第1話 はじまりの日
校門の前で、ひよりは一度だけ足を止めた。
見慣れないはずの校舎は、どこか見覚えのある形をしている。
コンクリートの壁、昇降口へ続く道、掲示板に貼られた連絡事項。
日本の高校として、特別に変わったところはない。
違うのは、正門の横に掲げられた横断幕だけだった。
――異世界文化交流指定校
――多文化共生を目指して
その言葉を、ひよりは目でなぞる。
意味は、もう何度も説明されてきた。
異世界からの交流生を受け入れる学校であること。
文化や種族の違いを尊重すること。
そのための制度と、支援と、配慮が用意されていること。
どれも正しい。
どれも、ありがたい。
そう思わなければいけないことも、分かっている。
ひよりは小さく息を吸い、校門をくぐった。
昇降口へ向かう途中、いくつかの視線が向けられるのを感じる。
驚きや、好奇や、戸惑い。
それらが混ざった重さが、皮膚の上をなぞっていく。
耳と、しっぽ。
隠しようのないそれらは、歩くたびに存在を主張する。
ひよりは、視線を正面に戻した。
ここでは、上手くやらなくちゃいけない。
余計な波風を立てないように。
問題を起こさないように。
自分が気をつければ、きっと大丈夫だ。
そうやって、これまでもやってきた。
職員室の前で足を止めると、案内役の教師が軽く頷いた。
「ここで少し待ってて」
「はい」
答えながら、ひよりは壁際に立つ。
制服の袖を、無意識に握りしめていた。
少しして通された応接スペースには、校長と、担任になる教師、
それから制度担当らしい大人が揃っていた。
形式的な挨拶のあと、説明が始まる。
「宵宮ひよりさん。
本日より、異世界文化交流制度の対象者として、本校に転入となります」
落ち着いた声。
淡々とした口調。
「学費および寮費は免除。
生活費については、制度側から補助が出ます。
寮は学園併設で、個室を用意しています」
ひよりは、その一つひとつに小さく頷いた。
聞いたことのある内容。
理解している内容。
それでも、胸の奥が少しずつ重くなる。
免除。
補助。
配慮。
どれも、自分のために用意されたものだ。
ありがたい。
けれど同時に、申し訳ない。
自分がここにいることで、空気が変わる。
その変化を、できるだけ小さくしなくちゃいけない。
「何か、分からないことはありますか?」
校長が穏やかに尋ねる。
ひよりは一瞬迷ってから、首を横に振った。
「いえ……大丈夫です。
迷惑をかけないようにします」
言い終わってから、また同じことを言ってしまったと気づく。
でも、訂正する勇気はなかった。
担任の教師が、やや困ったように笑う。
「迷惑なんて思ってないよ。
ここでは、君も一人の生徒だ」
その言葉は、やさしい。
けれど、ひよりは小さく頷くだけだった。
一人の生徒。
そうでありたい、と思う。
だからこそ、
ここでは上手くやらなくちゃいけない。
説明が終わり、教室へ向かう。
廊下を歩きながら、ひよりは足音を数えていた。
目立たないように。
余計な音を立てないように。
教室の前に立つ。
担任がドアに手をかけた。
「じゃあ、行こうか」
ひよりは、小さく息を整えた。
教室の扉が開いた瞬間、空気が少し変わった。
「静かに。今日は転入生を紹介する」
担任の声に、ざわついていた教室がゆっくりと静まっていく。
ひよりは一歩前に出て、黒板の前に立った。
視線が集まる。
数の多さに、胸の奥がひりついた。
「宵宮ひよりです。……よろしくお願いします」
短く名乗って、頭を下げる。
視線は耳や髪、しっぽのあたりをなぞっている。
顔を上げる。
そのとき。
見覚えのある顔があった。
一瞬、思考が止まる。
ピンクがかった髪。
癖のある前髪。
ノートに置かれた手。
(……ひかり?)
声には出せない。
ただ、目が離せなくなる。
その気配に気づいたのか、生徒が顔を上げた。
視線が、まっすぐに重なる。
一拍。
それから、相手の目がわずかに見開かれた。
言葉はない。
でも、確かに気づいたと分かる。
胸の奥で、張り詰めていたものが、ほんの少しだけ緩んだ。
「席は……そこだな。窓際の隣」
ひよりは小さく頷き、教壇を降りる。
通路を歩く間、視線が追ってくる。
隣の席に近づくと、ひかりがさりげなく椅子を引いた。
場所を空ける、その仕草が自然すぎて、かえって懐かしい。
腰を下ろす。
近い。
本当に、隣だ。
ひかりは前を向いたまま、小さく言った。
「……久しぶり」
「……うん」
それだけで、十分だった。
担任が続ける。
「それから。
朝倉、委員長だな」
「はい」
「宵宮は制度の関係で、分からないことも多い。
しばらくの間、学校のことや連絡事項は、朝倉が面倒を見てやってくれ」
一瞬、教室の視線がひかりに集まる。
ひよりは反射的に肩をすくめた。
ひかりは、少し間を置いて頷く。
「はい、わかりました」
淡々とした返事だった。
授業が始まり、教室は日常に戻る。
ノートを開き、板書を書き写す。
隣に知っている人がいる。
それだけで、呼吸が少し楽だった。
それでも、気を抜いてはいけない。
ここでは、上手くやらなくちゃいけない。
ひよりは、ペンを握り直した。
チャイムが鳴ると、教室の空気が一気にゆるんだ。
ひよりは、ノートを閉じるタイミングを少しだけ遅らせた。
今、声をかけていいのか分からない。
その前に、声が飛んでくる。
「ねえ、その耳って……本物?」
悪意のない、軽い声。
「触ったら怒る?」
ひよりが答えかけた、その前に。
「ごめんね。
触られるの、苦手だったはずだから」
ひかりの声は低く、柔らかかった。
一瞬だけ空気が止まり、
それ以上、誰も踏み込まなかった。
ひかりは、ひよりの方を見て言う。
「無理なときは、断っていいんだよ」
ひよりは、小さく頷いた。
「……ありがとう」
「困ったら、私に言って」
それだけだった。
少しして、ひかりが体をこちらに向ける。
「久しぶりだね」
「……うん」
「ここに来るって聞いてたけど、
まさか同じクラスで、隣の席とは思わなかった」
「私も……びっくりした」
ひかりは、ひよりの耳やしっぽに一瞬だけ視線を向けて、すぐに戻す。
見慣れたものを見るような、ごく自然な動きだった。
「変わってないね」
その言葉に、胸の奥が少しだけ温かくなる。
「放課後、少し時間ある?」
「委員長として、校内のことも説明しないとだし。
……それに、ちゃんと話したい」
ひよりは一瞬迷ってから、頷いた。
「……うん。大丈夫」
「じゃ、放課後に」
ひかりは立ち上がり、前の方へ向かう。
委員長としての位置に、自然に戻っていく背中。
ひよりは、その背中を少しだけ見送ってから、前を向いた。
転入初日。
説明があって、紹介があって、
隣の席で再会して、
質問が一つ飛んできて、
それが静かに収まった。
何も特別なことは起きていない。
それでも、ここに来てよかったと思えた。
ひよりは、次の授業の教科書を開く。
――ここでは、上手くやらなくちゃいけない。
でも、ひとりじゃない。
その二つが、同時に胸の中にあった。




