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端書き

 本作は、かつてニュー・アンジェ市内に存在したホテル「 ハリー・バリー・ハイツ Harry Barrie Heights」に勤務していたスタッフ達が私的に記入・回覧していた業務日報からの抄録である。


 旧著『ヴァンパイア観察記 またはある清純司祭の堕落』がそれなりの評判を受け、新たなテーマを探していた筆者に、このホテルを紹介してくれたのは、前作に登場した人狼オーレ氏だった。ホテル名を言われてもピンと来なかったものの、所在地であるビューロー通りまで足を運べば、すぐさまその構えを知っていると思い出す、老舗の(あくまで人間にとってはだが)シティ・ホテルである。


 事実、アメリカ北東部にある大規模都市のダウンタウンを訪れれば、誰もがこのホテルをデジャヴとして脳内に想起するだろう。裏通りと裏通りが交差する立地に聳える、ルネサンス・リバイバル様式の象牙色をしたファサード。吸血鬼の血を引く者としてニュー・アンジェ市で初めて銀行頭取に就任したハリー・F・バリーが設立した、13階建ての建物は100年近い歴史を誇る落ち着きだが、正面玄関を示すのは黒い流線型の屋根と、そこに記された「427」と言う番地だけ。曇りガラスが嵌め込まれた両開きドアの向こうでは、エントランスと呼ぶのも憚られるフロントの向こうで、受付係が大欠伸。そこを通り抜け、カウンター席のみの狭苦しいバーへ向かえば、咥え煙草で渋面を浮かべるサム・スペードが、依頼人の女性を待っている。そんなイメージが丸ごと具現化された、呼吸する史跡と言えるだろう。


 「設備も出入りする奴らも、掃き溜めみたいだが、つまりこの街のありとあらゆる要素が詰まってる」と評しながら、オーレと、その飼い主であるニュー・アンジェの社交界名士ソノラが頻繁に顔を出していたのは、ここが"夜歩く者たち"の溜まり場として悪名高かったに他ならない。本作の記述者、アコーダンスとエメラーダもまた、それぞれトランス・アニマルとしてのアイデンティティを持ち、幼少期から人間とはまた違う規範の社会で生きてきた。


 古くから闇を生きる存在にとって、ある時は隠れ家となり、ある時は享楽の舞台となったこの猥雑かつ活気溢れるホテルは、2022年にティルナノーグ・インターナショナル・ホテルグループに買収され、同チェーンにおける最も小規模な会員制ホテル「ティルナノーグ・ニューアンジェ ダウンタウン」として生まれ変わっている。このノートが作成された時期はハリー・バリーの業績不振も深刻化しており、様々な経営の見直しによってスタッフに多大な皺寄せが発生していた。アコーダンスがノートの作成を考案したのも、人手不足により忙殺される現場に於いて、情報伝達・周知システムが半ば崩壊していたことで、被る実害を少しでも減らすことを目的としていた。


 もっとも、本文を読み進めて頂けば分かるように、これは備忘録としての役割を果たすだけではない。しばしば両者の勤務時間が同じ日にも書き連ねられたノートは、2人が個人的なやり取りを交わす場として大いに役立てられていた(日中に活動できないなど、何かと日常生活に極端な制約のかかる事が多い"夜歩く者たち"の中、人狼とキャット・ピープルである彼らは比較的シフトに融通が利くことから、ピンチヒッターとして頻繁に呼び出されていたようである。もちろん残業代や休日出勤、代休制度とは無縁であった)

 文章からから浮かび上がってくるのは、かつて文化の交差点としての責務を果たしていた古き良きホテルの黄昏時に並び、現代の大都市において過度にソーシャライズされた2匹の"夜歩く者"の私生活である。


 今作もまた個人や土地名が特定される固有名詞を除き、原文への加筆修正は行っていない。しかし、前作が数百年の生を経てきた吸血鬼の筆による、培われた独自の美学に裏付けられる洞察に満ちた文章だった事に比べ、今回はあくまでも日々の営みを記す目的が強調されている。アコーダンスの筆圧が強く猛々しい文字運び、エメラーダの伸びやかかつ大ぶりな筆致、ノートに記されたペンの跡には両者ともはっきりと区別出来る特徴があるが、共通するのはすなわち「開放性」である。それは優美を徳とし誇りを何よりも尊重する吸血鬼には見られない、地に足ついた俗世で模索と妥協の連続に揉まれた末の、逆説的な力強さと言い換える事もできる。


 しかし実社会での経験は、執筆者の創造力の翼を縛る事には繋がらない。トランス・アニマルらしい本能に基づいた鋭敏な状況把握能力を基にした見識は、一時期濫造された手垢にまみれるアカデミックな視点とは一線を画す瑞々しさで、これまでにないノンフィクション体験となることだろう。特にエメラーダの『街の詩人』的感性は、ゲラ刷りを読んだ『ニューアンジェ・トリビューン』紙のJ・K・バッファマン氏も激賞している。


 ソノラの流麗かつ滑らかな筆記体の後で読む、俗な文句が入り混じる口語体の文章は目が回る程だったが、これもまた"夜歩く者たち"の側面であり、興味深い点でもあることは間違いない。人狼もキャット・ピープルも、人間よりは長い時を生きる存在ではある。それでも彼らは吸血鬼と違い、有限の生命を精一杯、がむしゃらに突き進むのだ。日々のリスクヘッジに忖度し、規範に頭を押さえ付けられる生き方へ甘んじる人間にとって、彼らのタフネスさと自由さは、ある種の啓蒙に値するのだろう。


 なお、各章の末尾に記された金額は、「まだやっと肉を噛めるようになった子犬と子猫の頃からの幼馴染だった」アコーダンスとエメラーダが、2人で「美女と、美女が膝の上で巻いたコイーバと、美女が運んできてくれるキューバ・リブレが山盛りの楽園」への旅を目指してプールを続けていたクォーター貯金の日計である。作中でもあるように、業務における損害の給与天引きが悪習化していた事による弁済金、各々の使い込みなどで頻繁に目減りしており、目標額2万ドルの達成は困難を極めたようである。


 幸か不幸か、2人はホテル買収に際する人員整理の対象者となり、提示された退職金は旅費を十分に賄えるものであった。


 約12年分、冊数にして60を優に超えるノートを友人(今作にも登場する、同じく削減の対象になった、人狼のアルクディア氏)に預け、アコーダンスのエル・ドラドにキャリーケース1つを積み込んだ2人は、"理想郷"へと向かった。半年程の滞在の後、常夏の赤い島でアコーダンス曰く「葉巻の領収書として淋病を渡され、ラムの代金として銀の銃弾をばら撒き」キャデラックも下着も置き去りにする慌てぶりで帰国した。


 辞める時も度を過ごす時も共にある彼らは現在も仲良く同じ職場に勤め、アコーダンスはバーテンダー、エメラーダは用心棒兼運転手として勤務しているとのことである。"夜歩く者たち"の為の旅行をアレンジする職務につくオーレ氏曰く「しっちゃかめっちゃか(hurly burly)なホテルがミシュラン2つ星なら、あのストリップバーはGoogleマップで星2位」だそうだが、トランス・アニマルらしい健勝さであることを読者諸氏にお伝えし、ひとまず筆を置くことにしたい。


オカルティズム研究家

"プラネット・テーブルテニス"代表

ヴィンス・フスカ

2032年 4月


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