7,ラピュタに観るファンタジーの本質
ファンタジーについてあれこれ思うことはあるんですが、それをいちいち列挙するのは不毛だと思います。揚げ足取りみたいでなんか嫌だ。なろうのテンプレ化、のようなことに対して論議がしたいのであれば、『ゲド戦記』の作者で有名なアーシュラ・K・ルグウィンが、『いまファンタジーにできること』という本のなかで実に的確な批判をしているので是非とも一読なさってください。以上、広告終わり! アンチやディスるなら向こうでやってくれればいいんです。この手の話は不毛な愚痴り合いになってしまうから意味ないですよ!
てのはまあ笑いながらさておき。
個人的には妙なファンタジーを漁りまくるよりかは、かの有名なジブリ映画『天空の城ラピュタ』を百回観た方が良いです。思うにあの作品のなかにはファンタジーの本質が凝縮されている。まあそれは私の勝手な思い込みですが、少なくとも私はそう思ってる。観てない人はここから先は止めておいた方が良いです。じゃんじゃんネタばれしてくんで。
この作品のあらすじは、鉱山の町に住む少年パズーが、或る日空から降りてきた少女シータを救うことから始まりますよね。そこから彼女が持っていた「飛行石」という、不思議な力を持つ宝石を巡って、空賊やら軍隊などが入り混じる冒険活劇としてこの作品は展開していきます。
異世界描写としての魅力は、宮崎駿一流の飛行船の造型を始め、鉱山のイラスト的な風景、白眉はやはりタイトルにあるラピュタの姿です。また、ムスカ大佐やドーラ一家を始め、強烈な印象とヴァイタリティーを持った人物がグイグイとストーリィを引っ張っていくのも良いですよね。
さて、ここで私は、少なくとも「ファンタジー」作品はエンタメとして機能していないといけないということが言えます。もちろん小説自体面白くないとあかんのですが、第二章及び第三章で述べたように、「子供が純粋に楽しむような面白さ」がファンタジーには多く望まれるでしょう。この場合(というより多くのファンタジー作品には)冒険活劇がある。
「冒険」には常に夢と浪漫があるために、ファンタジーの素材としてしばしば用いられます。或いは、「戦争」や「恋愛」。かつて古典的な物語や、神話や伝説に於いても、英雄は雄渾な冒険に出たり、戦争のなかで超人的な活躍をしたりします。そこでは必ずと言っていいほど美しいヒロインとの恋愛などがついて回りました。例外は少なからずありますが、「冒険」「戦争」「恋愛」の三要素は形を変えながら古今東西の作品に連綿と受け継がれているのです。そして、その三要素のうちどれかの始まりに物語の始点を置き、またどれか三要素のうちで決着がつく地点を物語の終わりとすることも、また多い。もしこの枠に収まらぬとするならば、もはやその物語は一つの「人生」、ないしは一つの「時代(歴史)」を描こうという試みに等しいでしょう。そもそも、「歴史(history)」とは「帝王の物語(his story)」でありますし、語源となったギリシャ語の「ヒストール」は、「物語る」という意味を含みます。物語の基本構造、つまり人間の関心はかねてより昔から変わらないことが窺えます。
おっと脱線しました。しかしもう少しばかり続けます。ファンタジーには上記に表れる物語の基本的な要素を持っていることは以上に書いた通りで、それを土台に得ることで、広い人間的な関心を得ることができたのです。ですが、上記の要素に加えて、必要なものがあります。そう、空想です。ときに幻想と呼ばれ、異世界と呼ばれるものですが、今回は空想で統一しましょう。空想的な要素がない物語は、殆んどの場合「歴史小説」や「恋愛小説」の方に寄ります。そもそも事実そのものを筆で潤色するしかない、という点でどの小説も空想的な要素を持っているのですが、それは目を瞑りましょう。言うとキリがない。
そこで、ラピュタの話に戻ります。ラピュタの空想はどこにあるのか? 一目瞭然、飛行石とラピュタそのものです。それ以外の世界観は、吾々のよく知る現実や歴史から素材を得たものであり、したがって空想的ではありますが、空想そのものではない。
少年少女は様々な事件を経たすえに、ファンタジーの象徴とでも呼べる、ラピュタへと冒険して行きます。ここで、というか私の話したい最も重要な点は、ラピュタを巡る登場人物たちの考え方のことです。
ラピュタは古代文明が築き上げた、超テクノロジーの遺跡です。飛行石の持つ不思議な力があれば、超テクノロジーは甦ると言われています。そうでなかったとしても、遺跡の中には金銀財宝・骨董品が山ほど隠されており、知った人ならば誰でも興味関心をそそられずにはおれないでしょう。
では、このラピュタを探索したのは誰だったのか? パズー、シータ、ドーラ一家、そして将軍を含む軍隊と、ムスカ大佐の五つです。このうち前三者は生き残り、後二者は死んでしまいます。別に私はここに作者の思想や寓意があるとは思ってはいないのですが、ファンタジーの極めて本質的なものを、ふと感じます。それは「『ファンタジー』というジャンルはそもそも誰のためにあったのか」ということを強く突き付けているような気がするのです。
ところで物語には夢と浪漫があると燃えますよね? しかし夢と浪漫のあるファンタジーには、或る欠点があります。それはトールキンの指摘した「現実逃避」の作用です。トールキンはこれを肯定的に捉えました。複雑で辛い現実からいったん「逃避」し、夢や浪漫などで心が「回復」したり、ハッピーエンドによって「慰め」られる効果があるのだ、と。しかしこれは一方で荒俣宏が指摘する「リゾート地への引きこもり」のような安易な快楽に浸るか、または根拠のない夢想家(いわゆる「厨二病」ですね)に成り果てる、などの危険性があります。これはかつてロマン派文学が台頭してきたころから存在しました。ゲーテがウェルテルを自殺に追い込み、ネルヴァルが狂気に囚われたように、夢と浪漫はその強い魅力とは裏腹に、現実への深い幻滅や、中毒性のある耽溺へと誘い掛けてきます。
そこで、私は「敢えて」ラピュタの登場人物たちに一つの思考の暗示を与えて置こうと思います。まず、パズー少年には「無邪気なロマンチスト」、シータには「控えめなリアリスト」、ドーラは「現実的な人情家」、将軍は「低俗な欲求・願望」、ムスカ大佐は「野心」です。
パズー少年は、最初、父親が発見したというラピュタの財宝の伝説を強く信じていました。それは肉親を信じる無邪気な心であったのかもしれませんし、人生の目標であったかもしれません。彼はいつか自力で飛空船を造り、ラピュタを探しに行くという主旨のことを初期の段階で述べています。そして、シータとの出会いと、様々な事件を経て、彼はますます確信していくようになります。
しかし、そこで軍隊が現れてシータを拐ってしまいます。物語はここで大きな転機を迎えるのですが、重要なのはパズーがドーラ一家と取引をするときの一言です。
「ラピュタの宝なんか要らない」
一方で、そのセリフの少し前でドーラは「海賊がお宝を狙ってどこが悪い!」と断言します。この時点で両者がラピュタに求めている中身が違うことが明らかです。
では、シータはどうだったでしょうか? 彼女は恐らく軍隊やムスカ大佐さえ居なければ、故郷を離れることなく、静かに暮らしていたでしょう。そのような気質であることは映画を観たことある方ならわかるかと思われます。彼女は決してラピュタの財宝や、その伝説に深い関心を持ちませんでした。彼女は言います。
「ラピュタの本当の姿が見たいんです」
この一言は、彼女の覚悟でもありました。望もうと望まないと、自分はかのラピュタと無縁ではいられない。それならば、せめて紛うことなき眼で、その真の姿を観なければならない。もしかするとそのころから滅びの呪文のことを思い浮かべていたのかもしれませんが、邪推なので止しておきます。
では将軍を含む軍隊はどうだったのか? 将軍は名目上「ラピュタの探索」の使命を担っているようですが、恐らく彼はムスカが述べていたように、「あれ(ラピュタ産のロボット)がなければ誰もラピュタのことを信じなかっただろう」うちの一人に数えられます。ゆえにその関心は任務の遂行だけにありました。しかしラピュタ内での彼の行動は、ひと言でいえば略奪です。ラピュタという「空想」には俗物な将軍の、「低俗な欲求・願望」を満たす無数の魅力に溢れていたのです。
しかしムスカはこれを「馬鹿どもにはちょうどいい目眩ましだ」と嘲笑います。この点、ムスカの眼は将軍の持っていた「低俗な欲求・願望」で濁されていないのです。彼は空想の世界の持つ、見かけの良さには惑わされなかった。サングラスの奥にある瞳は鋭く空想の持つ本質を見抜いていた。それは何か? 空想の持つ「力」でした。これを己れの意のままに扱い、ラピュタに君臨すること。これが彼の「願望」でした。ひいては「野心」である、と言えましょう。
言ってしまえば、ムスカの「野心」は将軍の「低俗な欲求・願望」と大差ありません。しかし彼には己れの「野心」を綿密に遂行するだけの頭脳と観察力があった。それゆえ、将軍は出し抜かれることになったのです。人知れず「野心」の初期目標を達したムスカは殆んど無敵でした。なぜなら、空想的な、つまり人の限界を超えて自由で強い「力」を手にしたからです。このためラピュタの暴君となった彼を批判するのは、生半なことではできなくなってしまいます。しかしシータは己れの保身を超えた意志で、飛行石を奪還し、ムスカを批判します。
「どんなに恐ろしい武器を持っても、たくさんの可哀想なロボットを操っても、土から離れては生きられないのよ!」
空想とは、「空を想う」と書きます。全てが空に向かうわけではなく、例えば無意味な「空」を想うかもしれません。しかし重力によって地面を離れることのできない人類が「空を飛ぶ」というのは一つの空想であり、幻想であったのです。実体を持たないという意味では「幻を想う」こともまた空想の一種であります。
シータはいくら強い「力」だったとしても空想に耽溺していては人は生きられない、と言ったのです。所詮人間は大地を、現実を離れては生きていけないのだから、と。
しかしこの真実の言葉は、ムスカのひと言によって薙ぎ払われます。そして有名なひと言。
「ラピュタは滅びぬ、何度でも蘇るさ。ラピュタの力こそ人類の夢だからだ!」
そう空想が持つ「力」こそ人類の「夢」であり、「願望」であり、「理想」なのである! 彼もまた真実の言葉を放ったのです。これはプラトンの「イデア」を、キリスト教の「千年王国」を、「ユートピア」を、「彼岸」を、「ここではないどこか」……「空を想う」試みは、常に人類の文明を新しい方向へと導き、進歩と発展をもたらすように仕組み続けました。たとえそれがどんなに荒唐無稽で、机上の空論だったとしても、人を魅了して止まなかったのです。
その「夢」を、「浪漫」を、決して吾々は嘲笑うことができません。シータが、人は現実(大地)無くして生きられないと批判したように、ムスカはムスカ一流の言葉で、人は夢無くして生きられないと反論します。「ラピュタは滅び」ない。それは現に創作界隈で溢れかえっているファンタジーを、いや、そもそも創作活動が未だに連綿と続いていることからして言を俟たない。
吾々は常に「ラピュタ」のごとき空想を抱き、膨らませ、思い描くことに憧れと喜びを感じる。その点に於いて創作者の夢とはつねにムスカ大佐の「野心」となんら違うことはない。唯その「野心」がムスカのように獰猛であるか、将軍のように低俗であるかの違いくらいしかないでしょう。
少年パズーがラピュタに抱いた浪漫は、一歩間違えばこのどちらかに転落しかねなかった。しかし彼はラピュタの伝説にも、財宝にも拘泥しなかった。何故か? 彼はそれ以上の価値あるものを見出せたからだ。それはシータやドーラ一家との友情であり、夢を夢のままにして置く優しさでした。夢は夢であるからこそ美しいのであって、手折ってはならないものなのです。ムスカ大佐のごとき野心が、その夢を、空想を土足で蹂み躙り、支配するくらいならば、いっそ滅ぼしてしまった方が良いのです。
「あの子達は馬鹿どもからラピュタを守ったんだよ」
ドーラがそう独語したのはそのためでした。夢から生まれた空想は、夢のなかに還さなければならなかった。さもなくば「低俗な欲求・願望」や「野心」がこれを手垢につけて、貶めるからです。 ドーラ一家はどうであったかはわかりかねますが、彼らはこれらに毒されていなかったとは言えましょう。どことなく道化じみている彼らのキャラクターには、つねに無邪気さやけれんみのない人の良さがありました。そんな彼らだからこそラピュタから生還し、「ささやかながら」財宝を手にすることができたのだと思います。
夢や空想を追う姿は輝いて見えます。しかしその夢や空想は叶わないことが殆んどでしょう、いや、空想は叶わないから空想というのかもしれない。しかし、無邪気に夢や空想を信じ続ければ、ささやかながら見返りがあるかもしれない。
結局のところファンタジーに往って還ることが許されるのは、「無邪気でいながら現実を直視できる子供たち」、ないしは「童心に理解を示し、それを忘れなかった大人たち」だけだったのです。
次は(前にも書いたのですが、削除してしまったので改めて)SAOとVRMMOについて書いてみたいと思います。