1 呪われています
息を切らし、苦しい胸を押さえながら、ジゼルは必死に走っていた。
ケーキの箱を抱え、学園の門を目指して。
「……はぁ、はぁ……」
きっかけは、彼女の一言だった。
『今日はマロンケーキが食べたいわ~』
『30分以内に買ってこい』
婚約者クレスは、ジゼルの顔すら見ずに財布を放り寄越した。
彼の隣には、彼の恋人――メイナ子爵令嬢が微笑んでいた。
金糸の髪を振り乱し、伯爵令嬢が街を走り回る姿は滑稽だろう。
だが、ジゼルにとってはいつものことだった。
婚約者のために走る。
命じられれば、笑顔でうなずく。
それが、自分の役目だと信じていたから。
学園に戻ると、ジゼルは息を整える間もなく食堂のテラス席へ向かった。
「遅いぞ」
いつだってクレスの声は冷たい。
「申し訳ございません」
ケーキを皿に移し、差し出す。
メイナは嬉しそうに目を細めた。
「まあ、美味しそう。ご苦労さま、うふふふ」
鈴を転がすような笑い声。
その瞳の奥にあるのは、優越感だった。
周囲から飛んでくる、とげを含んだ囁きがジゼルに容赦なく刺さる。
──哀れな婚約者。
──借金奴隷。
それでもジゼルは、微笑みを崩さない。
嫌な顔をすれば、また責められるのは自分だと知っているから。
「おい」
「はい、クレス様」
「帰るまでに、俺の課題を終わらせておけ」
「あ、私の分もお願い~」
「承知しました」
二人の鞄を手に取り、図書室へ逃げ込もうとした、その時。
「……お待ちなさい!」
鋭い声にジゼルは足を止める。
振り返ると、そこには公爵令嬢ナタリアが、凛とした、けれどどこか苛立ちを孕んだ様子で立っていた。
「クレス様。確か貴方は3年生でしたわね」
「そうですが、何か?」
「2年生に課題を押しつけるなど、恥を知りなさい!」
空気が張り詰める。
クレスの整った顔が、不快そうに歪んだ。
彼は忘れている。
ナタリアは、浮気した元婚約者の王太子殿下を、殴り飛ばした豪胆な人物であることを。
「やりたくなければ、やらなくていいぞ? なあ、ジゼル?」
クレスはそう言いながらジゼルの頬を軽く叩いた。
次の瞬間。
乾いた音が、テラスに響く。
それは、ナタリアがクレスの胸倉を掴み、その横面を容赦なく張り倒した音だった。
痛快な光景! けれど、ジゼルの顔から血の気が引いた。
(――やめて!)
ジゼルにとって、その正義は救いではなかった。
今はまだ……。
ジゼルは、誰にも知られていない「役割」を背負っている。
それを終えなければ、決して自由にはなれない。
そして、今が――
**最後の一歩だった。**
(お願いです。どうか、邪魔をしないで!)
胸の内でジゼルは祈った。
なぜなら、彼女は前々世に罪を犯し、呪いを受け、《罪滅ぼし》の最中だったから。
《ジェリコム侯爵家の呪い》──それは婚約者クレスの生家から受けている呪いだった。
**呪いを解くには《罪滅ぼし》を999回行わなければならない。**
『つまりは──ジェリコム侯爵家の人々の願いを、誠意や愛情をこめて999回叶えることだ』
かつて、占い師の老女にそう教えられた。
クレスと婚約して7年。
さっきマロンケーキを買い終えて、《罪滅ぼし》を998回まで積み上げた。
今、クレスたちの課題を片付ければ999回目が終わる。
(呪いから解放される!)
(ああ、あと1回……1回なんです!)
そんな事情を知らないナタリアは、クレスを一瞥したあと、ジゼルへと視線を戻した。
「以前から、見ていられなかったのよ」
その声は、さっきまでの苛立ちは消え、穏やかだった。
「貴女はもっと、自分自身を大切にするべきだわ」
「ナタリア様……」
ジゼルは、初めて人の優しさに触れた気がした。
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