7 芽吹く力
3年生のナタリアと別れ、ジゼルは自分の教室へ向かった。
すると、自分を覆っていた黒い靄が消えたのを、確かに感じられた。
教室、クラスメート、教師に対して昨日まで抱えていた、漠然とした恐れが消えたのだ。
ヒソヒソ話を見ただけで胸が縮み、
クレスに捨てられないか怯え、
メイナのわがままに耐え続ける日々。
(いったい前々世で私は……どんな罪を犯したのだろう)
ナタリアはジェリコム侯爵家の歴史を調べてくれると言った。
結果が出るまでの間だけ、甘えさせてもらおうと、ジゼルは思う。
(ナタリア様には感謝しても仕切れない。返せるものなんて何一つ持っていないけれど)
(アーノルド様には、どうか少しでも長く生きて欲しい)
ジゼルは胸の前で指を組んで、小さく熱を込めて祈る。
すると、隣の席であくびをしていた男子生徒が、目を見張った。
「ええっ⁉」
「どうしたのですか?」
「あ、いえ……すみません、先生……」
──彼は見てしまった。
組まれたジゼルの手が、ほんの一瞬、淡く光ったのを。
「授業に集中しなさい。試験が近いですよ!」
教師の声に、ジゼルは我に返る。
そして、何事もなかったように授業へ意識を戻した。
この後、クラスメートたちの囁き声の内容が、昨日までとは劇的に変化していた。
「本当に、光ったんだって」 「見間違いだろ、光の反射だよ」
そんな無責任な噂の裏側で、彼らの視線はジゼルを探るように彷徨っている。
「……おかしいと思わないか?」 誰かが呟く。
「彼女、虐げられている哀れな女って噂だったけど。家も、もう名誉を取り戻してるんだろ?」
「悪いのは、あの三年のクレスってやつのほうじゃないか。浮気してるって話だぜ」
「最悪だな」
一度傾き始めた天秤は、もう止まらない。
これまでジゼルを透明人間のように扱っていた令嬢たちも、今度は「友達」の仮面を被って近づいてくる。
「ナタリア様の付き人になったんですって? 羨ましいわ」 「今度、ぜひ紹介してくれないかしら」
とげのない笑顔。
けれど、そこには純粋な友情ではなく、絶大な権力への打算が透けて見えた。 ジゼルは、それらを否定することも肯定することもできず、ただ曖昧に微笑み続けた。
*
二人が公爵家に戻ると、アーノルドが出迎えた。
「おかえり」
「お兄様、起きて大丈夫なの?」
「ああ、気分がいいんだ。庭を歩きたくなってね。それと……」
そう言って、ナタリアは手紙を差し出す。
「セドリックからだ」
「そんなもの、捨てて」
「王太子殿下の手紙は捨てられないよ……私が預かっておこう」
アーノルドが懐に手紙をしまうと、ナタリアはジゼルの方を向いた。
「着替えたらお茶にしましょう」
「はい、かしこまりました」
「お兄様もいかが?」
「そうだね」
「では後ほど」
ナタリアは部屋へと歩き出す。
付いて行くジゼルを、アーノルドは呼び止めた。
「ジゼル、君の実家に手紙を出すつもりだ」
「お手紙……ですか?」
「ああ、クレス殿との婚約について決着をつけたいだろう?」
「はい……」
「それにはコートナー伯爵家の了解が必要だ」
「父は……反対すると思います」
かつての父にとって、自分は子猫を譲る程度の価値しかない存在だった。
あの日、無関心に自分を差し出した男の顔が、記憶の底で冷たく沈んでいる。
「父が冷淡だったのも、呪いのせいだったのかしら……」
「呪いは解けたんだ、君の力になってくれるかもしれないよ?」
「そうでしょうか……」
クレスに裏切られ、妹ばかりを愛でる両親を見てきたジゼルは、簡単に信じられない。
(期待はしない)
けれど、アーノルドの「私に任せてくれるかな?」という言葉には、縋りたくなるような引力があった。
「お願いします。父に全て話し、日記を見せたいと思います」
「ああ、それがいいね」
うなずいた直後、アーノルドの身体がかすかに揺れた。 ジゼルは反射的にその腕を支える。
「大丈夫ですか?」
「少し疲れたので、休むことにするよ。ナタリアに伝えてくれるかな」
「どうかお大事になさって下さい」
「ああ、まだ死にたくないからね」
杖をつき、ゆっくり去っていく背中をジゼルは見送った。
彼には生きていて欲しい。そんな願いが強くなる。
そして7年ぶりの父との再会に、すべての決着をつける決心をした。
──もう、惨めな自分には戻らないために。
読んでいただいて、ありがとうございました。




