2 999回目は婚約破棄?
「大丈夫ですか~?」
地面に転がったクレスに、メイナが真っ先に駆け寄った。
「ほっぺが真っ赤です。可哀想……」
「ああ、メイナは優しいな。やはり女性はこうでなくては」
クレスはナタリアを睨みつけた。
「婚約者の頬に触れただけだ! 何が悪い!」
「いいえ。貴方は叩いたわ、2回も!」
睨み合う二人に、ジゼルは消え入りそうな声を絞り出した。
「あの……私は大丈夫ですから……」
「黙れ! お前のせいで俺は殴られた! そこに膝をついて謝れ!」
「はい」
999回目は、土下座で終わりそうだった。
だがまたしても、それをナタリアが遮る。
「お止めなさい!」
「ふぇ……?」
「こんな虐待男とは婚約破棄すべきよ。いつも偉そうに命令して、許せないわ!」
ジゼルは唇を噛んだ。
(……気持ちは、痛いほど嬉しい。でも、ナタリア様、あと一回なんです!)
「クレス様は大切な婚約者です。破棄など……できません」
「はぁ? 浮気しているのよ。有責で訴えなさい」
実家からは「侯爵家に骨を埋めろ」と釘を刺されている。
ジゼルの帰る場所なんて、どこにもないのだ。
「ナタリア様。お願いです。どうか、もう、お止めください……っ」
ジゼルが深く頭を下げた、その時。
「あはははは……」
クレスが笑い出した。
「いいぜ、破棄しよう。ジゼル、お前はもう俺の婚約者じゃない!」
ジゼルは、すぐに答えを出せなかった。
一拍だけ、呼吸を整える。
「……確認させてください」
「あ?」
「それは、貴方ご自身の意志で間違いありませんね?」
クレスは苛立ったように舌打ちした。
「そうだ! 婚約は破棄だ! どこにでも消え失せろ」
その言葉を、ジゼルは逃がさなかった。
「はい、承知しました」
静かに、しかしはっきりと。
「私は今、この場で――
ジェリコム侯爵令息クレス様との婚約を、破棄することを選びます」
(あなたに尽くす人生を、終わらせることが……私の999回目だった)
(罪滅ぼしは――終わったわ)
呪いが解けたという劇的な実感は、まだない。
けれど、この最後の1回だけは、誰かの命令じゃない。ジゼルが、自分の意思で選んだ「答え」だった。
「良かったわね、ジゼル。私が証人になるわ」
ナタリアは微笑み、ジゼルの手を取った。
だが。
「お……お前、本気か? 嘘だろう?」
なぜかクレスは、ひどく狼狽していた。
クレスが焦るのも無理はない。
二人の婚約は、家同士の誓約なのだから。
「クレス様が望んだことです。どうぞメイナ様とお幸せに」
「は? 本気なんだな?」
本気も本気、ジゼルに未練は一切ない。
これまでの仕打ちを思えば、呪ってやりたいほどだ。
「はい。婚約破棄、確かに承りました」
メイナが満面の笑みでクレスに抱きつく。
「これで私達、結婚できますね~」
「ジゼル、婚約破棄するなら裸で出て行けよ! お前の持ち物は全部、侯爵家の金だ!」
あまりの言葉に、ジゼルは言葉が出ない。
呪いが解けても、クレスはどこまでも醜悪だった。
「早く制服を脱げよ! はははは」
──ドガッ!
次の瞬間、ナタリアの拳がクレスの腹に突き刺さり、彼は泡を吹いて倒れた。
「キャァアアーー! クレス様!」
メイナの悲鳴がテラスに響く。
「ふっ、最低ね! ジゼル、貴方の家まで送って差し上げるわ」
「ナタリア様、修道院までお願いします。実家には帰れませんので」
「まぁ、どういうこと? 私、余計なことをしたかしら?」
いいえ、とジゼルは首を振った。
彼女が背中を押してくれなければ、婚約破棄などできなかった。
「感謝しています。これからは、自分の為に生きます」
もうクレスの命令に従う事はない。
来世こそ、普通の幸せを。
修道院でそう祈りながら生きていく。
ジゼルは、左手の指輪を外した。
「これで終わりです」
クレスの足元へ、それを落とす。
「さようならクレス様」
指輪を、メイナが「勝利品」のように拾い上げて満足そうに微笑む。
『これで私が侯爵夫人よ』とでも言うように。
*****
修道院へ向かうはずだった。
それなのにジゼルは、ナタリア公爵令嬢の屋敷の客室にいた。
柔らかな絨毯、白磁のカップ。
丁寧に注がれた紅茶から、かすかに花の香りが立つ。
ジゼルの指先は震え、カップに口をつけることができなかった。
「そんなに身構えなくていいわ」
向かいで紅茶を飲むナタリアが、穏やかに言う。
「修道院へ行くと言ったわね。どうして?」
その問いに、ジゼルの胸がひくりと脈打つ。
話すつもりなんてなかった。
──けれど、ここまで来てしまった。
「……呪われていました」
ナタリアは驚いた様子も見せず、ただ静かに続きを待っている。
「私は……《罪滅ぼし》をしていたのです」
読んでいただいて、ありがとうございました。




