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第5話 崩れかけた均衡

朝、目が覚めたときから、ひよりは少しだけ重かった。


体が、というより、

胸の奥に薄く何かが溜まっている感じ。


制服に袖を通し、鏡の前に立つ。

耳と、しっぽ。


いつも通りそこにあるはずなのに、

今日はやけに存在を主張してくる。


視線を合わせた途端、

理由もなく喉が詰まった。


「……大丈夫」


小さく言って、鏡から目を逸らす。


大丈夫じゃない理由を、

考えようとする前に、思考を切る。


考えたら、動けなくなる。


学校に着く頃には、

その「重さ」は意識の奥に押し込まれていた。


教室。

席。

いつもの風景。


「おはよー」


声をかけられ、ひよりは少し遅れて顔を上げる。


「……おはようございます」


返事はできた。

声も、震えていない。


だから、

周囲から見れば問題はない。


授業中、板書を書く手が、少しだけ遅れる。

チョークの音が、やけに耳に残る。


集中しようとするたび、

逆に呼吸が浅くなる。


——落ち着いて。


何度も、心の中で繰り返す。


休み時間。


席を立とうとして、

立ち上がるタイミングを逃す。


今、誰かに話しかけられたら、

ちゃんと返せるか分からない。


そんな考えが浮かんだ瞬間、

ひかりの声がした。


「……ひより?」


ひよりは、はっとして顔を上げる。


「……なに?」


返事が、少しだけ短い。


ひかりは気づく。

声の高さ。

視線の合わなさ。


「今日、ちょっと元気ない?」


ひよりは、一瞬だけ口を開きかけて、閉じた。


言葉を探した、というより、

出てくる言葉が、どれも使えなかった。


「そんなこと……ないよ」


否定は、弱く揺れる。


それでも、

“否定した”という形だけは残した。


ひかりは、それ以上詰めなかった。

ただ、距離を詰めすぎない位置に立つ。


「無理、してない?」


その言葉に、

ひよりの肩が、ほんのわずかに跳ねた。


無理。


その単語が、

押し込んでいたものを叩く。


「……たぶん」


曖昧な返事。

それ以上、言えない。


ひかりは思う。


——これは、見逃したら駄目なやつだ。


でも、

ここで踏み込めば壊れる気もした。


昼休み、ひよりは食堂に向かわなかった。


人の多さを想像しただけで、

足が止まる。


ひかりは、教室に残るひよりを見て、

少しだけ迷ってから声をかけた。


「……一緒緒に、どっか行こ」


言い切りではない。

逃げ道を残した誘い。


ひよりは、ほんの数秒考えてから頷く。


校舎の端。

人の気配が薄い場所。


ベンチに腰を下ろした瞬間、

ひよりの背中が大きく丸まった。


「……ごめん」


唐突な言葉。


「なにが?」


「……分かんないけど」


それだけで、

言葉が続かない。


ひかりは、隣に座ったまま前を見る。


顔を覗き込まない。

でも、離れない。


「昨日のこと」


ひかりが、低く言う。


ひよりの指が、膝の上で強く絡まった。


「……ああいうの、嫌でしょ」


確かめるような声。


「嫌」


短い返事。


そのあと、少し間があってから。


「……でも」


ひよりは、視線を落としたまま続ける。


「なんでもないって、思われた方が……楽」


言い終えた瞬間、

息が浅くなる。


ひかりは、胸の奥が冷えるのを感じた。


——それは、楽じゃない。


「ひより」


名前を呼ぶ。


「それ続けたら……壊れる」


初めて、

少しだけ強い言葉になった。


ひよりは、何も言えなかった。


否定できない。

肯定する勇気もない。


「私さ」


ひかりは、そこで言葉を止める。


決意には、まだ早い。


「……できること、あったら言って」


精一杯の、踏み込みすぎない言葉。


ひよりは、しばらくしてから、小さく言った。


「……迷惑、かけるよ」


「うん」


ひかりは、否定しなかった。


「それでも」


それだけ言って、続きを飲み込む。


ひよりは、目を閉じたまま息を吐く。


泣かなかった。

でも、

立て直すために、目を閉じた。


その様子を見ながら、

ひかりは思う。


——もう、均衡は薄い。


まだ壊れてはいない。

でも、

次に何かあれば、崩れる。


その予感だけが、

はっきりと残った。

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