27 最後の願い
風は強く、火を熾すことさえ許されない夜だった。
凍える寒さの中で、誰もが言葉を失い、ただ一人の少女を見つめていた。
その中心で。
「999……」
アーノルドの声が、途切れた。
同時に、風が止む。
あまりにも唐突で、完全な静けさだった。
ジゼルは、動かない。
多くの人の運命を変えるという、あまりにも大きな願い。
それは、届いたのか。
それとも――届かなかったのか。
ナタリアは胸の前でそっと手を組み祈りを捧げていた。
ベルハルトは唇を強く結び、二人から視線を逸らさない。
アーノルドは、ジゼルを抱きしめたまま離さなかった。
(生きていてくれ)
それだけを、何度も何度も、心の中で繰り返す。
沈黙だけが、ゆっくりと伸びていく。
まるで世界そのものが、答えを迷っているみたいだった。
静寂の中で。
体の内側で何かがほどけていくのを、ジゼルは感じていた。
それが、頭の先から少しずつ、少しずつ、抜け落ちていく感覚。
目の前の花は生まれ変わった。きっと奇跡は与えられた。
(成功した……)
確信はない。
だけど分かった。
魂ごと吸い取られていくような感覚。
ああ、自分は――消えてしまうのだと。
空っぽになっていく体に残るのは、ひとつだけだった。
アーノルドの腕の中の、確かなぬくもり。
──その時、声が聞こえた。
「ジゼル! しっかりしろ!」
(アーノルド様……)
ジゼルの目が、はっと見開かれる。
(……生きたい)
(いや……です……)
(消えたくないです)
(女神様、お願いです……)
「私は……アーノルド様と……生きてゆきたい……」
「そうだ、一緒に生きていこう」
耳元で聞こえたその声が、彼女を現実に引き戻す。
その刹那、ジゼルは、自分がまだ生きていることを知った。
しかし、次の瞬間。
体の中を大地がうねるような感覚が走り、
激しい眩暈とともに、視界が大きく揺れる。
――意識が、遠のく。
アーノルドの腕の中で、ジゼルは崩れ落ちた。
「早く中へ!」
ナタリアの叫びに、アーノルドは答える代わりに走り出す。
腕の中の華奢な体を決して離さないと、強く抱きしめて。
ベルハルトは、その場に膝をついた。
ジゼルが祈り続けたその場所に、
淡い光を宿した花が、一輪だけ残されている。
ジゼルの覚悟を受け取ったその花に、ベルハルトはそっと触れた。
「これが奇跡の花……」
ゆっくりと立ち上がり、命じる。
「鉢に植え替えろ! 明日の早朝帰国する。……枯れたら大変だ」
ベルハルトは思う。
大きな願いが天に届かなかったのは残念だ。
それでも、今はこの一輪だけが必要なのだと。
***
ジゼルは、生きていた。
それだけで、もう十分だった。
「命に別状はありません。ただ眠っているだけですよ」
医師の説明にアーノルドの肩から力が抜けた。
膝がわずかに震え、自分がどれほど張り詰めていたのかを知る。
雪のように白く変わった彼女の髪が、枕の上に静かに広がっている。
ジゼルは悲しまないだろう、とアーノルドは思った。
これは罰ではない。
誰かを守ろうとして、最後まで戦った証なのだ。
同じく、ナタリアの肩からも、ようやく力が抜けた。
あの胸が張り裂けそうな時間を、自分はどう過ごしただろうか。
二人は、どれほどの時間、祈り続けていたのだろう。
寒さも、疲労も、感覚としてはもう思い出せない。
ただ、ナタリアは最初、
兄の方が先に倒れてしまうのではないかと恐れていた。
けれど、異能の光は、ジゼルだけではなく、
彼女を守ろうとしたアーノルドの存在ごと包み込んでいた。
もし、どちらか一人でも心が折れていたら。
もし、手を離していたら。
あの奇跡は起きただろうか。
二人の祈りが重なったから、奇跡は起きた。
ナタリアは、そう信じたかった。
しばらくして、ジゼルのまぶたが、かすかに動いた。
ゆっくりと開いた瞳に最初に映ったのは、泣きそうな顔をしたアーノルドだった。
「……私……生きてる……」
指先を動かすと、ちゃんと感覚が戻ってくる。
「ジゼル、大丈夫か?」
その声はジゼルの胸を熱くした。
暗い闇の底から、引き上げてくれた声。
あの時は、ずっと遠くにあったのに。
今は、こんなにも近くで聞こえる。
「はい。アーノルド様こそ、お体は平気ですか?」
「平気だよ。すっかり元気になったみたいだ」
その笑顔に、ジゼルは何か言おうとする。
けれど、胸がいっぱいで、ただ彼を見つめることしかできなかった。
──生き残った。
祈りは失敗したと、ジゼルは思った。
(私は最後に、生きることを切望してしまった)
影を落としたジゼルの頬に、アーノルドはそっと触れた。
「あの花は、ベルハルト殿下が持ち帰ったよ。明日の朝、国に持って帰るそうだ」
「あの一輪だけ、成功したと思います。病気が治るといいけど……」
「きっと治るよ。心配いらない。終わったんだよ、頑張ったね」
「はい」
それ以上の言葉は必要なかった。
静けさが、やさしく二人を包む。
二人の時間を壊したくなくて、ナタリアはそっと部屋を出る。
廊下に出ると、夜の冷気が頬に触れた。
少し前、ベルハルトは『春に迎えに来る』と短く告げて帰って行った。
そして、ようやく気づく。
ベルハルトのコートを借りたままだということに。
ナタリアはそれを丁寧にたたみ、
残ったぬくもりを確かめるように、ぎゅっと抱きしめた。
北方の遠い春の香りがする。
胸の奥が、温かく満たされていくような気がした。
読んでいただいて、ありがとうございました。




