第10話 線の向こう側
気づいたとき、部屋には誰もいなかった。
さっきまであったはずの気配だけが、
空気の底に沈んでいる。
時間の感覚が、途中で途切れていた。
何分経ったのかも、
何がどこまでだったのかも、
うまく思い出せない。
ひよりは、まず制服に手を伸ばした。
乱れているところを、
一つずつ元に戻す。
ボタンを留め直す。
スカートの裾を整える。
順番だけは、覚えていた。
このままでは外に出られない、
ということだけは、はっきりしていた。
服を整えてから、
ようやく準備室を出た。
廊下に出ると、
放課後の学校はいつも通りだった。
遠くで笑い声がして、
部活の掛け声が響いている。
誰も、こちらを見ていない。
誰も、何も知らない。
——何も起きていないみたいだ。
その事実が、
胸の奥を強く締めつけた。
ひよりは、トイレに入った。
個室の扉を閉め、
鍵をかける。
息を吐こうとした瞬間、
胃の奥が大きく揺れた。
間に合わず、
前かがみになる。
何度か、
何も出なくなるまで。
落ち着いてから、
手を洗う。
一度では足りなくて、
何度も。
水を口に含んで、
すすぐ。
喉の奥まで、
水を流す。
鏡は、見なかった。
個室を出ると、
トイレの外も、いつも通りだった。
歩ける。
声も、出る。
それだけで、
少し安心してしまう。
校舎を出ると、
外の空気がやけに冷たかった。
歩き出す。
立ち止まらないように。
ポケットの中で、
スマホが重い。
頭の奥に、
言葉だけが残っている。
——誰にも言うな。
——言ったら、分かってるよな。
内容よりも、
言い方の方が、はっきり記憶に残っていた。
ひよりは、前だけを見て歩いた。
戻れる場所のことを、
今は考えない。
考えたら、
きっと動けなくなる。
寮に戻る道は、
いつもより長く感じられた。
門をくぐり、
受付を通る。
挨拶をされて、
小さく返す。
声は、出た。
部屋に戻り、
鍵を閉める。
鞄を置いて、
ベッドに腰を下ろした瞬間、
全身から力が抜けた。
天井を見上げる。
——ひかりは、まだ学校にいる。
そう思っただけで、
胸の奥が、ぎゅっと縮む。
(……言えない)
理由はいくつもあった。
言えば、
誰かが困る気がした。
言えば、
空気が壊れる気がした。
言えば、
全部、自分のせいになる気がした。
何より。
——ひかりに、知られたくなかった。
守ろうとしてくれていたことを、
ちゃんと分かっているから。
これ以上、
何も壊したくなかった。
ひよりは、スマホを手に取って、
画面を伏せた。
連絡は、しない。
今日は、しない。
そう決めて、
目を閉じる。
眠れる気は、しなかった。
でも、起きているのも、つらかった。
——大丈夫。
そう言おうとして、
その言葉を飲み込む。
もう、
何が大丈夫なのか、
自分でも分からなかった。




