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3,個人的なファンタジーの楽しみ

 次はファンタジーの方ですね。

 私はファンタジーの醍醐味とは「忘れてしまった童心を思い出す」ことにあるとしました。その根拠のようなものを、取り留めもなく書いていきたいと思います。


 先ず、忘れて欲しくないことが一つ。いわゆる「ファンタジー」とは「児童文学」の枠組みの中にあったものであるということです。つまり、空想物語は子供向けの物語であったという事実です。これについては、トールキンやルグウィンなどの大先生や、最近には上橋菜穂子さんなどの論文、エッセイなどを読めばだいたい分かるかと思われます。一般的に子供向けと言われる空想物語が、大人の読書にも堪えるとみられるようになったのは、いわば『ハリー・ポッター』が世界的なヒットを打ち出したころだったりします。むろん読んでいる人はそれ以前から読んでいますがね。

 ところで、この「子供向け」という言葉には二つのニュアンスがあります。一つは「子供騙し」的であるということです。これは空想という形式の持つ無意味性に由来します。つまり簡単に言うと「お説教」だったり「現実逃避」的であったりする側面を指しているのです。しかしもう一方では「子供のために真摯(しんし)である」というニュアンスがあります。

 子供というのは無垢なものです。無垢なゆえに残酷なほど己れの心に正直だ。素直に関心を持ったものにしか「面白い」と言わないし、つまらないものはどんな努力が背景にあろうとも「つまらない」と言う。しかし一度「面白い」とさえ思えれば、そこに意識を注ぎ込むように熱中することができます。この心の躍動感や、情熱の高まるワクワク感、魅せられる感覚などが、少なくとも「ファンタジー」と呼ばれる作品の中にはあると思われます。


 もちろん、これだけではファンタジーは冒険小説やロマン派文学などと大差ないでしょう。事実冒険小説やロマン派文学と銘打たれている作品の幾ばくかはファンタジーと同じ扱いで構わないとは思うのです。しかし、やはりこれまた私見から、ファンタジーには、上記の感覚とは別に「想像力の遊び」の感覚がないといけないと思うのです。


 第一章で「ファンタジーの歴史」はその気になれば世界文学の原初から探ることが出来ると言いましたが、私は、これを或る意味で「想像力が幻想と現実のあいだで戯れ続けてきた歴史」でもあると思っています。それは人間が言語を持つようになってから未来永劫繰り広げるものだと、感じるのです。

 もともと言葉は魔力を持っています。それは言霊思想だとか、魔術を信じるという意味ではなく、「あなたが嫌い」と言われて不快になるような感触に現れ出てくるようなものを指します。つまり、物理的に何もしていないのに、相手の感情や観念を操作できるということです。これを魔術的と呼ぶかどうかはまた別な話ですが、言葉遣い一つ、ニュアンス一つで人対人のコミュニケーションはかなり変動してしまう。何を信じ、何を疑うか。この行為自体も言葉によって為されている。私たちは、尤もらしい言葉の曖昧さにとことん振り回されるように出来ているようです。


 さて、いきなり小難しい話で申し訳ないのですが、つまり何が言いたいかというと、「ファンタジーの『原初(はじめ)に言葉あり』」ていうことです。例えば「人魚」なんて生き物は誰も見たことがありません。現実にあった試しもなかった。しかしそれにリアリティがあるとするならば、「上半身が人体で、下半身が魚だ」と表現した言葉があったからです。その言葉を元にして、視覚化され、様々なイマジネーションが膨らんだのです。ではこの表現には、なんら新しい造語があったのでしょうか? 特にはないです。人体も魚も見たり聞いたりすることのできる実物です。しかしこの両者を繋ぎあわせることで、非現実的な存在が出来てしまう。想像力とはかくも恐ろしくも面白い側面を見せてくれます。まあ、「人魚」は実際にはジュゴンを見間違えたのだとする解釈がありますが……。

 このように「ファンタジー」的なものは古今東西あらゆる文芸のなかから取り出せます。その気になればプリニウスの『博物誌』もファンタジー百科事典として楽しめることでしょう。それくらい、人類は長いこと幻想と戯れてきました。それは人類が言葉を喋り出して以来の宿命だと言ってもいい。その点に関してはいわゆる遊戯人(ホモ・ルーデンス)であります。「ファンタジー」に於ける自由な想像力の働きとは、言ってしまえば観念や夢幻の遊戯なのです。


 ところで或るSF愛好家がファンタジーを嫌いになる理由として、「ファンタジーでは異世界を舞台とするくせに、その登場人物は現代人のマインドを離れていない」というのを見かけました。しかし、思うにファンタジーの良さとはこの変わらなさの方ではないでしょうか。むろん現代人がその感性のままで異世界を土足で踏み散らかすのを称揚しているのではありません。むしろ全くの異世界に於いても本質的に変わらない人間の営み、と言いましょうか。もちろん本格的な異世界は、現代の安穏とした生活感覚とはまったく異なる価値観で生活するでしょう。その点で弱いファンタジーは氾濫しているとさえ言っていい。しかしファンタジーの醍醐味はその異世界の生活を「知る」ことではない。異世界の生活を「体感」し、読者に生の実感を蘇らせることにあると思うのです。

 少なくともSFには生の実感を蘇らせる効果はそう多くありません。むしろ(個人的な考えでいくと)SFとは既成の価値観を破壊し、未知の概念へと近づける力がある。ファンタジーにもその力がないとは言いませんが、しかし、ファンタジーがこんにちもなお「剣と魔法」や「中世世界観」に留まり続けるのは、既成の価値観を壊すためではなく、「どんな異世界に行こうとも、人間が生きていく本質が変わらない」ということを想像力のなかで強く実感するためではないか、と思うのです。


 かつて、ディ=キャンプという人は「ヒロイック・ファンタジー」という語を造り、「それは現実逃避小説であり、読者は現実世界を離れ、男は全て強く、女は全て美しく、人生は全て冒険に満ちており、全ての事柄が単純明快である世界へと抜け出す。そこでは誰も所得税だの、落ちこぼれ問題だの、公共医療制度だのを問題にしない」と表しました。ここに表れているように、ファンタジーには「所得税」や「落ちこぼれ問題」、「公共医療制度」などでがんじがらめにされた「現実世界」から「逃避」し、「全ての事柄が単純である世界へと抜け出す」ことが先ず必要なんだと思うのです。

 そして単純なことは一足す一が二であるように、誰がどう見ても変わることのない性質であることを指します。これは言い方を変えれば、原初的(プリミティブ)であるということであり、引いては社会知識を得る前の子供の感性に戻るということでもあります。常識や知識に囚われない感性で物事を捉え、溌剌(はつらつ)としたイマジネーションの世界で戯れ、楽しむ。それは時に願望に溺れるきらいがあるかもしれない。しかしこの喜びは、子供が遊ぶときの熱中と喜びと同じようなものです。


 (いささ)か強引になってしまいましたが、以上のような理由で、私はファンタジーの醍醐味を「忘れてしまった童心を思い出す」ことだとしました。他にも言いたいことはたくさんあるのですが、それは次回以降に少しずつ降ろしていくことにします。ちょっと、これ以上やると混乱すると思われるので……。


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