第4話 余韻
教室は、何事もなかったように授業へ戻っていた。
転校してから、三日目。
この学校の時間の流れにも、少しだけ慣れてきた頃だった。
チャイムが鳴り、教師の声が響く。
机を叩く音、ノートを開く音。
さっきまでそこにあった空気は、もう形を残していない。
ひよりは、前を向いたまま板書を写していた。
文字は読めている。
でも、内容は頭に入ってこない。
――やめて。
ひかりの声が、まだ耳の奥に残っている。
あの一言で、空気が止まった。
自分の前に、はっきりと線が引かれた。
ひよりは、ペンを持つ指に少しだけ力を入れた。
怖かった。
嫌だった。
でも――
触られなかった。
それだけで、胸の奥が少し落ち着く。
隣の席に視線を向ける勇気は、まだなかった。
ひかりは、何も言わない。
振り返らない。
ただ、いつも通り前を向いている。
その背中が、
今日はやけに近く感じられた。
授業の途中、教師が黒板に向き直った瞬間。
ひよりは、ほんの一瞬だけ息を吐いた。
助かった、と思ってしまった。
その事実に、
少しだけ自己嫌悪も混じる。
――自分で断れなかった。
――また、守ってもらった。
でも、
それ以上に大きかったのは、
――一人じゃなかった。
という感覚だった。
一方で、ひかりは板書を書き写しながら、
ほとんど内容を追っていなかった。
視界の端で、ひよりの動きが分かる。
ペンの速度。
肩に入った力。
大丈夫そうに、見える。
でも、それは――
「大丈夫なふり」かもしれない。
さっきの場面で、
ひよりはほとんど何も言えなかった。
小さく、声を出そうとして、
出せなかった。
その様子が、
ひかりの中に引っかかって離れない。
――あのまま、誰も止めなかったら。
考えたくない想像を、
ひかりは意識的に脇へ追いやった。
自分が入ったのは、正しかった。
それだけは、揺らがない。
でも同時に、
胸の奥に小さな棘が残る。
もっと早く、気づけたんじゃないか。
最初の段階で、止められたんじゃないか。
答えの出ない考えが、
静かに積もっていく。
――やっぱり。
ひかりは、ペンを止めた。
――この子には、私がいないと。
理由を並べるほどのことじゃない。
ただ、そう思った。
次の休み時間、教室はまたざわめきに包まれた。
席を立つ音。
誰かを呼ぶ声。
机を囲む輪が、あちこちにできていく。
ひよりは、席に座ったままノートを閉じた。
立ち上がる理由が、見つからない。
周囲の視線が、完全に消えたわけじゃない。
でも、さっきのような熱はなかった。
隣の席が、静かに動く。
ひかりが、振り向いた。
「……大丈夫?」
声は低く、周りに溶けるくらいの大きさ。
ひよりは、一瞬だけ間を置いてから頷く。
「……うん」
胸の奥に引っかかっているものは残っている。
でも、それを言葉にできない。
ひかりは、少しだけ目を細めた。
「無理してない?」
さっきよりも、柔らかい聞き方。
ひよりは、肩をすくめるように息を吐いた。
「……たぶん、大丈夫」
はっきりとは言い切らない。
それが、ひよりなりの正直だった。
ひかりは、それ以上踏み込まなかった。
「今日はさ」
少し間を置いてから、続ける。
「放課後、用事ある?」
昨日と同じ言葉。
でも、今日は少し違って聞こえた。
「……特には、ない」
「そっか」
それだけで、会話は終わる。
けれど、
それ以上の言葉がなくても、
ひよりの肩の力は、少しだけ抜けていた。
昼休み。
ひよりは、売店で買ったサンドイッチを机の上に置いた。
食欲がないわけじゃない。
でも、手が少し遅れる。
ひかりが、ちらりとこちらを見る。
「……大丈夫?」
「……うん」
即答だった。
嘘じゃない。
まだ、大丈夫だ。
「……さっきは」
ひよりが、小さく口を開く。
ひかりは、何も言わずに待った。
「……ありがとう」
ひかりは、ほんの少しだけ頷く。
「いいよ」
短い返事。
それで十分だった。
ひかりは立ち上がり、
教室の前の方へ向かう。
委員長として呼ばれている声に、
応えるためだ。
その背中を見ながら、
ひよりは思う。
――ちゃんと、見てくれてる。
放課後の廊下は、昼間より静かだった。
部活へ向かう足音が遠ざかり、
教室から出てくる生徒の数も減っていく。
ひよりは、鞄を肩にかけて廊下に出たところで、
足を止めた。
誰かを待っているわけでもないのに、
自然と歩く速度が落ちる。
「……ひより」
後ろから、声がした。
振り返ると、ひかりが立っている。
委員長の腕章は外していて、
今はただの同級生の顔だった。
「帰る?」
「……うん」
それだけのやり取り。
並んで歩き出す。
校舎を出ると、夕方の空気が肌に触れた。
昼より少し冷たくて、
頭の中を静かにしてくれる。
ひかりが、歩きながら言った。
「次からはさ」
一拍、間があった。
「……いつでも連絡して」
ひよりは、一瞬だけ言葉を探してから、頷く。
「……うん」
短い返事。
でも、そこにはちゃんと意味があった。
校門の前で、足が止まる。
ここから先は、帰り道が違う。
ひかりはそれ以上何も言わず、
先に歩き出した。
人の流れに、自然に紛れていく背中。
ひよりは、その姿が見えなくなるまで立ち止まってから、
反対方向へ歩き出した。
夕暮れの道を進みながら、
胸の奥に残っているものを確かめる。
怖さは、まだある。
嫌だった感覚も、消えてはいない。
それでも。
今日は、
ちゃんと止めてもらえた。
それだけで、
心の奥が少しだけ軽い。
ひよりは、息を吐いた。
――大丈夫。
少なくとも、今日は。
そう思いながら、
寮へ続く道を歩いていった。




