第2話 放課後
放課後のチャイムが鳴ると、教室の空気がまた少し変わった。
椅子を引く音。
部活の話。
帰り支度を急ぐ足音。
ひよりは、教科書を鞄にしまいながら、何度か視線を前に向けた。
声をかけるタイミングが、分からない。
――約束は、してる。
――でも、向こうも忙しいかもしれない。
そんなことを考えていると、前の席が静かに動いた。
「行こっか」
ひかりだった。
振り返ると、もう鞄を肩にかけている。
昔とは違う、少し離れた距離感。
「……うん」
ひよりも立ち上がる。
二人並んで教室を出ると、廊下には放課後特有のざわめきが広がっていた。
「とりあえず、校内一通り見とこ。
使うところだけでいいから」
「ありがとう……」
「気にしなくていいよ。
最初は迷うし」
歩き出すと、自然とひかりが半歩前に出る。
案内役として、無意識に身についた動き。
廊下を進む間、すれ違う生徒たちの視線が、時々ひよりに向く。
昼間より、少しだけ露骨だ。
ひよりは、背筋を伸ばした。
ここでも、上手くやらなくちゃいけない。
「ここが職員室。
朝、来たと思うけど」
ひかりが立ち止まり、扉を指す。
「先生と話すなら、
朝は混むから、放課後の方が話しやすいかな」
「……覚えとく」
「次、保健室」
短い説明が続く。
必要なことだけ。
余計なことは言わない。
そのテンポが、ひよりにはありがたかった。
「部活とかは、どうするの?」
廊下を歩きながら、ひかりが聞く。
「まだ……考えてない」
「そっか。
無理に決めなくていいよ」
“無理に”という言葉に、ひよりは小さく頷いた。
廊下の突き当たり、窓から夕方の光が差し込む。
昼間とは違う、少し柔らかい色。
「あと、購買は昼だけだから。
忘れがちだけど」
「……あっ、そうなんだ」
こうして並んで歩くのは、久しぶりだ。
昔と同じではない。
でも、遠すぎるわけでもない。
話す内容は、必要なことばかり。
それでも、この距離が心地よかった。
「次、外に出よっか」
ひかりがそう言って、昇降口の方を指す。
ひよりは、小さく息を吸ってから頷いた。
昇降口を抜けると、外の空気が少し冷たかった。
夕方の校舎は、昼間より静かだ。
部活へ向かう生徒の声が、遠くで重なって聞こえる。
「寮は、こっち」
ひかりが歩き出す。
校舎の裏手へ続く道は、思ったより人通りが少ない。
ひよりは、その少し後ろを歩いた。
並んでいるのに、
校内よりも距離を感じる。
「……寮って、学園の中だと思ってた」
「敷地内だけど、ちょっと離れてるんだよね」
建物の隙間を抜けると、
視界の先に、低めの建物が見えてきた。
新しくも古くもない。
生活のためだけに作られた、実用的な外観。
「ここ」
ひかりが足を止める。
「学園併設寮。
……ここまでだね」
淡々とした言い方だった。
ひよりは、建物を見上げる。
入口は、校舎よりもずっと簡素だ。
「入れないの?」
「うん。
生徒寮だから」
それ以上、理由は付け足さなかった。
ひよりは、小さく頷いた。
ここから先は、
自分だけの場所。
「部屋は個室って聞いてる」
「そう。
制度の関係で、だと思う」
ひかりは、そこまで言って言葉を切った。
スマホを取り出し、画面をひよりに向ける。
「困ったことあったら、
いつでも連絡して」
「……うん」
「今日は疲れたでしょ」
少しだけ、声が柔らかくなる。
「初日だし」
「……ちょっとだけ」
「そっか」
夕方の風が、二人の間を通り抜けた。
「じゃ、私はこっちだから」
ひかりは、来た道の方を指す。
「また明日」
「……うん。また」
短いやり取り。
でも、そこで線が引かれたのが、はっきり分かった。
ひかりは軽く手を振って、校舎の方へ戻っていく。
その背中は、もう“帰る人”のものだった。
ひよりは、しばらくその場に立ち尽くしてから、
寮の入口へ向かった。
寮の中は、思ったより静かだった。
足音が吸い込まれるような廊下。
どこかでドアが閉まる音がして、それきり何も聞こえない。
ひよりは、自分の部屋の前に立ち、鍵を差し込んだ。
がちゃり、と小さな音。
ドアを開けると、
そこには、誰もいない空間が広がっていた。
机と、ベッドと、クローゼット。
必要なものだけが揃った、簡素な部屋。
個室。
一人用。
ドアを閉め、鍵をかける。
その音が、思ったより大きく響いた。
鞄を床に置き、ベッドに腰を下ろす。
制服のまま、しばらく動けなかった。
今日一日を、頭の中でなぞる。
校門。
説明。
教室。
再会。
質問。
ひかりの声。
——触られるの、苦手だったはずだから。
その一言が、まだ耳に残っている。
昔も、そうだった。
ひかりは、いつも先に線を引いてくれた。
ひよりは、自分で断るのが苦手だった。
嫌だと思っても、言葉にする前に飲み込んでしまう。
だから、守られていた。
その事実が、少しだけ胸に沁みる。
ベッドに仰向けになり、天井を見る。
白くて、何もない。
学校では、ひかりがいる。
話しかけてくれる人もいる。
でも、ここでは——
ひよりは、ゆっくりと息を吐いた。
一人だ。
寂しい、とは少し違う。
怖い、とも違う。
ただ、
自分に戻る時間が来ただけ。
ポケットの中で、スマホが小さく重さを主張する。
ひかりが見せてくれた画面を、思い出す。
——困ったことあったら、いつでも連絡して。
そう言われたことが、嬉しくて。
でも同時に、
「困らないようにしなくちゃ」とも思ってしまう。
ひよりはスマホを取り出し、
画面を点けて、また伏せた。
今は、いい。
今日は、まだ大丈夫だ。
制服から部屋着に着替え、
ベッドに横になる。
外は、もう夕暮れだった。
窓の向こうに、校舎の影が見える。
あの中に、ひかりがいる。
——明日も、頑張ろう。
ここでは、上手くやらなくちゃいけない。
でも、
完全に一人じゃない。
その二つを胸に置いたまま、
ひよりは、静かに目を閉じた。




