5,未来なSF・過去なファンタジー
こんにちでは例外がとても多いのですが、私はSFとファンタジーとを区別するときその原動力に意識していたりします。つまり、SFは未来的であり、ファンタジーは過去的であるということです。
SFの常套用語には殆んどと言っていいほど「未来」が出てきます。未来の科学技術、進歩した社会、未来からの使者云々。これは科学が人類の未来にどういう影響を与えるのか、という関心がSFジャンルを切り拓いてきたからだと思います。
まあもちろん例外は多くあります。『STAR WARS』の有名な冒頭部分「Long long ago……」はこの例外の極致にあります。あの作品って遠い未来のようでいて、その逆なんですよね! その点ではファンタジーだと思いますが、まあそれはさておき。しかしSF的である作品は、常に「未来」のイメージが付いて回ります。或いは、「宇宙」という広がりでしょうか。地球という重力と常識のなかから飛び出し、自由奔放に想像力が雄飛する……そういうイメージを持つことが、SF的だという印象があります。
一方でファンタジーには枕詞のように「昔々あるところに……」や「これはかつて英雄と呼ばれた男がまだそう呼ばれる前の出来事……」などと敢えて「過去」であることを強調するように書かれていることがあります。これは、ファンタジーの根幹にある「物語」の形式がそうだからです。
『源氏物語』の冒頭は「いづれのおほんときにや〜」と始まります。「どなた様の御世でありましたでしょうか〜」という意味ですが、これは物語の関心が過去のことであったことを指します。またこれに限らず、ファンタジー作品の素材となるような神話・伝説などは常に「世界の起源」や「かつてあった(とされる)出来事」に取材しています。『英雄コナン』シリーズは、アトランティスが滅んだ後で、かつ四大文明が出来る前の「ハイボリア時代」を舞台にしていますし『指輪物語』も天地創造から現代に至るまでの茫洋たる歴史のなかの「第三紀」を舞台にしてます。
もっとも例外はすぐに、しかも大量に見つかります。『ナルニア国物語』(完全なる異世界)しかり、『RDG』(現代を舞台としたファンタジー)しかり。……しかしファンタジー的なモティーフ、つまり妖精や竜などといったものは何らかの伝統性を持っています。上記の例で言うならば、ナルニア国のなかにはギリシャ神話の登場人物や、サンタクロースなどが現れますし、RDGのなかには神話・伝説に則った神々や術が出てきます。この伝統性をよく調べ、使いこなしたものほど「ファンタジー」は高い迫真性を持つことでしょう。ローマの詩人ホラティウスも『詩論』のなかで「新しい、つくられたばかりの語は、ギリシアの泉から湧き出す流れを控え目に引いてきたものであれば、信用を博することになろう」とか、「伝説に従うか、さもなければ首尾一貫した物語をつくること」などと書いているくらいです。これらは創作の一技法として、古来延々と続いているのです。創作者の方は是非御参考までに。
要するに、SFには「雄飛」、ファンタジーの方は「回帰」という印象の違いがあると思います。
思えばSFの傑作には読者を置いてけぼりにするものが多く、ファンタジーの傑作は故郷のような温かさを感じることが多いような気がします。もちろん初読時はみんな冒険をするようにワクワクしながら読むかもしれません。しかし二度目三度目と読み返すと、この相違がはっきりと分かれる感じがするのです。私は何度読んでもベスターの『虎よ、虎よ!』の超絶展開に置いてけぼりにされる感触を味わいますし、上橋菜穂子の『精霊の守り人』でチャグムがノギ屋の弁当に舌鼓を打つ温かさに喜びます。また同じように『2001年:宇宙の旅』のわけのわからない映像表現に想像力を廻らせたり、『ホビット』のビルボが、ホビット庄に帰って来ることに感動を覚えます。SF作品は常に新しい概念や、新しいガジェットで「革新的」であることを望み、ファンタジー作品は異世界を作り込む反面、どのような異世界であっても変わらない本質的で「始原的」な生が描かれている。まあ、異論反論はあるでしょうが、私はこう思うのですね。
その点に関しては、私は第二章の初めで言ったことを、言葉を変えながら延々と繰り返していく所存です。では、次回から感想欄などで言われているVRMMOやロボット物を含む、特定のパターン化についての私見を述べてみようかと思います。