白薔薇の丘
「はじまるよぅ、今日の典礼がはじまるよぅ」
小丘の上の廃教会は、今日も黒山の人だかりで賑わっている。
麓町に住む若い娘たち、色めき立った男女の二人連れ。控え目なデイドレスと素朴な皮の靴の装いだが、明らかに貴族の子女らしき影まで見える。
人だかりの目当ては、日に二度催される語りと歌のささやかな舞台だ。
「今日の演目はなにかしら。"金色の人魚"がいいな」
「それは一昨日のお昼に演ったばかりでしょ? きっとしばらく演じられてない"灰の瞳の令嬢"よ」
いつの間にやら廃教会に住み着いた興行の一行は、自分たちの芝居をもっともらしく"典礼"と称する。神の教えをあまねく人々に語り伝えるための高尚な歌劇なのだ、とこまっしゃくれた小間使いが鼻を鳴らしてふれ回ったのだ。
恐れ知らずの振る舞いが、娯楽の少ない田舎町には目新しかった。不敬極まる"典礼"は、数日して知れ渡る頃には満員御礼となった。
「おまちどおさま、本日開演!」
二人の小間使いが、蝶番のうるさい大扉を押し開ける。
廃教会の内部は小綺麗なものだ。
並び立つ飾り柱も壊れていない。木目に彫り出された聖人たちは穏やかに目をつぶり、灯された燭台の火に柔らかな面を浮かばせている。
二階の階上廊に並ぶステンドグラスのいくつかは割れたまま、無骨な木板でふさがれてしまっている。
しかし身廊の最奥、昇天する御子の像を戴いた縦長の大窓は無傷だ。
そして、天辺の丸窓には大輪の白薔薇。南から陽が差せば、清廉な白い光がまっすぐに主祭壇へと降り注ぐ。
「サァサァ皆様お立ち会い!」
小間使いが大きなベレー帽を脱いで客を呼び入れる。"御布施"を支払いが終わった者から長椅子に、あぶれた者はそのまま通路で立ち見だ。
出入りの大扉の前までぎっしり詰まった人だかりが、高揚したおしゃべりに飽きてしんと静まりかえる頃。二人の小間使いに手を引かれ、人形が糸で繰られるように、壇上に演者が現れた。
――舞台の下手に、椅子に掛けた青年。月の明るい夜空色の瞳の、物憂げな青年だ。
強く吹けば搔き消えてしまいそうな姿と裏腹に、チェロを爪弾きながら放たれる語りの言葉は、悠然と聖堂内に響いた。
「無垢な娘、愚かな娘、至上の甘露を得られると思うてか――」
――舞台の中央に、ひとりの娘。晴れ渡る午後の浅瀬色の瞳の、美しい娘だ。
手の届きそうなほど肉薄しているのに、虚空を見上げて歌う横顔は酷く遠い。
丸窓を通して差し込んだ光が彼女の上に燦と降り注ぐと、彼女はあらゆる喜悲劇を歌いつむぐ、人ならざるものと成る。
「無力な手、私の手、私にはもう、お前と共に朽ちてやることしか――」
今日の演目は"嘆きの葡萄"。
打ち捨てられた畑から育った小さな葡萄の樹が、ある貧民の娘の手で大切に守られて甘く大きな実をつける。
しかし、それを妬んだ大農園の主が土に毒を混ぜ実に酸をかけたので、葡萄は見目悪く、見向きもされなくなってしまった。
秋が深まる前に葡萄の樹は枯れ、娘は飢えて死んでしまう。
大農園の主はこれ幸いと朽ちた実から種を取り出し、娘の育てた甘く大きな葡萄を我が物にしようとしたが、種が芽吹くことはなかった。
それどころかその年の秋の終わり、大農園の葡萄は一つ残らず枯れてしまった。
訝しんで土を調べてみると、広大な農園の土は余すところなく酸と毒に侵されていたという――そんな物語だ。
○○○
ステンドグラスを割らんばかりの拍手を背に主祭壇を降りて、天幕の内に入ると同時に、青年は膝を着いて崩れ落ちた。
「カイン!」
後ろから彼に続いていた娘が駆け寄り、背に手を当てる。
荒い呼吸は止まぬ歓声に掻き消され、誰かに届くことはない。
「は……っ、……べ、る……、」
上手く呼べぬうちに、青年――カインは大きく咳き込んだ。
袖口のレースが赤く染まる。上体が下がり、ただ床に倒れずに耐えているだけ。
動けない二人の横を慌ただしく小間使いたちが駆けていく。
大扉を開けて客を捌けさせ、終演後に投げられた"御布施"を拾い集めて、チェロと椅子を片付けるのも小間使いたちの仕事だ。他人の心配をしている暇などない。隙など見せれば、晒した膚から食い破られてしまう。
そう、最も理解しやすい例としては――
「座って喋るだけの楽な仕事をくれてやってるのにみっともない様だこと」
――この女のような人間に、だ。
下着のようなスリップドレスに仰々しい毛皮を着て、素足にくたびれたミュール。にたりと上がった口角と目元に刻まれた小皺が、言葉より雄弁に女の性根を物語る。
女はこの興行の主、元締めだ。六年前、カインとマリーベルはこの女に競り落とされた。
チェリストだったカインの母、テノール歌手だったマリーベルの父、二人の所属する楽団を乗せた客船が遠海で沈んだことが悲劇の始まりだった。路頭に迷ったカインとマリーベルは人買いに拐われ、そのまま競りにかけられたのだ。
楽の才がなければ剥製にさせてもよかったわね、と言った女の歪んだ顔をよく覚えている。
あの日から、カインとマリーベルはこの女の人形だ。言われるがままに町から町へと移り、直立すらおぼつかない日も歌って日銭を稼いできた。
「お願い、カインをお医者に見せて。明日は典礼のない日でしょ」
「勝手にしたら?」
懇願するマリーベルを、女は冷ややかに見下ろした。
そこらに置いたままにしてあったベレー帽を取り上げ、野良犬に餌を放るように硬貨を投げ落とす。
床に散らばる、四枚の銅貨。
「そら、今日の取り分。食っていくための舞台を用意してやってんのはこのあたしなんだから、本当はあたしに全部持ってく権利があんのよ? 感謝なさい、感謝」
たった銅貨四枚でなにができるというのだろう。
住むにも食べるにも困ってはいないけれど、本当にそれだけだ。
教会横の廃宿舎には家財が一式残っていたし、屋根や壁もまだしっかりしている。だが、それ以外は自腹を切るしかない。傷んだ家屋の修復資材も、食卓に添えるパンと葡萄酒も。
マリーベルが四着、カインが二着持っている舞台衣装の修繕も自分で行っている。人前に出た分だけ減っていく化粧品の代金を差し引けば、医者にかかる費用など残りようがない。
見上げる眼差しにこもった怨嗟の念を、女は鼻で嗤った。
「卑しい目で見るんじゃないわよ。ガタがきたら他の使い道でも考えてやるわ」
ベレー帽の中身をチャリチャリと鳴らしながら、女は大股に去っていく。
女の住処は教会の地下にある。用心棒代わりの荒くれ者を数人侍らせて、またいつものように深酒だろう。
女の気配が薄れて消えた頃、ようやくマリーベルの腕の中でカインが顔を上げた。
「カイン、」
「もう、大丈夫……部屋に帰って、薬を飲むから……ベルは、麓の町にでも行っておいで……新しい髪留めくらいなら買えるだろ?」
マリーベルの髪にすげたままになっている、花びらが欠けた白薔薇の髪留めに視線をやって、カインは苦しげに笑ってみせた。
これが、二人のありふれた日常。華やかな演目の裏で生活を切り詰め、病の影に侵されながら、どこに逃れる道もない。
不幸と言えば不幸であろうその日々は、けれどたしかに、ささやかな光で満たされていた。
○○○
とある休日。庭で洗濯を終えたマリーベルが部屋に戻ると、カインが文机に向かっていた。
午前中から身を起こしているのは珍しい。大抵は日の高くなる午後、太陽が空気をすっかり温めた後でなければ動けないのに。
「なにしてるの、カイン?」
「手紙を書いてる。紙が手に入ったんでね」
手元を覗き込めば、細やかな文字が古染色の紙の上に踊っている。
宛名はない。並ぶ言葉もなんだか抽象的で、散文詩のようだ。
誰への手紙なのかと問いを重ねる前に、カインはさっと紙を裏返してしまった。
「誰に送るの?」
「さあ、誰だろうな」
「教えてくれてもいいのに」
むくれた声で文句を言い、それでも肩が触れる位置に腰を落ち着けるマリーベルに、カインは破顔してみせる。
「いつかわかるよ。ベルは楽しみに待ってて」
洗濯ですっかり冷たくなったマリーベルの手を握り、指先まで擦って温める。
そうやって戯れながら過ごすのが、二人にとって唯一の安らぎ。そのはずだった。
その頃からだ。カインは少しずつ変わっていった。
しばしば夜闇に紛れて部屋を抜け出して、明け方になって戻ってくる。
どこかで着替えているのか、シャツは皺だらけなのにまったく汚れていない。咲いたばかりの花に似た芳香が微かに残っていることもあった。
いつの間にか綺麗な金の指輪を左手の小指に嵌めていた。
呼吸の発作はあまり起きなくなっていったが、顔色は日々青白さを増していく。なのに、表情からは翳りが消えていった。
マリーベルが目を覚ましたままでいると、「昼の典礼が辛くなるぞ」と言って甘いお菓子を寄越す。
貝の形のマドレーヌ。菫の花の砂糖漬け。ナッツの味のするムラング。どれも貴族のティーテーブルに乗るような代物だ。
「こんなものをどこで手に入れたの」と問うても、カインは静かに微笑むばかりだった。
○○○
カインが夜に抜け出すようになってから、一月ほど過ぎたある日のこと。
朝までに無事に帰ってくるならそれでいいと割りきって、マリーベルは眠気に誘われるまま休むようになっていた。
――なのに、その晩に限って、目が覚めてしまった。
ささやかな物音に引き寄せられるように廊下に出て、カインの部屋の扉から漏れる灯りを見る。
元よりあちこち隙間だらけだ。扉の前に立つだけで、声をひそめた密談もはっきりと聞き取ることができた。
「このような悪所にまでおいでいただけた奇跡に感謝いたします」
「こちらこそ、まさか本当に招いてくださるなんて」
ぎっ、と床板が鳴る。カインが膝を折ったのだろう。
それを受けた甘やかな吐息と、鈴を転がすような笑い声。
「ウェヌス婦人……貴女はまさしくその名に相応しい」
名を呼ぶカインの声音に覗く、陶酔と憧憬。
床板がキシキシと鳴っている。扉の向こうで、二人の動く気配がする。
「今だけは別の名前で呼んでくださらない?」
「では、なんと?」
「ローズマリー、と」
「それが貴女の本当の名前?」
「さあ、どうだったかしら。忘れてしまったわ」
それ以上は耐えられそうになかった。
後退りで宿舎を出、すぐ隣の教会へと駆け込む。地下室から大きく下品な笑い声が聞こえる――これなら音を立てても気づかれはすまい。
足の動くまま真っ暗闇の階段を駆け上がり、静まり返った階上廊に立ってマリーベルはその場に蹲った。
――責める謂れなんてない。口約束すらない間柄だった。
親の関係で生まれた頃から見知っていた、同じ苦境を分け合いたった二人で堪え忍んできた、それだけ、ただそれだけ。家族や兄妹に近いものと言われてしまえばそれが正解に置き換わる。
それでも心のどこかで、カインの眼差しは自分にだけ優しいのだと思っていた。
いつかひとりの人間として隣に立つことを望まれるのは自分だと、その瞬間まで疑いもしなかった。
ウェヌス婦人。
誰かに問われて彼女自身が答えた日から、彼女はその名で知られるようになった。
典礼に足繁く通ってくる子女の中でも一等に目立つ姿。輝かんばかりに麗しい顔と、嫌味のない高貴な立ち居振る舞い。おいそれと声をかけることすら憚られる気品をまとった観客の存在は、祭壇上からでも目を惹いた。
いつだったか、演目の最中に「下らない茶番はやめろ」と騒ぎ立てた無法者を「素晴らしいものを世に広めることは神の御意志に従うことと等しいのではなくて?」と言い負かして追い出してくれたこともあった。
演目を終えたマリーベルに花のような微笑みを向け、「いつも心が洗われるわ」と温かい言葉をかけてくれたこともあった。
――そんな彼女が、カインの隣に立っている。カインの隣は、彼女の場所になってしまった。
○○○
これは、マリーベルが密会を覗き見た次の晩のこと。
いつものように夜更けを待って宿舎を抜け出そうとしていたカインは、暗闇から伸びた手に腕を捕まれ聖堂内へ引きずり込まれた。
上腕に食い込んだ指の痕は明日にも痣になるだろう。
げんなりと振り返った先に、醜く顔を歪めた女がいる。身を離しても漂ってくる、酸化した酒精の饐えた臭い。
「随分と勝手してるじゃないの。こんな時間に出歩いて、随分な身分のおつもりねぇ?」
「文句を言われる筋じゃない」
「まさか金を隠してるんじゃないでしょうねあんた。あんたは、」
伸ばされた女の手を大きく避けて、カインは柱に据えられた蝋燭の火に左手を翳した。
小指に光る金の指輪――封蝋に用いる印璽を加工したシグネットリングだ。
"V"の文字に月桂樹を組み合わせた印を見た女がぐっと息を呑む。
大きな花束、質の良い樽酒、ステンドグラスの修繕費として切られた小切手――様々な名目でもたらされる寄進に添えられた手紙は、必ずこの印で封されていたのを覚えていた。
正体不明の金満家。大金を吐き出すからには邪険にもできない、"ウェヌス婦人"と名乗る女。
「残念だったな。今後俺に下手なことすりゃウェヌス婦人からの寄進を失うことになるぞ」
指輪の表面はガラス質で覆われている。水晶かなにかを削って被せたのだろう。もう実用できる状態ではない。
しかしそれは、ウェヌス婦人が貴重な印璽をひとつ無駄にしてでもカインを手元に置きたがっている証明でもある。
動揺と苛立ちで親指の爪を噛みながら、悔し紛れに女はカインを詰った。
「恥知らずね、ジゴロ崩れなんて」
「金払ってやっと男に相手してもらってるあんたの百倍はマシだろ」
「……剥製にされたいの、あんた」
今となってはなんと滑稽な脅し文句だろう。この女には、自分とマリーベルが競り落とされた当時のままに見えているのかもしれない。強欲なだけで賢いわけではないのだ。
くっ、喉を鳴らして嗤うカインに、女は怒りの温度を上げていく。
「ついにヤキが回ったのかしら。ひとりじゃ薬も買えないあんたが、ここ以外で生きていけるとでも思う?」
「お生憎様だな。薬なら貴族御用達の最上級品をもらってる。あんたがよこすもんなんぞ小麦粉と大して変わらないだろ……薬の嵩増し、気づいてないとでも思ったか?」
やけに薬効の低い薬。一向に改善しない症状。
医者から処方された包をわざわざ解いて不純物を混ぜ、包の数を倍にして薬代をケチっているのだと小間使いが教えてくれたのはどのくらい前だったか。自力で医者にかかれぬよう纏まった金を渡してやらないのだ、と自慢げに管を巻いているとも聞いた。
知った時にはもう血を吐くようになっていたカインは、己の延命を捨てた。
「俺は寛大だから、人殺しにはしないでおいてやるよ。もうじき自分の力だけで食い扶持を稼がなきゃならなくなる。精々備えておくんだな」
言い終えると同時に、蝋燭の火を吹き消した。
真闇の聖堂に女の激昂が谺する。視認できないカインの姿を追って、首を回しながら呪詛の言葉を叫び続ける。
「逃がさないわよ! あんたはあたしが買ったの! あたしがいなきゃあんたに価値なんかないのよ! じゃなきゃ死になさい! 死ね!! 死ね!!!」
身を屈めて長椅子の間を抜け、主祭壇横の天幕から裏口へ。
ヒステリックな女の金切り声を振り切って、カインの背は麓町に向かって消えていった。
丘を下り終え、畑の畔の真ん中で、息の限界を迎えた。藁小屋の壁に背を預けるが、体を支え続けるには消耗しすぎている。
病に侵されすっかり欠陥品に成り下がった肉体。いっそ笑えてくるほどだ。
「はっ――言われなくても、」
あの女の願いは遠からず叶うことになるだろう。
胸が、腑が、ねじ切れるような痛み。身をくの字に折り曲げ、ポケットから小瓶を取り出して、中の丸薬を呷る。
――生きているうちには到底返しきれない恩、それだけがカインの心残りだった。
○○○
それは、いつもと同じ一日だった。
日に二度の典礼、質素な食事。
陽当たりの良い部屋で繕い物をしているカインから離れ、マリーベルは箒を持ってカインの部屋にいる。窓の桟の埃を払い、床を掃き清め終えたところで、ふと思い立ってベッド脇の引き出しを開けた。
いつも小籠に入っている薬の包がない。
カインに教えてあげないと、と強い焦燥が心の中に芽生え、すぐに萎んでいくのを感じた。
――知らない、カインのことなんて。
大人げないと自覚していた。まして病気に関すること、小さな意地悪でもすべきではないとわかっていた。
なのに少しだけ、ほんの少し。薬の補充を忘れていたと、困り果てた顔でカインが助けを求めてくれることを期待してしまった。
もしそうなったら、私があの女に薬をもらってきてあげると言おう。「大事なことなんだから忘れちゃダメでしょ」と世話焼き顔で叱ってもいい。
カインと他愛ないやり取りがしたかった。自分が心に澱を抱えてしまう前のように、ただ何気なくじゃれ合いたかった。
その夜、暁闇すらまだ遠い真夜中のこと。
ガラス窓を強く叩く音に飛び起きたマリーベルは、慌ててランプに火を入れ出入り扉に走った。
「マリー!」
「マリー、助けて!」
二人の小間使いが珍しく取り乱している。
彼らに両脇を支えられ、俯いた口元から黒ずんだ血を滴らせているのはカインだった。厠に起き出した時、教会の入り口で倒れているのを見つけたのだという。
ベッドに運ばせたが呼吸は荒いまま。
震える白い拳の中に、綺麗な小瓶が握りしめられているのが見えた。
「カイン、く……薬、は」
白々しい。薬がもうないなんて昼間に分かっていたはずだ。わかった上でなにもしなかった。
カインが気付くまで知らんぷりをしよう、そう決めたのはマリーベル自身。
足元が抜けていくような心地のマリーベルをよそに、カインはふっと力なく笑った。
「はっ……ここで、……悪運も尽きるか」
背に冷たいものが這い上がる。
明確な言葉にせずともわかる、慈悲も猶予もない別れがすぐ傍に迫っていること。
満足に口をきくこともできないマリーベルの目の前で、カインは血で汚れた右手をシャツで拭う。
差し伸べられたその手に、一も二もなく縋りついた。
「……ベル」
「な、に」
「ベルは、そのままでいるんだよ……それだけでいい……それだけで、いつか救われる」
救われるのは誰だというのだろう。一体誰が救ってくれるというのだろう。
マリーベルには、カイン以外に信じられる人間などいないのに。
「い、や……嫌、カイン、どこに行くの、」
呼びかけの声は届かぬまま、それきりカインは、瞼を開くことも言葉を発することもなくなった。
暗い長い夜、ぜいぜいという呼吸音と恐ろしい呻きだけが狭い部屋を埋め尽くす。
朝日を見る直前、白む空に赦されるように、ようやくカインの脈は止まった。苦痛を嚙み締め続けた唇は裂け、きつく握った拳の内側には爪が深く突き刺さって血が流れている。石のように丸まった体は恐ろしい早さで冷たくなっていった。
亡骸は、翌朝のうちに教会の裏手に掘らせた穴に投げ込まれた。小間使いたちが少し泣いてくれて、それが弔いの代わりだった。
本物の祈りの言葉なんて知らない。
マリーベルの瞼の裏には、明けぬ夜が黒々と広がったままだった。
○○○
次の典礼が始まる直前。教会の大扉の前に立った小間使いたちが指示通りの口上を述べるのを、マリーベルは聖堂内の長椅子に腰かけてぼんやりと聞いていた。
「カインは流行りの風邪にかかった。だからしばらくお休みだよ」
「お見舞い用のお花はいかが? 一輪銀貨一枚、愛を込めて届けるよ。早く元気になるかもね」
辻立ちの花売りからあるだけ買い占めてきた萎れかけの白薔薇に端切れのリボンを結んで、信じられない値段で売り捌く。
届ける先の既にない白薔薇は飛ぶように売れた。
外が賑わう一方で、マリーベルの横に立った女が忌々しげに舌打ちをする。
「厄介なこと。馬鹿な娘どもから御布施を集める餌だったのに。あと何回巻き上げられるかしらね」
「――、」
「何よ、その目。あれがいなくなった分だけ長く歌いなさい。伴奏は小間使いどもにやらせるわ」
この女は何を言っているんだろう。
靄のかかった頭で、マリーベルはすぐに思考を諦めてしまった。
酒臭い息。耳障りな声。こんなにも不快なものだっただろうか。
どうして今まで気にせずに過ごせていたのか、よくわからない。
マリーベルがただじっと見上げていると、女はおもむろに掌を振り上げて、力一杯マリーベルの頬を打った。
強い衝撃で長椅子に倒れ込む。
「聞いてんの?! あたしがいなかったら日の目を見ることもなかったんだから、あんたはあたしを豊かに暮らさせる義務があんのよ! 歌いなさい!!」
じんじんと熱い左の頬に手を当てることもなく、マリーベルはただ、騒がしい大扉の向こうに視線を向けた。
典礼は、一時間遅れて始まった。
耳に慣れたチェロの音色はない。代わりに小間使いたちが手風琴を鳴らし横笛を吹いた。
マリーベルは丸窓から差す光の中で歌う。
演目は"嘆きの葡萄"だ。
無力な手、私の手、私にはもう、お前と共に朽ちてやることしか――。
「……、」
「マリー……どうしたの?」
突然止んだ歌声に、小間使いのひとりがおずおずと声をかける。
マリーベルは動きを止めていた。遠くに遣った視線は二階の階上廊。
そこにはなにもない――誰もいない。
「……カイン、」
小さく呟いて、マリーベルは駆け出した。
ざわめく人々の合間を縫って身廊を抜け、階段を駆け上がる。
たしかに見たのだ、夜空色の瞳を、憂い深い唇を。
追い求めた姿は回廊の闇の狭間にあった。
割れたガラスを塞ぐ木板の一枚が剥がれ、外からの陽が差し込むその中に立つ、影。
「そこにいたの……いなくなってしまったかと思った」
語りかければ、影は笑った。汚れていない口元がゆるりと弧を描いて、弦を爪弾くことに慣れた長い指が差し出される。
「マリーベル様! お戻りになって!」
マリーベルは静寂の中にいる。対峙した影が身じろぐたびに、肩の上下に合わせて呼吸の音まで聞こえるほどに。
背後から呼びかける誰かの声も、階下のざわめきも、マリーベルには聞こえなかった。
「許してくれるの、私を」
『そんなこと気にしてたのか』
影が笑っている。壊れた髪留めを気にかけてくれた時と、冷たくなった指を温めてくれた時と、同じ笑顔だ。
瞼の裏の闇が晴れていく。
そこに、目の前に――
「お願い、話を聞いて! カイン様はあなたを、」
――カインが、いる。
マリーベルはただ嬉しかった。
ごめんなさい。どこにも行かないで。言いたかった言葉は喉につかえて出てこないけれど。
『傍にいるよ、ベル』
だから声よりも早く、広げられた腕の中に飛び込んだ。
「マリーベル様!!」
誰かの叫びが遠ざかる。
明るい日差しの中にキラキラと結晶が舞う。
マリーベルが最期に見た景色は、天つ御国のように輝いていた。
○○○
それから一月が過ぎたとある日。
麓町の広場の一角で、偶然行き合った二人の町娘が立ち話に興じている。
「あら、あなた典礼には?」
「もうやめたわ。私、カイン様のお声が聴きたくて通っていたの。でも、もう……両親にも止められて」
「あー……まあ、そうよねぇ。うちもダメって言われちゃった」
"演者が飛び降りたのは典礼の演出だ"と釈明があったが、あれからマリーベルは人前に姿を現していない。
カインも、休養と聞かされてから大分経つが経過報告ひとつない。
おかげで憶測が飛び交っている。
カインとマリーベルは手を取り合って逃げ出した、というのが一番人気のある噂だが、カインはとうに常世の住人ではなくなっておりマリーベルは後を追ったのだ、などと縁起の悪い話も聞こえてくる。
真実がどうであれ、若い娘を気安く送り出すには不安な場となってしまったわけだ。
気晴らしをひとつ失って落胆する二人の会話に、道具を広げて靴磨きの客を待っていた青年が口を挟んだ。
「相手は違うが気持ちはわかる。俺もマリーベル様のお声を聴きに行ってたんだよ。御布施はチケット代」
「そう、そう! お声よねぇ」
「そうなの。一秒でも長くお声が聴きたかったから、それがすべて」
「今は別の奴が歌ってるんだっけ? あんまりいい噂は聞かないが」
カインとマリーベルに代わって舞台に上がるようになった女は、ただ甲高いだけの声で喚くだけの有り様らしい。
一度足を運んだ者から広まった悪評は口伝いに広まって、典礼に向かう人の足は目減りしている。
町娘たちも、実際に聴いてみる前に参加をやめてしまった。
「……まるで魔法が解けてしまったみたい。典礼劇にこんな表現はいけないのかもしれないけど」
「魔法みたいなもんだったろ、実際。本気で救われると信じてた奴なんていんのかな」
「お二人の歌に救われていた人間なら、ここにいるのだけどね」
ほろ苦い溜め息をついた後、三人の話題は別のものに移っていった。
○○○
ウェヌス婦人。
社交界においてその名を知る者は少なくないが、彼女の本当の名や出自を知る者はいない。
たしかなのは、彼女は目利きの投資家であり金満家で、一流の立ち居振る舞いを身に着けた淑女であることだ。
だから彼女が警邏隊の屯所までわざわざ足を運び、告発すべき事柄があると告げた時、日頃は喧嘩の仲裁と旅人の道案内に身をやつしてきた田舎町の警邏隊員たちは上へ下への大騒ぎだった。
役場にある貴賓室が聞き取りの場として提供され、警邏隊の支部長、それから町に常駐している司祭が呼び出された。
そうして、ウェヌス婦人の告発は公的な記録に残されることとなった。
「大事になってしまって申し訳ないわ。お二方に感謝いたします。こんな女の戯言にもきちんと耳を傾けてくださる、この町の施政はとても行き届いているのね」
たおやかな微笑みを向けられた中年男二人が鼻の下を伸ばす間も与えず、婦人は言葉を続ける。
「本題の前に、まずは司祭様に懺悔をさせてくださいまし――私、こんな見てくれですけれど、貴族でもなんでもございませんのよ。亡命先で亡くなった遠い遠い血縁に高位貴族がいたとかで、巡り巡って多額の遺産が手元に転がり込んできて。独り身の女が大金なんて持っていても危ないだけですから、やってみたかったことを片っ端からやってみたんです。マナーにダンス、外国語、資産運用。人脈だけは運頼みでしたから、私が本当に誇れるのは運の良さだけですわ」
細やかなレースの扇で口元を隠すその仕草を見て、高貴な生まれを疑ってかかる者はまずいまい。
傾聴する二人にとっては顎が外れかねないほどの衝撃だったが、婦人は意に介す様子もない。
「ですので……一庶民としてここに告発いたします。丘の上の教会で興行の演者が二人亡くなっていること、そして興行主は彼らの死を秘匿していること。私は演者のカイン様と懇意にしておりましたので、もし自分の姿が表舞台から消えたその時は、こうして告発してほしいと託されました」
室内の空気が重たいものに変わる。
死者の秘匿。その罪は決して軽くない。
適切な弔いを与えないことは、どんな形であれ命を全うした者への冒涜だ。衛生的な観点からしても、役場の定めた埋葬の手順を破られれば町に疫病を呼び入れかねない。
表情を固くした警邏の支部長は、手にしたペンを握り直し、婦人に演者と懇意になった経緯を問うた。
「最初は、御心づけを渡すだけのつもりでおりました。真の信心に根差した典礼劇であれ、ただ宗教を名乗っているだけの大衆劇であれ、人気の舞台役者と繋がりを持っておいて損はありませんもの……きっかけは文字通り、袖振り合った御縁です。舞台に上がられる直前に、カイン様の袖口のレースが綻んでいるのを偶然見つけてしまって。上手に誤魔化して差し上げられます、と申し出たのがはじまりでした……ふふ、こう見えて元お針子でしてね。刺繡の腕には少しだけ自信がありますの」
冗談めかして笑う婦人の目元には、鈍い痛みを堪えるに似た翳りがあった。
支部長は質問を重ねる。その演者というのは、如何なる人となりであったのか。
「お優しい……いいえ、下心がない、と捉えるべきかもしれません。立場上、そういった方に対する嗅覚は必要なもので……カイン様からは、それが感じられなかった。だから心地よかったのでしょうね。求められるのはいつも、小さなお菓子の包みと鎮静剤の小瓶だけ。どこを患っていらっしゃるのかお聞きしても、一度も答えてはいただけませんでした。無理にでもお医者に連れて行っていたらなにか変えることができたのかと、今でも考えます」
所在なげに扇が揺れる。婦人の瞳は、ここにいない人間の姿を見ている。
焦がれていたのですね、と支部長が言う。
婦人はゆるゆると首を振って、静かに瞼を伏せた。
「どうかそんなふうにおっしゃらないで。カイン様が無欲であったように、私もただの善意の人として終わらせてくださいまし……だってカイン様の中に住まうのは、マリーベル様ただおひとりでしたもの」
調書の末尾には、婦人が演者から託されたという文言がそのまま記されている。
“親愛なるウェヌス婦人。どうか貴女の元で、マリーベルを保護してもらえないだろうか。あの子の歌は、きっとあまねく人々を照らす光となるだろうから。”
○○○
それから半年後。
ウェヌス婦人の告発を元に、教会関係者を騙って多額の寄進を騙し取った咎で興行主の女が投獄された。
最初の捜査の名目は死者の秘匿だったが、警邏隊が踏み込んだ教会の地下室には金貨を満載した樽が山と積まれており、主たる罪状が詐欺に切り替えられたのだ。
女は自らを宣教者であると主張したが、教会設備の修繕費として受領した寄進が酒色に費やされていたことは、あちこちがボロのまま放置された教会内部を見れば火を見るより明らかだった。
挙げ句、保護された二人の小間使いによって、囲った荒くれ者たちとの爛れた下品な遊びまで暴露され、いたずらに不徳の罪を重ねただけに終わった。
全財産の没収と鞭打ち五十回。執行は霜の落ちる月の最初の金曜日。
女に関して残っている記録はこれがすべてである。
再び無人となった廃教会は、ほどなく町に移り住んだウェヌス婦人によって買い上げられた。
正式な司教が招聘され、本来の用途で再運用されている。
裏手に小さな農園を設ける際、土の下から発見された男女の亡骸は、ウェヌス婦人の指示により手厚く葬られた。
丘麓を一望できる場所に建てられた彼らの碑の周りには、今日も白い薔薇が絶えることなく咲いている。




