閑話③ そのあとで、知らされること
白い天井だった。
ひよりは、
それだけを覚えていた。
目を開けても、
すぐに閉じてしまう。
体が重くて、
考えることができなかった。
誰かの声が、
遠くで重なっている。
「……ひよりちゃんは、落ち着いています」
「今は、眠らせていますから」
言葉の意味は、
ひよりには届かなかった。
ただ、
胸の奥に残った、
説明のつかない疲れだけが、
現実だった。
⸻
ひかりは、
病室の外のベンチに座っていた。
足は床につかず、
靴の先が、
少し揺れている。
前にいるのは、大人が三人。
先生と、
見慣れない服の人と、
ひよりと同じように、
耳としっぽを持つ大人。
「怖くないからね、ひかりちゃん」
そう言われて、
ひかりは小さく頷いた。
「さっきの公園でのこと、
覚えているところだけでいいよ」
からかわれていたこと。
止めに入ったこと。
ひよりが、急に倒れたこと。
ひかりは、
思い出せる範囲を、
一つずつ話した。
「ありがとう、ひかりちゃん」
その言葉に、
少しだけ肩の力が抜ける。
耳としっぽのある大人が、
穏やかな声で続けた。
「ひよりちゃんから、
特別な名前を聞いたことはある?」
ひかりは、
一瞬だけ迷ってから答えた。
「……ある」
「そう」
声の調子は変わらない。
「じゃあね、ひかりちゃん。
その名前を、
声に出したことはあるかな」
ひかりは、
首を傾げた。
思い返してみる。
でも、
“呼んだ”という感覚はなかった。
残っているのは、
音が返ってきたような、
曖昧な感じだけ。
「……分からない」
正直に、そう言った。
「うん、そうだよね」
責める様子はなかった。
「覚えていないなら、
大丈夫だと思うよ」
そう言われて、
胸の奥が少しだけ軽くなる。
「これからはね」
先生が、
子どもに言い聞かせるみたいに続けた。
「その名前のことは、
あまり口にしないでほしいんだ」
「ひよりちゃんが、
疲れちゃうことがあるから」
——疲れちゃう。
その言い方は、
やさしくて、
でも、どこか曖昧だった。
「ひよりちゃんのこと、
大事に思ってるよね」
「……はい」
即答だった。
「それなら、
今みたいに、
そばにいてあげて」
「ひかりちゃんも、
無理はしないでね」
それで、話は終わった。
⸻
「ひよりちゃんが目を覚ましたら、
今日はもう、休ませます」
そう言われて、
病室のドアは開かなかった。
入っていいとも、
会えるとも言われない。
ひかりは、
白い扉の前で、
しばらく立っていた。
でも、
呼ばれることはなかった。
⸻
そのまま、
ひよりは異世界へ戻った。
手続きは静かで、
早かった。
「体調を考慮して」
「環境を変えたほうがいい」
そういう言葉だけが並び、
止める人はいなかった。
ひかりに知らされたのは、
少し経ってからだった。
「ひよりちゃんは、
しばらく戻らない」
理由も、
行き先も、
詳しくは教えられなかった。
⸻
その日の帰り道、
ひかりは公園の前で足を止めた。
ブランコは、
動いていない。
名前を呼ぶことも、
できなかった。
呼んでいいのか、
分からなかったから。
胸の奥に、
小さな違和感だけが残る。
——あのとき、
何が起きたのか。
——自分は、
何をしてしまったのか。
答えは、
どこにもなかった。
ただ、
会えなかった、
という事実だけが、
静かに残っていた。




