうとして墓穴を掘って取り残される。そうしてまた今日も他の誰かでも出来る仕事をやり、残っている上司に頭をさげる。



 自分が生きるのが下手なのが辛いのではない。いくら生きるのが下手であったとしても生きていけた筈なのだ。この世界でなかったら。たとえ厳しい環境の中で死んでしまったとしても、すくなくとも今よりは納得出来る筈なのだ。それは自分にとっては「生きていけた」ということになるのではないだろうか。




 自分は実は、社会に受け入れられた除け者なのではないだろうか?



 除け者として、社会の下層に置かれるために招かれたのではないだろうか?






 ある日、黄昏時に、男は電車に乗っていた。

 訳あって仕事の関係でこの田舎の路線に乗っている。見渡しても、男の乗っている車両には子供連れの母子だけで、他の車両にも人はまばらだ。



 夕闇の迫るなか、日が山に沈んだ直後、逢魔時。辺りが青く薄暗く見える山沿いを電車は走っていた。線路の脇すれすれまで山が迫り、電車のすぐ横の斜面は木々や草が鬱蒼として、少し奥方はもう真っ暗になって何も見えない。




 そのときだった。





 男は、電車と平行に横の斜面を駆ける姿に気がついた。

 辺りは薄暗い夕暮れ。男は目を凝らす。



 それは、人間でもなく、獣でもない「何か」だった。四本足で地面を蹴り、電車と同じスピードで木を避けながら山の斜面を駆けている。

 大きさは170センチ程で、身体中に毛が生えている。目は片方が顔の横につき、もう片方は顔の前についている。崩れた猿のような顔の横につく耳は片方は尖って毛が生え片方は地肌が見えている。普通の動物にしては耳の位置が下過ぎるし、不自然である。そのアンバランスで滑稽な毛の生えた顔をこちらへ向けている。人であるような、獣であるような、滑稽で哀れな姿が、それでも誇らしげにこちらを見ている。焦茶色の瞳が、じっと男を見据えた。





「…っ、せ、ん、ぱ……っ」





 それは、獣になりたくてなりきれなかった人の姿であった。

 必死にもがいて、皮を突き破って、それでも獣になりきれなかった生き物の、成れの果ての姿であった。

 人と獣が混ざった、あと一歩届かぬ姿であった。

 いつもは決して表に出さなかった悲鳴を、体全体で表しているようだった。



 相変わらず電車は走り続けている。

 苔に生えた白い花が一瞬だけ見えてあっという間に後ろへ流れて行った。


 男は、引き寄せられるように非常出口へ向かい、ドアノブに手を掛けた。思いの外、すんなりと空いた。湿った風が吹き込んでくる。



「あっ」




 そのときようやく、電車に乗っていた子供が車両の外のケモノのような異形の生き物に気がつき、声をあげた。


 その瞬間男は窓の外へ飛ぶと、ケモノの体に飛び付き、しがみついた。ケモノは男を乗せると電車から離れ、風のような速さで木々を掻き分け、森の奥へと消えていった。




 その後二人の姿を見た者は無い。



お読みいただき、ありがとうございました。

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