もしもの話⑪ 特別な季節
その日は、朝から胸がぽわぽわしていた。
ひよりはソファに座って、足をぶらぶらさせる。
理由は分からないけど、今日は――
名前を呼ぶと、安心する日。
「ひかり」
声に出すと、ふっと肩が下がった。
それだけで、少し楽になる。
⸻
午後。
インターホンが鳴る。
ドアの向こうから、聞き慣れた足音。
考えるより先に、ひよりは立ち上がっていた。
ドアが開いた瞬間、
ひよりは一歩、近づいて――
「ひかり!」
そのまま、ぎゅ。
「え、ちょ、ひより……!」
ひかりの声が上ずる。
抱きつく力は強くない。
でも、ほどこうともしない。
ひよりは頬を押し当てて、静かに言う。
「ひかり、いる」
「いるけど……どうしたの?」
「わかんない」
正直な答えだった。
胸の中がぽわぽわして、
名前を呼びたくて、
近くにいたかった。
それ以上の理由は、ひより自身にも分からない。
ひかりは一瞬だけ戸惑ってから、そっと息を吐く。
「……今日は、そういう日?」
「たぶん」
「たぶんって……」
言いながらも、拒まない。
ひよりは少し安心して、手を握る。
「ひかりの手、あったかい」
「それは……体温です」
ひかりの耳が、みるみる赤くなる。
「ねえ」
「なに?」
「そば、いて」
短い言葉。
でも、ひよりにとっては精一杯だった。
ひかりは小さく笑う。
「……はいはい。逃げないよ」
その声で、
ひよりの胸のぽわぽわが、少し落ち着いた。
⸻
「……あら?」
廊下の奥から、やわらかい声。
ひよりママだった。
状況を一目で理解して、微笑む。
「もう、そんな季節なのね」
ひかりがぱっと顔を上げる。
「え? 季節?」
「この子ね」
ママはひよりの頭に手を置く。
「年に一度くらい、ちょっと不安定になるの」
「不安定……?」
「甘えんぼになる、って言ったほうが近いかしら」
ひよりはぎゅっと力を強める。
「ひかりぃ」
「呼んでいいけど……多すぎっ!!」
ひかりが思わず突っ込む。
ひよりは一瞬むっとして、
「やっ!!」
と抵抗する。
ママの声が、少しだけ低くなる。
「ひより」
それだけで、ひよりはぴたりと止まった。
「行きましょう。少し休もうね」
ひよりは名残惜しそうに、もう一度だけひかりを見る。
「……ひかり」
「あとでね」
「……うん」
ママに連れられて部屋へ向かう背中を、
ひかりは静かに見送った。
⸻
しばらくして。
ママが一人でリビングに戻ってくる。
「ごめんね、びっくりしたでしょう」
「い、いえ……」
「私も昔、大変だったの」
くすっと笑って、続ける。
「でも、すぐ治まるから。
そしたら、また今まで通り仲良くしてあげて」
「……はい」
ママは少し照れたように視線を逸らす。
「今は、パパがいるから……」
ぽっと、頬が赤くなる。
ひかりは何も言わず、ただうなずいた。
その家は、その日も静かで、あたたかくて。
きっと――
ひよりに弟か妹ができる日も、
そう遠くはないのだろう。




