第3話 選ばないという選択
その日から、王都の空気は明らかに変わった。
婚姻登録期限が迫っている――その噂は、貴族社会を巡るには十分すぎる燃料だった。記録院でも、表向きは業務に集中しているふりをしながら、皆が同じ話題を共有している。
「アルヴェイン公爵家、まだ決まらないなんて珍しいわね」
「裏で何か揉めてるんじゃない?」
「さすがに、期限を過ぎるなんてありえないでしょう」
私は、それらの声を聞かないふりをしながら、書類に向かっていた。
――もう、私には関係のない話。
そう思わなければ、立っていられなかった。
けれど、逃げるように距離を取っても、彼は消えてくれない。
視線を感じて顔を上げると、廊下の向こうに、レオン様の姿があった。誰かと話している最中でも、ふとした瞬間に、こちらを確認するような視線。
それだけで、胸が苦しくなる。
「……だめ」
私は小さく呟き、書類を抱えて席を立った。
今日は、これ以上ここにいられない。
記録院の裏手、ほとんど使われていない中庭。
人の少ないこの場所は、私にとって唯一、息ができる場所だった。
「ここにいると思った」
背後から声がして、心臓が跳ねる。
振り返らなくても、誰かは分かっていた。
「……来ないでください」
それでも、彼は歩み寄ってくる。
「君が避けているのは分かっている」
「分かっているなら……!」
思わず、感情が溢れた。
「どうして、追いかけてくるんですか。あなたは今、そんなことをしている場合じゃないでしょう」
彼の足が止まる。
「俺が今、向き合うべきなのは君だ」
その即答に、言葉を失う。
「……私は、足を引っ張る存在です」
視線を逸らしながら、続けた。
「平民で、登録資格もなくて。あなたの未来に、何も与えられない」
ずっと、胸に溜め込んでいた言葉だった。
「あなたが婚姻登録を拒否すれば、地位も、信頼も、失うかもしれない。それなのに――」
「それでも、だ」
彼は、静かに言った。
「君は勘違いしている」
近づく足音。
気づけば、逃げ場のない距離まで来ていた。
「俺の未来に、君がいないなら」
低く、はっきりと。
「それは、失う価値もない未来だ」
胸が、強く締め付けられる。
「そんな……簡単に言わないでください」
「簡単じゃない」
彼の声には、わずかな怒りすら滲んでいた。
「簡単じゃないからこそ、俺は何度でも選ぶ」
私は、唇を噛みしめる。
「……どうして、そこまで」
「君がいなければ、俺はここに立っていない」
その言葉に、息が詰まった。
「俺がこの立場にいられるのは、君が支えてきたからだ。記録も、調整も、裏方の仕事も。君がいたから、俺は前に出られた」
そんなふうに思っていたなんて、知らなかった。
「君は、選ばれない存在なんかじゃない」
一歩、距離を詰めて、彼は言う。
「選ばれないようにしているのは、この世界だ」
視界が滲む。
「……世界を敵に回す覚悟、ありますか」
絞り出すように問うと、彼は一瞬も迷わず頷いた。
「ある」
あまりにも即答だった。
「最初から、そのつもりだ」
胸の奥で、何かが壊れる音がした。
嬉しい。
怖い。
でも、それ以上に――
「……ずるいです」
涙が、頬を伝った。
「そんなふうに言われたら……信じてしまうじゃないですか」
彼は、困ったように微笑んだ。
「信じればいい」
そして、はっきりと言った。
「君は、俺の味方だ。なら俺も、君の味方でいる」
――たとえ、制度がどうであろうと。
その瞬間、私は悟ってしまった。
この人は、
選ばないという選択肢を、最初から持っていない。
彼は、選び続ける人なのだ。
世界がそれを許さなくても。
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