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第12話 戻れない日常

制服は、もう着ていた。


鞄も持っている。

部屋の中に、忘れ物はない。


それなのに、

ひよりは寮の部屋のドアの前で立ち止まっていた。


ノブに手を伸ばして、

触れる前で止まる。


(……行かなきゃ)


頭では分かっている。

昨日も、そうだった。

今朝も、そうだ。


でも、体が先に拒んでいた。


一歩、外に出たら、

また「普通」が始まる。


何もなかった顔で、

何もなかった声で、

何もなかった一日を過ごさなきゃいけない。


それが、

ひよりには少し重かった。


ドアの前で、

深く息を吸う。


吐いて、

もう一度、吸う。


言葉にしないまま、

ノブを回した。



寮の廊下は静かだった。


朝の支度を終えた生徒たちが、

ぽつぽつと歩いている。


挨拶の声が聞こえて、

ひよりも小さく頭を下げる。


声は出なかったけれど、

それで問題はなかった。


外に出ると、

朝の空気がひんやりしていた。


少し冷たいくらいの方が、

考えなくて済む。


歩き出す。


足は、ちゃんと前に進んでいる。


それだけで、

「行けている」と思ってしまう。



校舎に入ると、

いつもの音が戻ってきた。


靴箱。

廊下。

教室のドア。


全部、昨日までと同じだ。


席に着く。


椅子を引く音が、

少しだけ大きく聞こえた。


「おはよう」


隣から、声。


ひかりだった。


「……おはよう」


返事はできた。

少し遅れたけれど、

声も、震えていない。


ひかりは、

一瞬だけひよりの顔を見てから、

すぐに前を向いた。


——気づかれてない。


そう思って、

胸の奥が少しだけ緩む。


その直後。


ポケットの中で、

スマホが震えた。


短く、

一度だけ。


ひよりは、

画面を見なかった。


見なくても、

誰からかは分かった。


分かってしまった。


心臓が、

一拍だけ遅れる。


周囲は、

いつも通りの教室だった。


笑い声。

雑談。

チャイム前のざわめき。


誰も、

ひよりを見ていない。


ひよりは、

そのままスマホを伏せた。


既読も、つけない。


——今は、見ない。


そう決めた瞬間、

逃げ場が一つ減った気がした。


チャイムが鳴る。


授業が始まる。


ひよりは、

ノートを開いた。


文字は、見えている。

でも、意味はまだ遠かった。



授業中、

ひかりは前を向きながら、

視界の端で隣の様子を追っていた。


ひよりは、ノートを取っている。

姿勢も、昨日までと変わらない。


——ちゃんと、来てる。


それだけで、

少しだけ安心する。


教師の声が流れ、

板書が進む。


ひよりのペンは動いている。

速すぎもしないし、遅すぎもしない。


……でも。


ひかりは、

自分でもはっきりしない違和感に、

一瞬だけ眉を寄せた。


音が、少ない。


紙をめくる音。

椅子がきしむ音。

そういう小さな動きが、

ひよりの周りだけ、控えめに感じる。


——気のせい、か。


そう思って、

視線を黒板に戻す。


質問が投げられ、

ひよりは一瞬だけ顔を上げて、

それから視線を落とした。


指名は、別の生徒に移る。


——疲れてるだけ。


理由はいくらでも思いつく。


ひかりは、

その違和感に名前をつけなかった。



休み時間。


教室にざわめきが戻る。


ひよりは席を立たず、

机に手を置いたままだった。


「……喉、乾いた?」


ひかりが声をかける。


「……うん。大丈夫」


返事は短い。

でも、ちゃんとある。


問題は、ない。


……はずだった。


ポケットの中で、

スマホがもう一度だけ震える。


ひよりの手が、

一瞬止まる。


ほんの一瞬。


でも、

ひかりは見てしまった。


「……どうかした?」


聞きかけて、

言葉を飲み込む。


——考えすぎ。


スマホが鳴ることなんて、

誰にでもある。


「大丈夫?」


聞き換えると、

ひよりは即座に頷いた。


「……うん」


その速さが、

逆に自然すぎて。


ひかりは、

それ以上、何も言えなかった。


——気のせい。


そう結論づけて、

ひかりは立ち上がる。


「ちょっと職員室行ってくる」


いつもの理由。


ひよりは、

「……うん」とだけ返した。


その声を背中で聞きながら、

ひかりは教室を出た。



放課後。


教室の人数が、

少しずつ減っていく。


ひよりは、

少し遅れて鞄を持った。


隣で、

ひかりが立ち上がる。


「今日さ、委員会あるから」


短い言い方。

いつもの調子。


「先、帰ってていいよ」


「……分かった」


返事は、少しだけ早かった。


ひかりは、

一瞬だけひよりを見た。


何か言いかけて、

やめたような間。


でも、

それ以上は何も言わなかった。


「また明日」


「……また明日」


それだけで、

二人は別れた。


今日は、

一緒に帰らない。


その事実が、

静かに胸に落ちる。



廊下に出ると、

人の流れが二手に分かれる。


ひよりは、

校門へ向かう方に紛れた。


歩きながら、

ポケットの中を意識しないようにする。


でも、

意識しないという行為そのものが、

そこにあることを強く思い出させた。


校舎を出る手前で、

スマホが震えた。


今度は、

短くはなかった。


ひよりは立ち止まらない。


画面も、見ない。


——今は、見ない。


朝と同じ言葉を、

もう一度、自分に言い聞かせる。



職員室へ向かう途中、

ひかりはふと立ち止まった。


資料を抱えたまま、

教室の方を振り返る。


もう、

ひよりの姿は見えない。


——先に、帰ったよね。


それは、

自分でそう言った結果だ。


なのに。


胸の奥に、

小さな引っかかりが残る。


朝の返事。

休み時間の手の止まり方。

別れ際の声。


どれも、

「おかしい」と言うほどじゃない。


全部、

理由がつけられる。


——気のせい。


そう結論づけないと、

前に進めない気がした。



寮へ向かう道で、

ひよりは一度だけ立ち止まった。


夕方の光が、

長い影を落としている。


スマホを取り出し、

画面を点けて、すぐ消す。


内容を見る勇気も、

無視しきる強さも、

まだ足りなかった。


——守らなきゃ。


誰に言われたわけでもない言葉が、

胸の奥に浮かぶ。


何を、どうやって、

とは分からない。


でも、

波風を立てないことだけは、

守りだと思ってしまう。


ひよりは、

そのまま寮へ向かって歩き出した。


何も起きていない顔のまま。

何かが、

確実に進んでいることに気づかないふりをして。

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