1-7.
避難者が待機している階へと辿り着いた彰弘と六花は先に上がっていた桜井と遭遇する。彰弘を非難するような桜井に六花が憤るが彰弘はなんとかその場を治める。
その後、黒髪少女が行っていた避難者名簿へと記名をし自らに指定された待機場所へと足を運んだ。
彰弘は鷲塚の案内で屋上へと続く扉の前まで来ていた。目的は煙草だ。
何故屋上なのかだが、この小学校には喫煙所というものが無い。そのため、平時は一度小学校の敷地外へと出て、近くの喫煙スペースまで行かなければならなかった。しかし今は平時とは呼べない状況だった。そのため、避難してきている他の人達に迷惑がかからず、臭いのこもらない場所として屋上が選択された。
鷲塚は屋上へ続く扉を開ける前に後ろを振り返る。
彰弘と少女三人を見るその顔は若干引きつっていた。
今ここには彰弘とその案内役としての鷲塚、屋上に来たいと言っていた六花とその友達の美弥。そして彰弘が最初に入った教室で名簿作りを行っていた黒髪の少女がいた。
鷲塚の顔が引きつっている原因は二つある。
一つは黒髪の少女だ。
まず彰弘を呼びに言った鷲塚だが、その彰弘から六花が屋上に行ってみたいと言っているということを聞かされ、屋上へ行く途中でその少女がいる教室へ寄った。そこで鷲塚は六花を呼んだのだが、なぜかその友達の美弥と黒髪の少女が付いてきた。
まだ美弥に関しては理解できた。六花の友達なのだから付いてきてもおかしくはない。しかし黒髪の少女は、六花ともその友達の美弥とも今まで接点はなかったはずだ。彰弘は論外で鷲塚にしても何度か話したことはあるが、それは教師と児童というだけで付いてくる理由にはならない。そして少女の性格的にも興味本位で付いてくるとは考えにくい。
鷲塚が六花を呼んだとき、少女達三人が話しをしていたのでその関係かと思ったりもしたのだが、黒髪の少女がチラチラと彰弘を見ているのを考えるとそれだけではなさそうだった。
二つ目は桜井の変わりようだった。
ほんの少し前まで別人とは言わないまでも、以前とは違った雰囲気だった桜井が先ほどの教室では、今までとほぼ変わらない状態だった。それだけなら問題はなく思えるが、教室を出た鷲塚や六花、そして彰弘にも謝罪してきた。しかも腰を直角近く曲げ、鷲塚達全員が赦しの声を出すまで身体を戻さなかった。特に彰弘に対してが一番謝罪が深いように鷲塚の目には映った。
鷲塚としたら彰弘に対して『何やったこの男』となるのである。
「さぁ、着きました。一応、落下防止の柵はついていますが、走り回らないようにしてください。後、柵から身を乗り出してもいけませんよ、危険ですからね」
そう注意を行った鷲塚は、外開きの扉を開け屋上へと足を踏み入れた。
それに真っ先に続いたのは六花だった。その顔は初めての屋上に興味津々といった様子で嬉しそうだ。少し遅れて美弥が困惑顔で扉をくぐった。その後を黒髪の少女が少し緊張した面もちで続く。最後に彰弘がため息をつきながら屋上へと足を踏み入れた。
この屋上は中央階段を昇りきったところに唯一の出入り口がある。そこから屋上に出て左右を見渡すとそれぞれ等間隔の位置に球状の物体が見える。それは昨年末から各地の避難所に急遽設置されていった非常時に使用する水を貯めて置くためのタンクだ。貯水容量は一つのタンクにつき二万リットル、つまり合計四万リットルが貯水されていることとなる。
鷲塚が言っていた通りの量が貯水されており、これなら備蓄されている飲料水と合わせれば、数日間は問題無く過ごせるであろうことが予測できる。
屋上自体には、この貯水タンクしか特筆すべきものは見当たらない。
しかし屋上から見える光景はそうではなかった。
少女三人が屋上の中央付近で立ち止まった。そして六花が声を上げる。
「うわぁ、山と森が見えます!」
彰弘が六花の向いている方向に目を向けると、この地域では決して見ることができなかったであろう光景が飛び込んできた。
「これは……凄いな」
地上からでは分からなかったその景色に彰弘の口から感嘆の声が漏れた。
山と森というだけならば、実家が田舎にある彰弘はここまでの表現をすることはなかったであろう。しかし視界に広がる光景は凄まじかった。
ある程度まではいたって普通の街並みなのだが、その先――小学校から数キロメートルほどだろうか――には樹海と言っても過言ではない広さで樹木が繁茂していたのだ。その広大さは、奥行きもさることながら幅も肉眼では左右の端を捉えることができないほどだった。
そして樹海の先に見える山脈の連なりも驚くのに十分であった。
その山脈はかなりの遠方にあるように見える。正確な距離など分かるものではないが、仮に平坦な道が小学校から真っ直ぐに山脈まで続いていたとしても、歩きでは一日や二日で辿り着けないであろう。
そして、そんな山々は富士山よりも遙かに山頂が高いことが見て取れる。
日本で――元日本と言うべきかもしれないが――それほどの標高を持つ山を見ることができるのは驚きでしかなかった。
「私もはじめに見たときは驚きました。この景色が世界の融合を示しているのでしょうね」
鷲塚が彰弘に同意し融合の事実を言葉にした。
「ま、それはさておきまして。榊さん、移動しますよ。煙草はこちらです」
感動っぽいものを感じていた彰弘ににべもなくそう言うと鷲塚は歩き出した。
彰弘はため息をつき、若干肩を落とし「了解」と、その後を追った。
少しくらいはこの驚きに浸らせてくれてもいいんじゃないかな? と心の中だけで思った彰弘だった。
彰弘と鷲塚の二人は校舎の後ろ側方向を見渡すことができる一角に陣取った。
こちらには山脈も森も見えない。
「とりあえず、ここを喫煙スペースとしましょう。灰や吸い殻は持ち帰ってください」
淡々と話す鷲塚に少し気を落としながら、彰弘はオイルライターと煙草、そして携帯灰皿の三つを取り出した。
そんな彰弘へ「後で好きなだけ見てください」と鷲塚は言い落下防止用の柵へと手を置いた。
仕方なしに彰弘は手に持った煙草へ火をつけた。
「では本題の前に。先ほども下で聞きましたが、本当に何もやってないのですよね?」
鷲塚が訝しげな顔で出したその言葉を聞きながら彰弘は紫煙を燻らせた。
「……榊さん、どうしました?」
本題の前に注意が必要だと感じていた鷲塚の目に怪訝な表情の彰弘が映り込んだ。
初めは自分の言葉に対しての反応かと思った鷲塚だが、彰弘の目が指の間に挟んでいる煙草に注がれていたため、問いかけた。
「なぁ、横にいて妙にバニラっぽい匂いがしたりしてないか?」
「言われてみれば……それ、ですか?」
若干の煙の臭いと強いといっていいバニラの香りに鷲塚は辺りを見回す。そして、その匂いが彰弘の手元から漂ってきているのに気づき指差す。
「ああ、元々バニラフレーバーが特徴ではあったんだ。しかし、ここまで強くは無かったと思うが……」
そう言って彰弘はポケットに仕舞い込んだ煙草のパッケージを取り出して、自分が普段から愛喫しているそれを確認する。
それにはどこにもおかしな所はなく、いつも通りのパッケージであった。
「まぁ、匂い以外は変わらんから、問題ないといえば問題ないけどな」
そう言うと彰弘は吸った紫煙を吐き出した。
すると辺りにはなんとも甘い匂いが漂った。
「問題無いなら今はいいとしましょう。それで話ですが……」
再度、話を切り出そうとした鷲塚の言葉を、今度は少女の声が遮った。
「バニラアイスの匂いがします」
いつの間に寄って来ていたのか、鼻をひくつかせた六花が彰弘と鷲塚のすぐ近くに来ていた。
六花の後ろにはその友達の美弥と、黒髪の少女が立っている。
「榊さん……」
鷲塚は少女達を一瞥すると、非難の視線を彰弘へ向ける。
「いやいや、ちょっと待て。そんな目を向けられるようなこと俺はしてないぞ。確かに匂いの原因は俺だが、これは不可抗力だろう」
流石に言いがかりだと彰弘は抗議の声を上げる。
「しかしですね、タイミング的に私の話を意図的に遮っている気がしてならないのですが」
「どんな超能力者だよ。俺にそんな能力は無いぞ」
彰弘は鷲塚に向けてそう言い放ち、六花へと顔を向けた。
「六花、バニラアイスなんて持ってないからな。匂いはこの煙草だ」
そう言うと、彰弘は火を点けたばかりの煙草を六花に見えるように少し持ち上げた。
その煙草をマジマジと見つめた六花は鼻をひくひくさせ匂いを確認する。
小動物的な可愛さを見せる六花に、ほっこりしながら彰弘は「な、嘘じゃないだろ?」と声をかける。
「むー。ほんとーです」
少し残念そうな表情をしてそう言った六花だったが、次の瞬間にはその表情は消え去り、代わりに興味が表れた。
「そうだ、彰弘さんと教頭せんせーは何のお話をしようとしてたんですか?」
六花の小さな口から発せられたその言葉に答えようと口を開きかけた彰弘だが、鷲塚が何の話をしようとしていたのかすら聞いてないことを思い出す。
そのため、六花にではなく鷲塚へ向けて声を出した。
「そういえば、何の話なのか聞いてないな。鷲塚教頭、話ってなんですか?」
話の内容の一部は、少女達に対する自分の態度的なものへの説教というか注意みたいなものだろう、と予測していた彰弘だがそれが主題とは考えられなかった。
もし仮にそれが主題だとしても自分の口から言うのは、何というか憚られた。
そんな理由で彰弘は鷲塚へと話を振ったのだった。
「そうですね、まだ何も話していませんでしたね。簡単にいうと今後についての行動を榊さんと相談したかったのですよ」
「あれ? 自衛隊の人達が来るまで、ここにいるんじゃないんですか?」
二時間ほど前に彰弘と鷲塚の話を一階で聞いていた六花は浮かんだ疑問を口にした。
「はい、基本的にはそうですよ、和泉さん。ですが、備蓄している食糧を校舎に運び入れないといけませんし……他にもいろいろと決めなければいけないことがあるのです」
六花の疑問に若干ぼかしをいれて鷲塚は答えた。
そのぼかした部分に気がついたのか六花は訝しげな視線を鷲塚に送る。
「教頭せんせー、何か……隠してます?」
「いえ、特に隠してはいませんが」
六花の指摘に平静を装い鷲塚は言葉を返す。
鷲塚は六花が考え込むように下を向いたその隙に、一瞬視線を彰弘に向けた後、六花の後ろに立つ少女達二人へと向け、再度彰弘を見てから視線を六花へと戻した。
その視線に気がついたのは彰弘だけだった。六花は下を向いており、その後ろの少女二人は六花に注目していた。彰弘だけが六花と鷲塚の二人を視界に入れていたため気がつくことができたのだった。
彰弘は鷲塚の視線の意味をすぐに理解した。鷲塚の視線には、六花をこの場から離して欲しい、という思いが見てとれた。
多分、鷲塚が六花に答えた「いろいろ」の部分に少女達に聞かせたくない内容が含まれているのだろうと彰弘は予想する。おそらくゴブリンのことなどが含まれていて、何も知らない少女達に聞かせると何かしらの悪影響があると鷲塚は考えたのだろう。でなければわざわざ鷲塚がこんな手を取るとは思えない。ただ、それなら六花をこの場から離す必要はないとも思えるが、六花の後ろに立つ二人の少女が六花に連れられた来たように見えることから六花がこの場から離れれば二人も一緒に離れていくと考えたのだろう。
彰弘は鷲塚を一瞥してから口を開いた。
「とりあえず六花。そう面白そうな話じゃないから、屋上を見てきたらどうだ? ついでに見張りについている先生方に挨拶でもしてきな。後ろの二人が無事なことは知っていても、六花が無事か知らない先生もいるかもしれない。大丈夫です、って安心させてあげるといい」
下を向いて考えていた六花はその声に顔を上げた。
そして「むー」と可愛らしく唸りながら彰弘を見る。その視線は鷲塚に向けたものよりは柔らかくなったが未だ訝しげな感情を表していた。
彰弘が、どうしたもんかな、と考えていると予想していなかったところから助け舟が入った。
六花の後ろで今まで黙っていた黒髪の少女が六花に耳打ちをしたのだ。そして彰弘と鷲塚の二人から少し離れたところで少女達三人は何やら相談らしきものを始めた。
彰弘は「あれは?」と鷲塚に顔を向けるが、鷲塚は「さあ?」と首を横に振った。
小声で相談する少女達の声は大人二人のところまで届かなかった。だからといって大人二人でこちらもと会話をするわけにはいかなかった。時折、少女達が二人の方を見ていたからだ。こういう場合はおとなしく待つのが定石だった。
微妙に手持ち無沙汰になった彰弘はフィルター付近まで燃え尽きた煙草を携帯灰皿に押し付けて火を消した。そして二本目を取り出し火をつけた。
彰弘が二本目の煙草を吸い終わり、ほどなくして相談が終わった少女達が大人二人のいる場所に戻ってきた。
「彰弘さん、わかりました。せんせー達に挨拶してきます」
打って変わった六花の態度に彰弘と鷲塚は目を見開く。
そんな大人二人を気にせずに六花は言葉を続けた。
「それでお願いがあるんですけど、後でどんなお話をしたか教えてもらっていいですか?」
六花の問いに彰弘は鷲塚を見やる。
彰弘の視線を受けた鷲塚は一度頷き、少女達へと言葉を発した。
「ええ、元々この小学校に避難してきている方々全員に話をするつもりでした。さすがにここで話した内容全てを避難者全員に伝えることはないのですが、重要な部分は話すつもりです。もし細かいところまで知りたいのなら、避難者への話が終わった後でしたら問題ありませんので榊さんに聞いてください。おそらく私は忙しくて話をしている時間はなくなると思いますので」
鷲塚は一気に言い切って少女達の反応を待った。
六花は一度後ろの少女二人に振り返り、頷きあってから身体を戻した。
「わかりました。んじゃ、行ってきます」
彰弘は何となく六花に違和感を感じながらも「ああ、行っといで」と少女達を送り出す言葉を出した。
その言葉で踵を返し歩き出そうとした六花だが、何かを思いついたのかその場でターンをして再び彰弘達に向き直った。
「忘れてました! 彰弘さん!」
いきなり大きな声で名前を呼ばれ彰弘は驚く。そしてそれは六花以外も同じだった。
鷲塚は目を見開き、六花の後ろで歩き出そうとしていた少女達もその声でビクリと動きを止めた。屋上で見張りをしていた先生達にも聞こえたのか何人かが彰弘達の方を見ていた。
「お、おう、六花、どうした? いきなり大きい声を出して」
「自己紹介です!」
「自己紹介?」
「はい。美弥ちゃんと紫苑さん、それと彰弘さんのです」
彰弘は言われて気が付いた。そういえばその二人にはしてなかったな、と。
四階で六花をに呼びにいったときには、なんだかんだでそのことを忘れていた。
「悪かったな。すっかり忘れてた。俺の名前は榊 彰弘という。よろしくな」
だから彰弘は素直に二人に向い自分の名前を口に出した。
いきなりのことで事態を把握できていなかったであろう少女二人だったが、彰弘が先に名前を言ったことで混乱しながらも、それに続いた。
「え、あ、わたしは柳 美弥です。よ、よろしくお願いします」
「私は望月 紫苑と申します。よろしくお願いいたします」
言い終わった美弥は胸に手を置いて安堵の息を吐き出している。
一方の紫苑は何故か微笑みながら彰弘を見ていた。
六花と違い、二人が名前しか言わなかったことに、妙な安心感を抱いた彰弘はそんな二人へ声をかける。
「ああ、よろしくな。美弥ちゃんと、も……」
「紫苑です」
「え?」
「紫苑とお呼びください」
「…………」
何かほんのちょっと前に誰かと同じやり取りをした気がする。そんなことを考えた彰弘だが視界に入った六花の笑顔に、そういや六花と同じやりとりをしたな、と朝の出来事を思い出した。
何から何まで違うように見える六花と紫苑だが、実は根本の部分は非常に似通っているのではなかろうかと、妙な予感を胸に彰弘は呼び方を変え言い直した。
そしてそれは正解だったようで、紫苑は恥ずかしそうにしながらも嬉しそうに「はい」と返事をした。
ちなみに美弥はどちらでも問題無いらしかった。
兎も角、そんなこんなで再び彰弘と鷲塚はその場で二人となった。
暫く少女達が歩き去るのを見ていた大人二人は同時にため息をついた。
「なぁ、鷲塚教頭。いろいろ言いたいことはあると思うが、俺はそんなに悪くないと思うんだ。どうだろう?」
鷲塚はその言葉で彰弘の言動や行動を思い浮かべる。
一階での六花とのやり取り以外は問題ないかもしれない。
桜井の急変に疑問は残るが、謝罪を受けた彰弘と謝罪を済ませた彼女の態度を見る限り何か変な事をしたわけではなさそうだ。
それに結果論ではあるが、今のところ彰弘の言動や行動は大抵の場合良い方向へと影響していた。
「そうですね、一階でのあれはありますが認めても良いかもしれません」
一階で六花を宥めていた内容には自覚があるため、それは彰弘も反省していた。
「そうだ、そっちの話に入る前に一つ聞いてもいいかな?」
「長くならないならいいですよ」
「さっきのことなんだけどさ、自己紹介って言い出す前の六花、なんか変じゃなかったか?」
彰弘は先ほど感じた違和感を鷲塚に話した。
「おそらく……ですが、あれは望月さんが仕向けたからではないかと思います」
少しの間をおいて口を開いた鷲塚はそう彰弘に答えた。
「仕向けた?」
「ええ、あなたも少しは話したでしょうから分かると思いますが、望月さんは小学生とは思えないほど考え方などが大人びています。ですからあのとき、こちらが何を考えているのか感じ取って、そのことを和泉さんに伝え、そしてこの場から引くように仕向けたんだと思います」
鷲塚は最後に「新人の教師とだとどちらが大人か分からなくなります」と苦笑と共に付け加え、口を閉じた。
「大人びているとは思ったが、そこまでか? 確かにさっきの自己紹介や教室での説明してくれた姿は大人びているとは感じたが、ちょくちょく少女らしい仕草を見せてたぞ」
彰弘は教室でも紫苑を思い浮かべそう口にした。
「そうでしたか。そうなると今回の異変には感謝するべきかもしれませんね」
疑問を浮かべる彰弘に鷲塚は言葉を続ける。
「私は望月さんがあんなに楽しそうに同年代の子と話しをしているのは始めて見ました。それはあなたと和泉さんのおかげかもしれません」
鷲塚は楽しそうに話しながら歩く少女達を見つめていた。
五年前にこの小学校に赴任してきた鷲塚は、赴任して来てから今まで紫苑のあんな楽しそうな顔を見たことはなかった。原因は紫苑の受身な性格にもあっただろうし、プライベートにもあっただろう。しかし自分達教師にもその一端はあると鷲塚は考えている。数年前からその兆候はあったが今年度に入り、一部の教師はまだ小学生の児童でしかない紫苑を、自分達と同列に考えている者もいたくらいだ。何とかしなくてはと思っていても、結局何もできずに今この時まで来てしまっていた。
だから今、楽しそうに話す少女を見て鷲塚は何ともいえない嬉しさが込み上げて来ていた。
歳相応の笑顔で話しをしている紫苑は、いつもの大人びた雰囲気を感じさせない、いたって普通の女の子だった。
「鷲塚教頭、なんか愛娘を見守る親父の顔になってるぞ」
紫苑達を見つめる鷲塚へと、顔に笑みを浮かべた彰弘は声をかける。
「今はここ数年の問題が解消したところなのです。少しくらいいいではないですか。それに娘を見守るなんて行為は今しかできそうにありません」
「あなたの子供は?」
「いることはいますが息子です。それもすでに親元を離れて働いています」
「そうだったか、今の状況で聞いちゃ悪かったな」
「いえ、気にしないでください。それよりもそろそろ話を戻しましょう。といっても、まだ始めてすらいませんでしたが」
「脱線どころか、初っ端から別のレールだったな」
彰弘と鷲塚は二人で顔を見合わせ苦笑した。
結局のところ二人には、六花が何を言われたのか紫苑が何を言ったのか想像すらできなかった。しかし目線の先で楽しそうに話をしている少女達を見て、深く考える必要は無いだろう、そう結論付けたのだった。
「では、始めましょう」
鷲塚は先ほどまで穏やかだった表情を引き締め言葉を出した。
そして彰弘がそれに頷くのを確認し本題を口にした。
「まず先ほどまで続いていた議論の結果ですが、二日間様子を見てそれから移動を検討するということになりました。これにはすぐにでも移動すべきだと主張していた方々も同意しています。次に備蓄品についてですが、これは昼食後に軽い打ち合わせを行い校舎に運び込むことになりました。これは今この避難所へと避難してきている方々全員で行うことになります。無論、外に出るのは危険が伴う可能性があるため、児童やご老人それに女性は、校舎で見張りや外から運び込まれた備蓄品を四階まで運ぶ作業を行っていただく予定です。外での作業は成人男性が行うこととなります」
そこまで言った鷲塚は一度言葉を区切り、彰弘の反応を待った。
彰弘は鷲塚の言葉を頭の中で整理する。そして確認すべき点をがないかを黙考した。
暫しの後、彰弘は口を開く。
「様子見が二日間だけというのは短いと思うがそれは仕方ないとして、外に出た男は全員が荷運びを行うのか?」
校舎、つまり屋上からの見張りだけでは死角となる場所があるのではないかと彰弘は考えていた。
彰弘はこの小学校の敷地内について詳しくは知らないが、校庭側だけでも屋上からは死角になりそうなところがいくつか見て取れた。そのための鷲塚への問いだった。
「いえ、何名かは校庭で見張りに専念していただく予定です。この小学校の敷地への出入り口は三箇所あるのですが、どれも鍵を掛けるタイプではありません。ですから校舎で見張りをしてもらう方には主にその出入り口を見ていただき、校庭で見張りをしていただく方には屋上からは死角となる倉庫の間を見ていただく予定です。後は校門方向にも見張りを置く予定でいます。校門側はフェンスではなく壁となっているのでその壁に沿って移動をしているものは屋上からでは角度的に見えないのです。ある意味一番注意しなければならない方向かもしれません」
鷲塚の返答に特に問題を見つけれなかった彰弘は理解した旨を伝えた。
それを受けて鷲塚は再度口を開いた。
「後は防火扉についてなのですが、校舎内に危険が迫るまでは閉めないこととなりました。これは今閉めたりしたら必要以上に避難してきた方々を不安がらせる恐れがあるからです。ですから実際にゴブリンなどが校舎に入って来る可能性を察知したときに閉めるという事になります」
透過性の無い防火扉は現状と相まって、校舎内にいる人達に圧迫感と共に閉じ込められたという感覚を与えるであろうことは想像に難くない。そうなると精神に与える影響は推して知るべしだ。
だから彰弘はそれは仕方ないことだと声を出した。
「それは仕方ないだろうな。無理矢理閉めて、いざというときの行動に支障が出たら目も当てられない」
鷲塚は彰弘の言葉に頷くと、三度口を開いた。
「ここで話そうとしたことは、これで最後となります。榊さん、昼食後に行われる打ち合わせに参加してください。そしてその場でゴブリンの倒し方……いえ殺し方を皆に伝えていただきたい」
「参加するのは構わないが、ゴブリンへの対処法なんて人間相手と変わりはないぞ。俺なんかより鷲塚教頭、あなたが説明した方がいいんじゃないか?」
「いえ、実際に戦ったことがある、あなただからこそです。私はそのゴブリンを見たことすらないのです。そんな私が言ったところで意味がありません。あなたならば、ゴブリンの姿や行動についても私なんかより、ずっと詳しく説明できるはずです。ですからあなたにお願いしたい」
そう言った鷲塚は彰弘へとその頭を下げた。
鷲塚の言い分は言われてみればその通りだった。
確かに見たことすらない者が説明をしたとして説得力に欠けるだろう。それに必要な情報を全て聞いていたとしても無意識の内に不要と判断した情報を伝えないことがありえる。
これは実際に戦った者とそうでない者の差といえる。決して戦ってない者――今回でいえば鷲塚が――に危機感がないというわけではない。ただ実際に戦っていない者には実感としての危機を感じることができない。それが危機感の質の違いとなり、結果的に本来は伝えなければならないことを省いてしまうことへと繋がる。
真剣な表情で頭を下げる鷲塚の意図に気が付いた彰弘はやや間を空けてから返答する。
「分かったから頭を上げてくれ」
鷲塚が頭を上げたのを確認して彰弘は言葉を続けた。
「まったく。鷲塚教頭、あなたは自分を過小評価しすぎだろう、ついでに俺を過大評価しすぎだ。とりあえず説明の件は引き受けた。ただフォローはよろしくな。俺、プレゼンは苦手なんだよ」
そう言って彰弘は煙草を取り出し火をつけた。
本日は二話連続投稿しています。
この話はその二話目となっております。