閑話 気づかなかった違和感
夕方、洗濯物を取り込んでいると、
玄関のドアが開く音がした。
「ただいま」
ひかりの声。
しずくは振り返りながら、
「おかえり」と返す。
そのとき、
一瞬だけ、手が止まった。
——声が、少し低い。
風邪をひいたわけでもない。
疲れている、というほどでもない。
ただ、
前と同じ音なのに、同じじゃない。
ひかりは靴を揃え、
何も言わずにリビングを横切る。
「ごはん、あとでいい?」
振り向かずに言った。
「……いいけど」
そう答えながら、
しずくはひかりの背中を見る。
姿勢はいつも通り。
歩き方も変わらない。
でも。
——急いでないのに、
早く通り過ぎようとしている。
そんな感じがした。
「今日は、学校どうだった?」
なんとなく、聞いた。
「普通」
即答。
短すぎる。
「そっか」
それ以上、続けなかった。
しずくは、
踏み込まないことを選ぶ。
ひかりは昔から、
話したいときは自分から話す。
今は、
そのタイミングじゃない。
それだけのこと。
……のはずだった。
夜、
電気を消し忘れた廊下を歩いていると、
ひかりの部屋から、
小さな音が聞こえた。
何かを、
引き出しにしまう音。
布が擦れる音。
一瞬だけ、
何かを隠すような気配。
「……?」
立ち止まって、
耳を澄ませる。
でも、
それ以上は何も聞こえなかった。
しずくは、
そのまま自分の部屋に戻る。
布団に入ってから、
天井を見つめる。
——聞かなかった。
——聞けなかった。
どちらでもある。
心配、というほどじゃない。
不安、と言うには弱い。
ただ、
ひかりの中に、
説明のつかない「層」が一枚増えた
そんな感じ。
翌朝。
ひかりは、
いつも通り制服を着て、
家を出た。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい」
何も、変わらない。
……でも。
ドアが閉まったあと、
しずくは思う。
——前から、
あんな目で下を見る人だったっけ。
分からない。
分からないから、
決めない。
しずくは、
洗面台に向かいながら、
小さく息を吐いた。
「……ま、いっか」
今は、
それでいい。
気づかなかったことにした違和感は、
まだ、
違和感のままだった。




