6,SFに思うことつらつら
SFについて思うのは「ヴィジョン」を持った作者様が何人いらっしゃるんでしょうかーってことだったりします。
「ヴィジョン」という言葉を使ったのはフランク・ハーバートなんですが、彼は『デューン 砂の惑星』という作品を書いてます。陰謀によってデューンと俗に呼ばれる砂の惑星に追放された、銀河帝国における公爵家の少年が、フレーメンと呼ばれる原住民と協力しながら父の仇を討つというのがあらすじです。世界観は広大で、緻密で、途方も無い完成度を誇りますが、はっきり言って、そこには科学らしい科学の探求はほとんど一切ありません。むしろ世界観だけ観ていると合理化されたファンタジーなのではないかと疑ってしまいます。しかし、ハーバートはエコロジーと人類の未来と云う遠大なテーマを持ってこの作品に取り組みました。このテーマを調理するためには、文学やファンタジーの枠内ではできなかったのです。もちろん、或る立場から見ればファンタジーの亜種と観ても問題ないでしょう。しかし『デューン 砂の惑星』は、紛れもなくSFだと言えます。理由は彼自身の言葉を借りると、「ヴィジョン」があるからなんです。
同じ意味で、私はオラフ・ステープルドンの古典SFも好きです。この人の作品はのちにSF作家アーサー・C・クラークや、科学者ダイソンなどに影響与えたと言われています。この人の代表作は『最後にして最初の人類』。二十億年にも渡る人類の未来興亡史を(たとい少し古さを感じたとしても)描いたこの作品、処女作とは言えないほど冷徹に作り込まれています。恐らく当時、第一次世界大戦が終わり、人類の未来に対する危機感があったのでしょう。彼の未来に対する関心は、実にSF的な深遠さとディテールを詰め込まれて世に出ました。
まあこれほどではないにせよ、SF作品が「唯のエンタメの一種」でも「ファンタジーの亜種」でもなかった理由は「ヴィジョン」を持っていたからだと思うんですよね。きっとSFを「思弁的小説(Speculative Fiction)」という解釈があるのはこのためなんでしょう。「ヴィジョン」を持ち、提示できたからこそ、SFは文学的に価値を認められ、多くの人の支持を勝ち得た。たぶん野田昌宏だったと思うのですが、「SFは絵だ」と言うのは、つまり「SFにはヴィジョンがなければならぬ」という確信でもあったかもしれません。
では「ヴィジョン」とはどういうところに現れるのでしょう? それは作中のテーマにあるのかもしれないし、世界観を支えるディテールのなかにあるのかもしれません。最近読んだ作家さんのなかでは、伊藤計劃の作品が飛び抜けて鮮烈な「ヴィジョン」を持っていた印象ですが、あんまし読んでないので「最近のSFは……」とは言わないようにします。
少し遡ると、やはりギブスンやスターリングは「ヴィジョン」を描くのが徹底した人たちだったと思います。彼らは、もはやテンプレ化していたSFの世界観に斬新なモティーフと熾烈な「ヴィジョン」を描いてみせた。ひと言で「ヴィジョン」とは言えども、今まで言葉だけの概念だったものを、視覚化するのもまた「ヴィジョン」の提示です。例えば『マトリックス』では仮想現実なるものが映画のなかでどう表現されるのかを非常に斬新な手法で表してみせた。これも一つの「ヴィジョン」です。結局は表現力や技巧が物を言うのかもしれませんが、SF作品はとりわけこの「ヴィジョン」を彫り込んだ作品ほどらしいなぁと感じるのです。
なるほど、確かに科学知識は使われていた方がらしいかもしれません。また、思弁がなければ毒にも薬にもならない娯楽小説と大差ありません。そもそも面白く思われなければ読まれないかもしれません。しかし「これぞSFだ!」と言えるSFの傑作には、「ヴィジョン」があります。それは人類の将来を見据えた洞察であるかもしれない。未来の社会風俗を五感に照らしてイメージできた世界観かもしれない。或いは、地球や日常のいわゆる「常識」の欠陥を突きつけるものかもしれません。かつてプレトレマイオスの宇宙観が、コペルニクス的転回によってガラリと変わったように、SFの持つ「ヴィジョン」は読む人間の世界観を変える力を持っていると思うのです。
その観点から見ると、例えば『ソードアート・オンライン(以降SAO)』そのものはSFとしてもファンタジーとしても読めるものだと思っています。仮想現実による新時代の娯楽は、中身はファンタジーかもしれませんが、夢のある一つの「ヴィジョン」だと思います。しかしそれ以降の「小説家になろう」をはじめ方々で見かけるVRMMO作品については、あまり保証することができません。読んでないからと言うのが大きいですが、これらの作品はSAOが提示してみせたような画期的な「ヴィジョン」を、果たして持っていたのかどうかが疑問であるからです。VRMMO作品はVRMMOの持つ限界や可能性を真に見極めようとしていたのでしょうか?
また同じ具合に、ロボット物に対しても疑問があります。私はさほどロボットアニメなどは観ていないのですが、ガンダムシリーズなどは、例えばスペースコロニーの生活や「ニュータイプ」などの概念を「ヴィジョン」として提示してみせました。宇宙世紀を離れてからも手を替え品を替え、テンプレ化した素材を調理してみせたり、深く掘り下げるなどしました。ところが、そうしたロボットに対する斬新なアイディアもなく、人型ロボットが白熱した戦いを繰り広げたり、濃厚な人間ドラマに焦点を当てたりするロボット物になると「別にロボットじゃなくていいんじゃね?」とは思うのです。それは中世ヨーロッパ世界観に電子レンジを持ち込むような斬新さはあっても、歴とした「ヴィジョン」の提示とはまた異なるものだと思われるからです。やはりやってくれるなら「ロボット」(まあ正確に言うと人型有人戦闘機みたいなもんですが)の概念を塗り替えるか、或いは「ロボット」と人の居る社会の新しい姿を見せて欲しい。
この手合いのマンネリズムは「スペースオペラ」(『STAR WARS』のようなもの)と呼ばれるサブジャンルも似たようなものでした。宇宙を股に掛ける冒険小説は、それ自体は魅力的ですが「アメリカの西部劇の舞台を宇宙に変えただけ」との批判があったのと同じようなものです。まあ昔からSF・ファンタジーの両ジャンルは混合しやすかったというわけですね。
つまるところ安易なモティーフの借用は、踏み台として用いられるのでない限り、ファンタジーの異世界描写と大差ないでしょう。ゆえに、私は「ヴィジョン」を提示することのできない自称「SF」作品は、なるべく自主的に身を退いて欲しいなぁと窃かに思っています。いやもし「ヴィジョン」が提示できなかったとしても、文章などの表現レベルで斬新なものを描いて欲しい。それすらできないなら、もはやSF失格です。クズと断言してしまいます。所詮私見に過ぎませんがね!