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第9話 空いた時間

あの朝から、数日が過ぎていた。


何事もなかったように、授業は進み、

休み時間も、放課後も、

ひよりは「普通」を続けていた。


止めてもらえた記憶は、

まだ胸の奥に残っている。


でも、それだけで

全部が元に戻るわけじゃないことも、

薄々、分かっていた。



朝の教室は、いつも通りの音で満ちている。


机を引く音。

挨拶の声。

チャイム前の、落ち着かない空気。


ひよりは席に座り、鞄の中身を整えていた。

教科書の角を揃え、

筆箱を決まった位置に置く。


——いつも通り。


そうすることで、

気持ちも同じ位置に戻せる気がした。


「おはよう」


声をかけられ、

ひよりは少し遅れて顔を上げる。


「……おはようございます」


返事はできた。

声も、出ている。


それだけで、

今日はまだ大丈夫だと思った。


授業が始まる。


ノートを取る。

板書を書く。

教師の声を追う。


できている。

少なくとも、表面上は。


それでも、

集中は長く続かなかった。


説明の途中で、

ふっと意識が抜ける。


気づくと、

数行分、ノートが空いている。


(……あとで写せばいい)


そう思って、

ペンを動かす。


小さな違和感を、

拾わない選択を、

ひよりは繰り返した。



休み時間。


ひよりは席に座ったまま、ノートを閉じた。


隣で、ひかりが立ち上がる。


「ごめん、ちょっと委員長の仕事」


掲示物の確認と、

回収物の件で呼ばれたらしい。


「……うん」


ひよりは頷く。


ひかりは一瞬だけ立ち止まって、

ひよりの方を見る。


「すぐ戻るから」


「大丈夫」


即答だった。


それを聞いて、

ひかりは教室を出ていった。


——さっきまでは、いた。


ひよりは、

無意識に隣の席を一度だけ見た。


空いている。


(……すぐ戻るって、言ってた)


ほどなくして、

別の生徒が話しかけてくる。


「委員長、次の集会の時間って分かる?」


ひよりではなく、

委員長を探しての声だった。


「今、呼ばれてます」


そう答えると、

相手は「あ、そっか」と言って離れていく。


他にも、

プリントの提出先を聞かれたり、

掲示場所を確認されたり。


どれも普通のやり取りだった。


誰も踏み込まない。

誰も、近づきすぎない。


休み時間の終わり頃、

ひかりは戻ってきた。


「ありがとう、待たせた?」


「ううん」


それだけで、

何事もなかった休み時間は終わった。



放課後。


教室の人数が、少しずつ減っていく。


部活へ向かう生徒。

帰り支度をする生徒。


ひよりは鞄を持ったまま、

席を立つタイミングを迷っていた。


隣で、ひかりが書類を広げている。


「……まだ、終わらなそう?」


「うん。先生から追加で来てて」


机の上には、

委員会関係のプリントが積まれていた。


「待ってようか?」


そう言ったあとで、

ひよりは少しだけ息を止める。


ひかりは首を振った。


「大丈夫。先、帰ってて」


言い方は、いつも通りだった。


「すぐ終わるし、寮の門限もあるでしょ」


「……うん」


ひよりは鞄を肩にかける。


立ち上がるとき、

足が少しだけ重かった。


「また明日」


「うん。また明日」


それだけ言って、

ひよりは教室を出た。


——さっきまでは、いた。


でも今は、

ひかりはいない。



廊下を進む。


放課後の校舎は、

昼間よりも広く感じられた。


人の気配が、

はっきりと減っている。


そのとき。


「宵宮」


声がした。


振り返ると、

同じクラスの男子が立っている。


その後ろに、もう二人。


三人とも、

部活には行っていないらしい。


「このあと、寮戻るんだよな?」


放課後の、自然な質問。


「……はい」


答えながら、

ひよりは一瞬だけ考える。


——さっきまでは、ひかりがフォローしてくれた。


答えに詰まっても、

誰かが補ってくれた。


でも、今は。


「先生がさ、人手足りないって言ってて」


一人が、軽い調子で言う。


「ちょっと手伝ってほしいんだけど」


「すぐ終わるって」


もう一人が、

当たり前みたいに続ける。


ひよりは、教卓の方を見る。


教師の姿は、見えない。


(……戻ってきたら、聞こうか)


そう思ったのは、

ほんの一瞬だった。


「……分かりました」


答えたあとで、

胸の奥が、静かに沈む。


——大丈夫。


——ひかりは、まだ学校にいる。


そう思いながら、

ひよりは三人の後を追った。



廊下を進むにつれて、

足音が少なくなっていく。


「こっち」


先を歩く男子が、

軽く手を振る。


準備室、と言われても

おかしくない方向だった。


階段を下り、

使われていない廊下に入る。


窓が少なく、

外の音が遠い。


(……遠い)


ひよりは、

ここで初めて歩幅を緩めた。


「すぐだから」


誰かが言う。


準備室の前で、

三人が立ち止まる。


ドアは、少し開いていた。


中は薄暗く、

段ボールと机が見える。


——戻るなら、今。


そう思った。


でも。


——今さら、何て言えばいい?


——何も、されてない。


——用事があるって、言える?


言葉が、見つからない。


ひよりは、

そのまま一歩、足を踏み入れた。


中に入った瞬間、

背後でドアが閉まる音がした。


反射的に、肩が跳ねる。


「……え?」


声は、思ったより小さかった。


「すぐ終わるって」


さっきと同じ言い方。


誰かが、

ドアの前に立っている。


逃げ道が、完全に塞がれたわけじゃない。

でも、

通る理由も、なくなった。


——ひかりは、まだ学校にいる。


——戻れば、会える。


その考えが、

逆に今を耐える理由になってしまう。


背中で、

鍵が回る音がした。


小さくて、

はっきりした音。


その瞬間、

ひよりの中で、何かがずれた。


——あ。


声にならない気づき。


遅い。


そう思ったときには、

もう戻る理由が、どこにもなかった。


準備室の空気は、

外よりもずっと重かった。

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