18 セドリックとベルハルト
王太子殿下セドリック来訪の日、屋敷はザワ付いていた。
誰もが落ち着かない、そんな中、ジゼルは部屋に閉じ込められていた。
「約束だよ? 決して部屋から出ないようにね」
アーノルドは一言だけ残し出て行った。
告白された日から彼は驚くほど何も変わらない。
穏やかで、壊れ物を扱うような優しさを纏ったまま、ジゼルを何かから守ろうとしていた。
一方、ナタリアはピリピリした様子が、ずっと続いていた。
ジゼルにできることは、ただ寄り添うことだけだった。
目の前には白いハンカチが何枚か並べられている。
ナタリアは今度、教会のバザーに参加するらしい。
今日は刺繍をして過ごそうとジゼルは針に、赤い糸を通した。
高位貴族令嬢の嗜みは、ジェリコム侯爵家で身に着けていた。
なんせ、あのクレスの妻になる予定だったのだ。
時々、頭をよぎる過去の記憶は──完全に消えてはくれない。
「刺繍は無心になれるわ」
ジゼルは針を動かし続けた。
その頃、公爵家総出で王太子殿下を出迎えていた。
形式的な挨拶が終わり、サロンに向かうとソファに腰を下ろすなり、セドリックは自然に口を開いた。
「アーノルドはどうしている?」
「ベッドの上でございますわ。安静が必要な身ですので」
「後で見舞おう」
「結構ですわ。具合が悪くなると困りますので」
ジゼルという「隠された奇跡」がいることを、ナタリアは死んでも明かすつもりはなかった。
「ご用件を伺いましょう。まさかまた側妃のお話ではないでしょうね?」
娘の生意気な口調に公爵夫妻は冷や汗を拭う。
セドリックは気にする様子もない。慣れたものだ。
「……側妃が嫌なら、せめてリーゼの友人になってくれないか。彼女は不安なんだ。君を支持する貴族たちの視線に怯えている。君が彼女の味方だと示してくれれば、すべては丸く収まるんだ」
「お断りします。平民の支持など出来ません。他の貴族令嬢なら考えますけど」
セドリックは、予想通りの答えに深いため息をついた。
「最近のリーゼ様のお噂は、殿下のお耳に届いていませんの?」
ナタリアの追及に、セドリックの眉間に深い溝が刻まれた。
聖女として祭り上げられたリーゼは、今や贅沢の味を覚え、神殿さえも頭を抱えるほどに変貌している。
半年も経てば、奇跡の熱は冷め、代わりに不満が塵のように積もっていく。セドリックもそれを感じていながら、自分を救ってくれた「恩人」を諫めることができずにいた。
彼はナタリアに、汚れ役を求めている。彼女が厳しく接することで、リーゼを元の「清らかな聖女」に戻してほしいという、あまりに独りよがりな願い。
「長年の付き合いに免じて、頼むよ」
「私に悪役令嬢になれと? お断りですわ。甘やかした王家の責任です」
「それは……」
セドリックは困ればナタリアを頼って来た。
彼にとってナタリアは、心強い姉のような避難場所だったのだ。
「あなたは、優しい分だけ、あの男より残酷だわ。どうぞお帰りになって」
ナタリアが立ち上がる。けれど、セドリックは動かなかった。
「今日は、もう一つ重大な話があるんだ。……ノース王国の第一王子、ベルハルト殿下の来訪についてだ」
サロンの空気が、さらに重く沈み込む。
「彼の目的は、このデュアム公爵家を訪問することだ。……おそらく、ナタリア。君に求婚するために」
(――冗談でしょ)
ナタリアは、笑いそうになった。
「ベルハルト殿下には、婚約者がおられたはずですが?」
「破談になったそうだ。彼は以前から君を高く評価していた。人を見る目があるということだろうね」
「あら、それは光栄ですわ。
少なくとも、どこかの国の王太子殿下よりは、審美眼がおありのようですわね。ほほほほ」
ナタリアの高笑いがサロンを通り抜けていく。
セドリックは苦虫を噛み潰したような顔で、それを聞いていた。
「歓迎の式典には、必ず参加してほしい」
「承知いたしました。……それと、殿下。一つだけお願いがございます」
「なんだ」
「私のことは、『デュアム公爵令嬢』とお呼びください。リーゼ様が、気にされますので」
「水臭い事を言わないでくれ」
セドリックは立ち上がった。
「帰るよ。また会おう」
「さようなら、殿下。……二度と、私の名前を気安く呼ばないで下さいませ」
扉が閉まり、静寂が戻る。
ナタリアは、彼との間に横たわる溝の深さを、改めて感じていた。
幼なじみという甘さは抜けて、ほろ苦い想いだけが胸に残る。
「憎み切れたら……いいのに……」
ジゼルのように綺麗さっぱりと、過去にしてしまえば楽になる。
でもまだナタリアには、思い出の全てを捨て去ることはできなかった。
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