序章「彼女の秘密」
時間軸は短編の五か月程前になります。
――私には、両親にも言っていない“秘密”がある。
◇◇◇
玄関を一歩出ると、身を切るような冷たい風が吹きつけて来た。
「寒……っ!」
思わず首を竦める。
もっとも、寒風により一瞬で奪い去られた体温はその程度では戻って来たりはしなかったが。
……はぁ。
やっぱり、マフラー巻いてきたら良かった。
出て行く直前までどうしようかと迷いながら結局テーブルの上に置いて来たマフラーを思い、内心溜め息を吐く。
“今日は春らしい穏やかで暖かい一日となります”と素敵な笑顔で教えてくれたお天気お姉さんを素直に信じた私がバカだった。……昨日も寒かったんだから今日も寒くて当たり前だよね。
「晴れてはいるんだけどなぁ」
見上げる空は雲一つなく、澄んだ青色がどこまでも続いている。
これなら、日陰にいるよりは太陽の下を歩いた方が少しは暖かそうだ。風が吹かなければ、確かに春らしい天気なのかもしれない。
晴れ渡った空を見ていると、何となく前向きな気分になれるような気がした。
……よし、今日も頑張ろっ!
そんな気持ちを表すように階段のラスト二段は軽やかなジャンプで飛び下りる。
トンッという小さな着地音に満足し、軽快な足取りでマンションのエントランスをくぐった。
快晴の空の下、さんさんと降り注ぐ日の光を浴びながら、私は――自転車で風を切るように走っている。
……さ、寒いぃぃ。
よく考えなくても、マンションから最寄り駅まで私はいつも自転車で行っているのだ。柔らかな日差しの下をのんびり歩いて向かうとか、完全に遅刻フラグだった。電車に乗り遅れるわっ。
てか、なんで結構必死に漕いでるのに一向に身体が温まらないのよ。
主に通勤時に大活躍の自転車に跨り駅へと急いでいると、突然顔のすぐ近くから話しかけられた。
『やあ、おはよう。今日も良い天気だね』
「……っ」
危うく急ブレーキを掛けそうになる。
バランスを崩しかけながらも声のした方に視線を向けると、マモルが私の隣を並走するかのように飛んでいた。
彼はおしゃべり好きで社交的な子が多いツバメ達の中でも特に人懐っこい子で、近くにいれば必ず声をかけてくれる礼儀正しい子でもある。
「おはよう。ホント良い天気ね……寒いけど」
『そうかな? 僕はわりと温かく感じるけど』
「……羽毛の所為じゃないの?」
飛行に適した細長い体型はとてもスレンダーだが、一応鳥なのだからあの柔らかな綿毛のような羽があるはずだ。羨ましい。
『君だって、モコモコと着込んでいるじゃないか。それで、どこかへお出掛けなのかい?』
「……はぁ。仕事よ」
『あははっ! 人間もなかなか大変だね』
その明るい笑い声に、思わず私も微笑んでいた。
動物は良くも悪くも素直で、その心はどこか自由だ。
そんな彼らからしたら、毎日のように溜め息を吐きながらも働いている人間は、何とも奇妙に見えるのだろう。
なんだか心地よい雰囲気に一人和んでいると、マモルが少し改まった声で話を切り出す。
『僕はそろそろ東に行くよ。最後に挨拶できて良かった』
「もう行くの?」
『うん。早く行かないと、子育てが遅くなるからね』
マモルは去年この街で生まれたツバメだ。
彼のいた巣が偶々私の通勤途中の道にあったため、何となく話をするようになったのが知り合った切っ掛けだったりする。
マモルの親は今年もここで子作りをすると言っていたが、彼はもう少し東の方を繁殖地にするのだそうだ。何でも、親とは別の場所へと旅立って行くという決まりなのだとか。ツバメの世界もなかなか厳しい。
この街には所謂羽休めと、私の顔を見に寄ってくれたらしい。本当に律儀な良い子である。
「そっか。……気を付けてね」
『じゃあ、また来年!』
どうやら、来年も顔を見せてくれるつもりのようだ。今度会うときは、彼の子どもの姿を見ることができるかも知れない。
……元気でね。
飛び去って行くマモルの後姿を見ながら、私は小さく手を振った。
◇◇◇
動物の言葉が分かる。
それが、ごく普通の小学校教諭である私――新條莉佳の誰にも言えない秘密だ。
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種族の違う二人――一人と一匹――の愛の形がどんなものになるのか、温かく見守って頂けたら幸いです。




