第8話 戻れる場所を知ったまま
玄関を出ると、朝の空気が思ったより冷たかった。
ひよりは、無意識に肩をすくめる。
その動きに気づいたのか、ひかりが少しだけ歩幅を緩めた。
並んで歩く。
話題はない。
でも、沈黙が苦しくないのは、
たぶん、ひかりだからだ。
学校へ向かう道。
同じ制服の生徒たちが、前にも後ろにも続いている。
ひよりは、その中に自分の姿を重ねる。
——今日は、行ける。
根拠はない。
ただ、昨日よりも呼吸が浅くない。
「……寒い?」
ひかりが、横を見ずに言った。
「……少し」
「そっか」
それだけ。
上着を貸すわけでも、手を引くわけでもない。
でも、その距離が、ひよりにはちょうどよかった。
通学路を進むにつれて、
校舎の輪郭がはっきりしてくる。
制服の色。
朝の声。
校門の位置。
ひよりは、校門をくぐる前に、
一度だけ深く息を吸った。
「……行けそう?」
ひかりの声。
「……うん」
即答ではない。
でも、昨日よりは早かった。
教室に近づくにつれて、
ざわめきがはっきりしてくる。
誰かの笑い声。
机を引く音。
名前を呼ぶ声。
ひよりは、視線を下げたまま歩く。
昨日までなら、
それだけで胸が詰まった。
でも今は、
完全に同じじゃない。
教室の扉の前で、
ひかりが立ち止まる。
「先、入る?」
ひよりは一瞬迷ってから、首を振った。
「……一緒がいい」
その言葉が出たことに、
自分で少しだけ驚く。
ひかりは、何も言わずに頷いた。
扉を開ける。
いつもの教室。
いつもの朝。
何も変わっていない。
変わっていないからこそ、
ひよりの心臓が、少しだけ早くなる。
「おはよー」
声が飛ぶ。
「……おはようございます」
返事はできた。
声も、出ている。
それだけで、
今日は合格だと思った。
席に着くと、
ひよりは鞄を下ろし、椅子に座る。
背中に、椅子の感触。
机の冷たさ。
現実が、ちゃんとそこにある。
隣の席にひかりが座る気配。
それだけで、
胸の奥が、少しだけ落ち着いた。
——まだ、大丈夫。
そう思えたところで、
チャイムが鳴った。
⸻
教師の声が教室に広がる。
ノートを開く音。
ペンが走る音。
ひよりは背筋を伸ばして、前を向いた。
——大丈夫。
今朝の感覚は、
まだ胸の奥に残っている。
板書を書く。
文字は読める。
意味も、追えている。
昨日までと比べれば、
ずっと、ましだった。
それでも。
説明が続く中で、
ひよりはふと、耳の奥がざわつくのを感じた。
小さな笑い声。
消しゴムが落ちる音。
後ろの席で交わされる、ひそひそ声。
どれも、特別なものじゃない。
教室では、いつもある音だ。
なのに、
呼吸が、少しだけ浅くなる。
(……気にしすぎ)
そう言い聞かせて、
ペンを動かし続ける。
隣では、ひかりが同じように板書を取っている。
そのリズムが、目の端に入る。
——まだ、一人じゃない。
それを確かめるように、
ひよりは一度だけ視線を落とした。
休み時間。
ひよりは席を立つか迷って、
結局そのまま座っていた。
誰かと話したくないわけじゃない。
ただ、
話しかけられたときに、
ちゃんと返せる自信がなかった。
「宵宮さん」
名前を呼ばれて、
ひよりは肩を揺らす。
後ろの席の生徒だった。
「次の移動教室、どこだっけ?」
「……えっと」
答えようとして、
一瞬だけ言葉が詰まる。
頭では分かっているのに、
口に出そうとすると、間ができる。
「理科室だよ」
ひかりが、自然に補った。
「ありがとう」
それ以上、会話は続かない。
ひよりは小さく息を吐く。
——また、即座に返せなかった。
その事実が、
胸の奥に静かに沈む。
⸻
移動教室へ向かう廊下。
人の流れができて、
肩が触れ合う距離になる。
ひよりは、無意識に歩幅を狭めた。
前を行く生徒の鞄が揺れ、
後ろから誰かが追い越していく。
一瞬、
自分の耳に視線が集まった気がして、
ひよりの体が先にこわばる。
「ねえ、宵宮さん」
呼ばれて、足が止まった。
振り返ると、
クラスの女子が二人、立っている。
声は軽い。
悪意は、たぶんない。
「その耳さ」
言葉が触れた瞬間、
体が先に反応した。
「本物なんだよね?」
「触ってもいい?」
断らなきゃ、と思う。
頭では分かっている。
でも、
声が出る前に、時間がずれる。
「……」
その一瞬の沈黙が、
相手にとっては「大丈夫」に近かった。
手が伸びてくる。
「ちょっと——」
声は、思ったより小さかった。
そのとき。
「やめて」
ひかりの声だった。
短く、はっきりした一言。
「触られるの、苦手だから」
断言だった。
迷いはない。
「……あ、ごめん」
「知らなかった」
二人は気まずそうに笑って、
そのまま離れていく。
廊下に、元のざわめきが戻る。
ひよりは、しばらく動けなかった。
「……ごめん」
出てきた言葉は、それだった。
ひかりは、すぐに首を振る。
「謝ることじゃないよ」
歩き出しながら、少しだけ声を落とす。
「また断れなかったでしょ」
責めてはいない。
事実を、そのまま置いただけ。
「……うん」
俯いたまま、頷く。
「慣れてるって思われた方が、楽?」
ひよりは少し迷ってから、答えた。
「……なんでもないって思われた方が、楽」
ひかりは、少し考えてから言う。
「それ、楽じゃないよ」
否定でも、説教でもない。
ひよりは、何も返せなかった。
教室に戻ると、
何もなかったみたいに時間が進んでいく。
ひよりは席に座り、
机の端に指を置いた。
——戻れる場所がある。
確かに、ある。
でも。
今ここで起きたことは、
その場所には持っていけない。
誰も悪くなかった。
だからこそ、
どこにも逃がせない。
ひよりは、
胸の奥に残った違和感を、
そっと押し込んだ。
——まだ、大丈夫。
そう言い聞かせながら。
隣で、ひかりが椅子に座る気配がした。
その距離は、確かに近い。
でも、
世界との距離は、
昨日より少しだけ遠かった。




