第一話「運命の出会い」
まだ時折肌寒さを感じることもあるが、テレビでは日本各地の桜の開花宣言が報道され、少しずつ桜前線が北上し始めている。
冬の間はどこか寂しげだった公園の花壇も、ここ数日の陽気に誘われたのか色取り取りのチューリップが綺麗な花を咲かせていた。
公園のあちこちからメジロ達の甘い歌声も聞こえて来る。
『は~るがき~た~、は~るがき~た~、ど~こ~に~きた~♪』
『ここに来た!』
『や~まにき~た~、さ~とにき~た~、の~に~も~きた~♪』
『山はまだ雪積もってるよ!』
……よく聞いてるとメジロ達の大合唱に混じってスズメが所々で変な合いの手を入れていた。
しかし、なんで歌のチョイスが“春が来た”なのかは謎だ。去年は“さくらさくら”を歌ってたのに。
「春だな~」
そう、春である。
多くの人にとっては新しいことを始めたくなるような、わくわくと心が弾むような、どこか希望に満ちた“始まりの季節”だろう。
「……はあぁぁ」
見上げた先にある色付き始めた桜の花に、私は春には相応しくない大きな溜め息を吐いた。
◇◇◇
教師にとって、春休み程多忙な“休み”もないと思う。
生徒達は宿題もないこの長期休暇を満喫しているんだろうけど、私達教師にはやるべきことが山のようにあるのが春休みなのだ。わずか二週間の間に指導要録――内申書のようなものだ――を書いたり、新年度の準備をしたり、新しい教材を選定したり、職員会議で一年間の教育計画を立てたりしなければならない。
しかも、春休みが終われば始業式、入学式と続けざまに行事がある。正直、無事に卒業式が終わったことを喜ぶ暇もない。
だから、私にとって春は異様に忙しい季節でしかなかった。
『は~ながさ~く~、は~ながさ~く~、ど~こ~に~さく~♪』
『顔!』
それは“鼻”でしょ。
スズメの合いの手に思わず心の中でツッコんでしまった。いや、鼻は突然咲いたりはしないけどね。
メジロ達の歌をBGMに、軽快に自転車のペダルを漕ぐ。
春らしい暖かな日差しと爽やかな風が心地良い。ふわりと漂う花の香りが、仕事で疲れた心を癒してくれるようだ。
草花が溢れる公園の雰囲気に安らぎを感じていると、どこからか泣き声が聞こえて来た。
『うわあぁぁん。たかいぃ~』
……何?
その幼い泣き声に辺りを見回す。
“高い”と言ってるからには上の方にいるんだろうと思い視線を上げると、声の主は近くの木の枝にしがみ付いていた。
「子猫?」
ここからではよく見えないが、体がかなり小さいので生後二~三か月と言ったところか。
……ああ、登ったけど降りられなくなったパターンね。
枝の上でプルプルと震えながら地面を見つめている姿は、違う子猫で何度も目撃したことがあったので、たぶん間違いない。
『だれかぁああぁ! たすけてえぇぇ!!』
泣き声のボリュームが上がった。
さすがに、泣き叫ぶ子猫を無視して帰れる程私は鬼畜じゃない。
「……はぁ。見捨てる訳にもいかないし、ね」
溜め息を吐きながら自転車から降りて、子猫がいる木の下まで移動する。下から見上げた枝は意外と高く、3mはありそうだった。
「おーい!」
声を掛けると、その子猫は私の存在に気付いたのか縋るような目を向けてくる。
枝に必死にしがみ付いている子猫を怖がらせないように優しく笑い掛け、腕を広げてみせた。
「ちゃんと受け止めてあげるから飛び下りて!」
『たかいぃ~、むりぃ~』
「……どうやって登ったのよ」
“知らない”とばかりに首を横に振る姿は可愛らしいが……知らないじゃないだろ。私は木登りなんてできないから、キミが自分から飛び降りてくれないとどうしようもないんだよ。
何度か子猫に降りて来るように言ってみたが、パニックになっているのか只管助けを求め泣き続けている。
仕方ないので、諦めて別の救出方法を考えることにした。
……脚立か何かないかな。
大き目の台でもあれば、なんとか私の身長でも子猫のいる枝まで手が届きそうだ。脚立は無理でも、代わりになるものが何かないかと辺りを見回した。
「…………自転車、か」
あれのサドルに膝立ちしたら子猫のところまで余裕で手が届くはずだ。
幸い、私の自転車は後輪軸を左右から挟む形で取り付けるタイプの両足スタンドである。多少不安定かもしれないが、まあ大丈夫だろう。他に良さそうなものもないし。
「ほら、受け止めるから。早く来なさい」
『むりぃ~』
「大丈夫だから!」
自転車のサドルに膝立ちになりながら子猫を叱咤する。……周りに人がいなくてホント良かった。今の私の姿は、下手した通報されかねない怪しさだと思う。
『…………ほんとに、だいじょーぶ?』
「大丈夫! ちゃんと私が受け止めてあげるわ」
そう言って強く頷くと、子猫は意を決したように私の腕の中に勢い良く飛び込んで来た。
『……っ、えいっ!!』
「えっ、ちょ……危なっ!?」
咄嗟にその小さな体を抱き留め、手のひら越しに伝わる温かさにホッとする。
「良かった……って、えええぇぇぇっ!?」
しかし、元々安定していたとは言い難いサドルの上にいたため、腕に飛び込んで来た子猫の勢いに負けて、私は自転車ごと後ろに引っ繰り返った。
「…………っ」
もちろん受け身なんて取れる訳もなく、地面へと強かに背中を打ち付ける。腕の中の子猫だけは死守しようと身体を丸めたおかげか、なんとか押し潰さなくて済んだ。
「……痛っ」
背中も痛いが、変な倒れ方をした所為か足首が物凄く痛い。
しかし、いつまでも地面に寝転んでいる訳にもいかないので、痛む身体を気合で起こし腕の中の子猫に視線を向ける。
緊張の糸が切れたのか、私が倒れた衝撃に目を回したのかは分からないが、腕の中の子猫は気を失っていた。ちょいちょいと頬を突くと何やら寝言のような声が聞こえたので、たぶん怪我などはしていないだろう。
「……はぁ。良かった」
『おい、大丈夫か?』
「……っ!?」
突然掛けられた言葉に驚き、後ろを振り向くと、思いの外私の傍まで近づいて来ていたらしい声の主の姿が目に入った。
えっ……オオカミ?
その姿に思わず目を見張る。
「……………」
『……………』
束の間、私は言葉を失い目の前の彼と見つめ合っていた。
私達の間を風がざあぁっと吹き抜け、咲き始めていた淡紅色の桜の花が彼の姿を隠すかのように舞い散る。
―――これが、私とヴォルフの出会いだった。
※自転車のサドルに膝立ちになるのは大変危険な行為です。良い子も悪い子も決して真似しないでください。




