第2話 当然の未来
あの夜から、三日が過ぎた。
レオン様は、私の前に姿を現さなかった。
記録院に来ていないわけではない。廊下ですれ違う気配も、遠くから視線を感じることもある。それでも、彼は私に近づいてこなかった。
――距離を置きましょう。
そう言ったのは、私だ。
彼が約束を守っているだけなのに、胸の奥がひりつく。
「リナ、少しいい?」
同僚のマリアに呼び止められ、私は手元の書類から顔を上げた。
「どうしました?」
「聞いた? アルヴェイン公爵家、もう候補者が絞られたらしいわよ」
その一言で、血の気が引いた。
「……候補者、ですか」
「ええ。王家縁戚の令嬢か、東方伯の娘かって話。まあ、どちらにしても当然よね。あの家格だもの」
当然。
その言葉が、胸に重くのしかかる。
「登録期限まで、もうあまり時間がないらしいわ。来月には仮登録、って噂」
「そう……なんですね」
声が、かすれそうになるのを必死で抑えた。
仮登録。
それは、ほぼ決定と同義だ。正式な婚約発表は後でも、制度上は“選ばれた”ことになる。
――選ばれない私は、もう関係のない話。
そう言い聞かせながら、書類に視線を戻す。文字が滲んで、読めなかった。
昼休憩、誰もいない資料室で一人になった瞬間、ようやく息を吐いた。
「……やっぱり、そうよね」
彼がどれほど強い言葉をくれても、世界は変わらない。
制度は動き、未来は粛々と決められていく。
私一人の想いなど、最初から計算に入っていない。
「……辞める準備、始めた方がいいかも」
記録院は貴族社会の中枢だ。
彼が正式に婚約すれば、私は必ず噂の的になる。好奇の視線も、同情も、どちらも耐えられない。
その日の夕方、上司に呼び止められた。
「リナ、アルヴェイン様が、お前を探していたぞ」
心臓が、大きく跳ねる。
「……私を?」
「ああ。私室で待っておられる」
逃げたい、と思った。
でも、逃げ続けるわけにはいかない。
私は静かに頷き、貴族用の執務棟へ向かった。
扉を叩くと、すぐに声が返る。
「入れ」
中に入ると、彼は机に向かっていた。視線を上げた瞬間、わずかに表情が和らぐ。
「来てくれてありがとう」
「……ご用件は何でしょうか」
距離を取る、と決めたはずなのに、声が揺れる。
彼は立ち上がり、私に向き直った。
「噂が広がっているようだな」
「はい。仮登録の件、聞きました」
一瞬、彼の眉が寄る。
「俺は何も決めていない」
「でも、制度は……」
「制度が何だ」
ぴしゃりと、遮られた。
「俺は、まだ誰も選んでいない」
――違う。
正確には、選ばせてもらえない相手がいるだけだ。
「レオン様」
意を決して、言葉を紡ぐ。
「どうか……正しい選択をなさってください。あなたには、責任があります」
彼は、しばらく私を見つめていた。
そして、ゆっくりと息を吐く。
「それが、君の本心か」
「……あなたの未来を思えば、そうあるべきです」
本当は、違う。
でも、これ以上、彼を縛るわけにはいかない。
彼は静かに笑った。
「やはり、君は優しすぎる」
その笑みが、どこか寂しそうで。
「だが、俺は――」
言いかけて、彼は言葉を止めた。
扉の外で、足音がしたからだ。
「失礼します、アルヴェイン様」
入ってきたのは、婚姻管理局の使者だった。
「仮登録に関する正式な通達をお持ちしました」
空気が、一瞬で張り詰める。
私は、その場にいる資格すらない存在だ。
そう分かっていても、足が動かなかった。
使者は書状を差し出し、淡々と告げる。
「登録期限は、残り二十日。期限までに候補者を確定なさらなければ、処分が下ります」
それは、脅しに等しかった。
使者が去った後、重い沈黙が落ちる。
私は、深く頭を下げた。
「……失礼いたします」
逃げるように部屋を出ようとした、その時。
「リナ」
呼び止められる。
振り返ると、彼は静かに、しかし確かな声で言った。
「君が何度、身を引こうとしても」
一歩、こちらへ来る。
「俺は、選択を変えない」
その瞳に、迷いはなかった。
「だから、覚悟しておいてくれ」
覚悟。
それは、別れの覚悟ではなく――
「この世界が、君を選ばなくても」
彼は、はっきりと言い切った。
「俺は、君を選び続ける」
胸が、痛いほどに締め付けられる。
嬉しいはずなのに、怖かった。
この人は、本当に、すべてを敵に回すつもりなのだ。
――選ばれない世界で。
私は、初めて悟った。
この恋は、
ただの身分差の問題では終わらない。
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