4,ファンタジーと神話・伝説
現代の「ファンタジー」のイメージは、だいたいがトールキンの『指輪物語』によるものだと言って過言ではないでしょう。私はこの作品を始め、ルグウィン『ゲド戦記』、ロバート・E・ハワード『英雄コナン』シリーズ、タニス・リー『闇の公子』、パトリシア・A・マキリップ『妖女サイベルの呼び声』、荻原規子『空色勾玉』『白鳥異伝』『薄紅天女』三部作や『西の善き魔女』シリーズ、上橋菜穂子『精霊の守り人』シリーズ及び『獣の奏者』シリーズ、小野不由美『十二国記』シリーズ、宮崎駿のジブリ映画、または泉鏡花や澁澤龍彦の幻想文学などを堪能しました。読了してないんですが、『南総里見八犬伝』も立派なファンタジーだと言えますよね。最近の作家さんだと乾石智子さんの作品が魅力的で大好きです。
……またしても趣味をひけらかして申し訳ありません。ところで、これらを含む「ファンタジー」作品には多くの共通点があることに気付かれましたでしょうか?
一つ。これらの作品の多くは「神話的」「伝説的」であるということ。
これは前回の「童心」云々と大きく関わることです。特に、『指輪物語』が世界的な好評を博したのは、「新しい神話」を創作したからだとする批評が存在します。しかし、実は「創作された神話」は、トールキン以前、例えばハワードの『英雄コナン』シリーズや、ロード・ダンセイニの『ペガーナの神々』などですでに描かれています。また、ファンタジー作品は意図的であれ、そうではなかったとしても、ホメロスが『オデュッセイア』を謳ったように、一人の英雄や神々の、冒険や恋愛などをメインに据えることが多いです。もっともこの創作技法やスタイルは、古今東西の古典に共通していて、例えばトルストイの『戦争と平和』はロシアの叙事詩としばしば呼ばれるようなスケールで描かれていますし、ジェイムス・ジョイスの『ユリシーズ』という作品は、その構成を前述の『オデュッセイア』に借りています。
ここで肝要なのは「神話」や「伝説」とは物語の最も基礎的なものだということです。たとえどんなアレンジを被っても、アーサー王と円卓の騎士の物語の根幹は変わらないものですし、浦島太郎は玉手箱を開けてしまう。かぐや姫は竹から生まれ、月に帰りますし、ホビットのビルボは「往って還」ってくる。この変わらなさが、物語の本質なんだと思います。「国破れて山河あり」。たとえ現実社会の知識や観念が創り出した「国」が壊れたとしても、人間が持っている生の感覚は、物語のなかで脈を打ち続けています。私は、どんな異世界や文化を経ても変わることのないこの「体感」こそが、ファンタジーには欠かせないものだと信じています。
「体感」を持った物語は多くの共感と感動を惹き起こす引き金となります。だからこそ多くの名作傑作は「体感」を持って、時を超えてなお親しまれる。ゆえに古典となったりするのだと思うのです。壮大なファンタジーは常に神話的もしくは伝説的です。それは言い換えれば、古典だけが持つ堅固な芯を持っているという意味かもしれませんね。