桜の名前
「70」
この数字は今の日本の最高寿命だ。
少子高齢化の対策として、政府は介護兼執行官の職を作り、70歳の高齢者を安楽死させるように制定した。
——
ある暖かな春、駅前の桜を見ていた。満開を過ぎて散り際だったが、それでも美しい春の景色だった。優しい風に揺れた枝から花びらが空を舞った。
ベンチに座り、首が痛くなるまで上を見る。そんな時間が昔から好きだったのかもしれない。自然と落ち着くのだ。
つい昨日まで冬のように寒かった気がする。時間の流れは早い。70歳までだ。この先の人生をどうしようか。
「こんにちは!」
前を向くと1人の女性が話しかけていた。見た目を見るに40歳くらいだろうか。優しい表情だが、疲れた目をしている。
「ああ、こんにちは」
「ここが好きなんですか?今年は散るのが早くて名残惜しいですね。」
「散るのは決まってることですし、特には気にしないですよ。居心地も良いですし。」
女性は少し黙った。
「よくここにいらしたのを覚えてますよ。」
(そういえば最近はよく来てたか。それにしてもこの人は誰なんだ?)
それは懐かしいような暖かいような人でこの木のようだった。
「では、私はこれで…」
「あなたの名前は……」
言い切る前に女性は消えて行った。引き留めたかったのか自然とそんな言葉を言いそうになった。
夢のようだった。最近は不安定であんな記憶がよく出てくる。
——
「ただいまー」
母さんが玄関まで出てきた。普段は来ないのに。
「おかえりー。どこ行ってたの?」
「駅前のとこまでちょっと散歩。」
一瞬、何か知ってるような顔をしていた
「駅の方か…好きだったもんね。」
少し不思議に感じたがこれといった手がかりもない。
「結構キレイだったよ。」
何か頭の中がモヤモヤする。何か知らない過去があるような感じだ。
——
夜
喉の渇きがひどく、お茶でも飲みに行こうとした。部屋を出て、廊下を通る。その時、電話台の上にあったフォトフレームを服の裾に引っ掛けて落としてしまった。
伏せて落ちたそれを持ち上げる。普段あまり見ないものだったので少し気になった。
「何の写真だったかな?」
それは旅行に行った時の家族写真だった。
若い男。女性。そして可愛らしい女の子。
その女の子はどこか懐かしく暖かで最近も見た気がする。男の顔にも覚えがありそうだった。
そして、右下の年代を見て、息が止まる。
「30年前…」
自身が生まれているわけがない。
何が起こっているか分からなかった。あの駅前で会った人や母さんだと思っていたあの女性……まさか
「……違う。そんなはずはない。」
その時、廊下にあった姿見が目に入った。
そこには顔には皺、白髪で濁った目をした写真の男によく似た…
いや、同じ男が驚いていた。
その時倒れてしまった。
——
気がつくと病院だった。
薄いカーテンの向こうで話が聞こえる。
「もうあなたのお父様は……末期の認知症です。これ以上はあなたが苦しむだけです!」
何の話か分からなかった。頭がぼんやりする。何も思い出せない。
「お父様はもう記憶や時間感覚の乱れで自分が誰なのかも分かっていない状態なんですよ!」
どうやら誰かを強く心配しているようだった。
「あなたがそこまでする必要は何ですか⁉︎執行官は身内の執行は普通禁止されているんですよ。特例的に許可を得ても認知症は治りやしないんですよ‼︎」
その時、どこかで聞いた暖かな声が応えた。
「名前を呼んで欲しいんです。
それだけで良いんです。
私のわがままですし、これで何かが良くなることもないです。
ですが、父は1週間後に70歳になります。別れるんです。もう父から名前を呼ばれることもないんです。
ただ……最後に……聞きたいんです。」
——
その後同じ声の主は、何度も訪ねてきた。
その女性の父の話。
駅前の写真。
初めて自転車に乗れた時。
家族旅行に行ったこと。
ただ隣に座っているだけの日もあった。
そんな身に覚えのない日々が続いた。ただ暖かさと安心感を感じるだけだった。
——
「誕生日おめでとう‼︎ケーキは食べられないけど、良い日にしよ‼︎」
返事はなかった。もう、意識も遠くなっているのだ。
「——」
そんな虚な目でただ聞いた。
「……名前は?」
乾く口で必死に聞いた。なぜかは分からない。
「あなたの名前は何ですか?」
女性は口を噛みしばらく黙った。
そして小さく笑って口を開いた。
——桜
「良い名前だな…」
女性はどこか少し悔しそうだった。
「そう?」
「ああ」
男は笑う。
「桜か——もしも娘がいたら」
少し間を置く。
「そんな名前を付けてあげたかった」
女性は俯き、肩が震える。
今まで何度も我慢した。
呼びたかった。
でも呼ばなかった。
もう自分を父親だと思っていない人にその言葉を投げるのが怖かった。
なんて言われるかが怖かった。
でも。
最後だけは……
最後だけは——
「——お父さん!」
声が震えた。
濁った目が少し開く。
その呼び方が、どこか遠い場所から届いた気がした。
「私、この名前……大好きだよ!」
涙が落ちる。
「お父さんがくれたから!」
彼女を見る。
分からない。
思い出せない。
でも——胸の奥が温かかった。
「そうか……」
小さく呟く。
「俺、いいことしたんだな」
女性は泣きながら笑った。
「うん」
「すごく」
目を閉じた。
人生の全てを思い出したわけではない。
失ったものは戻らない。
それでも——
誰かを愛したこと。
誰かに愛されたこと。
それだけは、最後まで残った。
窓の外で一枚の桜の花びらが舞った。
散るためではなく——
——確かに、そこに咲いていた証のように。




