2話
翌朝、わたくしは早くに目を覚まし、残りの部屋の掃除を始めた。
本当なら使用人の方にもこちらの片付けを手伝っていただきたかったけれど、人数がわずか五人だけだと聞いたので、無理を言うのはやめておいた。
埃を払い、床を磨きながら、これからの生活のことを考えていたその時、どこからか、かすかな猫の鳴き声がした。
「あら? どこから聞こえるのかしら?」
わたくしは手を止め、耳を澄ませた。けれど、辺りを見回しても姿は見えない。
「おかしいわね。確かに聞こえたはずなのに」
不思議に思いながら再び掃除を続けていると、また微かな鳴き声が。
今度はもう少し近い。どうやら隣の部屋の方かしら。
そっと扉を開けると、薄暗い部屋の隅で、家具とソファの狭い隙間に小さな影が挟まっていた。よく見るとそれは、痩せこけた黒猫だった。毛はところどころ抜け、肋骨が浮かび上がっている。
思わず息を呑み、そっと抱き上げる。
軽すぎるその体に胸が締め付けられ、わたくしはすぐに声をかけた。
『可哀想に挟まって、出れなくなってしまったのね。待っていて、すぐにミルクを持ってくるわね』
黒猫を自室の布団にそっと寝かせ、わたくしは急ぎ、本宅へ向かった。
厨房では、コック長が鍋の前で忙しく働いていたが、わたくしの姿を見るなり振り向いた。
「奥様。おはようございます。どうなさいましたか?」
「ミルクを少しいただけますか?」
「はい、すぐにお持ちします」
彼は慌ただしく手を拭き、瓶のミルクをカップに注いで差し出してくれた。
「もうすぐ朝食の準備も終わりますので、お呼びに伺おうと思っていたところでした」
「ありがとうございます。このミルクを猫ちゃんにあげたら、すぐに参りますわ」
そう言うと、コック長が不思議な顔をした。
「猫とおっしゃいましたか? もしかして黒い猫ではありませんか?」
「ええ、そうです。黒猫ですわ」
「そうでしたか。ここ最近まったく姿を見かけなかったので、気にかけていたのです」
「ということは、このお屋敷で飼われているのですか?」
「いえ、正式に飼っているわけではございません。ただ、ずっと昔からこの屋敷に棲みついておりまして。けれど、ここしばらくは姿を消していたのです」
そう教えてくれた。その時、本宅の廊下の方から、低く通る声が聞こえてきた。
旦那様が、見知らぬ女性を腕にぶらさげ、こちらへ歩いてくるのが見えた。
「お前、本宅に何しに来た?」
彼の険しい声に、厨房の空気が少し張りつめた。
「猫にあげるミルクをいただきに参っただけですわ」
「まさか、あの黒猫ではあるまいな?」
「あの黒猫と言われましても、わたくしには分かりかねますが」
「黒猫だったら駄目だ。あれは不吉な猫だ」
わたくしはその言葉を、軽く受け流した。
「では、これで失礼いたします」
そう言って立ち去ろうとした瞬間、旦那様が声を上げた。
「待て。これからのために紹介しておく」
そう言いながら、隣の女性の肩を抱き寄せ、得意げな顔をした。
「彼女が俺の愛するマーガレットだ。そしてこっちが、悪女で名高い一応、伯爵令嬢だったローズだ」
女はわたくしを上から下まで眺め、唇を歪めた。
「ふん。とても元伯爵令嬢には見えないわね。何、その質素なドレスは」
その言葉に、わたくしは微笑んだ。
「まあ、わたくしの服装などどうでもよろしいでしょう? いずれ貴女の恋人が侯爵位を継がれた暁には、わたくしが侯爵夫人ですもの」
すると、女の顔に一瞬、言葉を失ったような表情が浮かんだ。
それ以上は、言葉を交わすのも馬鹿らしくなり、わたくしはコック長にだけにっこりと微笑んだ。
「では、後ほど朝食の席に伺いますね」
背後で、旦那様の怒鳴り声が響いた。
「何が侯爵夫人だ! 俺は認めんぞ! それに黒猫など飼うことは許さん!」
わたくしはその声を涼しい顔で無視しながら、心の中でそっと呟いた。
『認める、認めないではなく、このままいけば、いずれそうなるのです。ほんとうにおバカさんね』
離れに戻ると、布団の上でぐったりしていた猫が、わたくしの足音にかすかに耳を動かした。
皿に移したミルクをスプーンで少しずつ口元へ運ぶと、細い舌がぺろりと動いて舐め始めた。
「よく頑張ったわね。お名前がないと不便だわ、何がいいかしら?」
少し考え、ふと昔を思い出した。
「そうだわ、ニール。あなたのお名前はニールにしましょう」
幼い頃、わたくしが飼っていた猫と同じ名前。
黒猫ではなかったけれど、あの子、とても賢くて優しい子だったわ。
その後、ニールを布団の上に寝かせ、わたくしは本宅へ朝食のために向かった。
厨房ではコック長が申し訳なさそうに頭を下げた。
「先ほどは災難でしたね、奥様」
わたくしは微笑みながら礼を述べ、昨夜と同じように使用人の方々と食卓を囲んだ。
パンを食べながら、メイド長がふと昔話を始めた。その話によると、なんでも、旦那様には一つ下に弟君がいらした。
その日は乳母の息子と仲良く離れで遊んでいたが、夕方になっても戻らなかった。心配した使用人たちが探しに行ったものの、弟君だけが、どこにも姿が見当たらず、その後、治安部隊や自警団による大規模な捜索が行われたが、結局見つからなかったという。
そして、その出来事からしばらく経った頃、乳母夫妻とその息子が流行病で三人共に、命を落としたのだ。その時、乳母たちが飼っていた猫の家族もいつの間にか姿を消したが何故か、黒猫だけが戻って来て、離れに住み着いたそうだ。
結局、弟君はそれ以来、行く方不明のままだという。
その当時の侯爵夫人は、立て続けに起こったそれらの出来事に心を痛めてしまい、病に倒れ、侯爵様と共に領地へ引きこもられたそうだ。
「え、旦那様には一つ違いの弟さんがいたのですか?」
「はい、とても可愛らしく利発なお子様でした」
執事のトーマスさんが悲しい顔で俯いた。
『だから、先ほど旦那様は不吉な猫などと言っていたのね』と心の中で思った。
「では今、わたくしの居る離れがその時の……」
そう言いかけると皆、急に黙ってしまわれた。
わたくしは納得し、食後のお茶を口にした。そして、席を立とうとしたとき、メイド長が声をかけてきた。
「奥様、離れのお掃除が遅くなり申し訳ありません。これから伺ってもよろしいでしょうか?」
わたくしは笑顔で返した。
「ありがとう。でもこちらも人手が足りないのでしょう? わたくしなら大丈夫よ。それに、大体は終わっているから安心してちょうだい」
そう言って、再び離れへと戻った。
扉を開けると、陽が少し高くなり、窓辺に暖かい光が差し込んでいた。
その光の中で、黒猫のニールが喉を鳴らして眠っていた。
わたくしはそっと微笑み、不吉? とんでもない。
『この子は、きっと幸運を運んでくれるに違いないわ』
何故かわからないが、確信めいた言葉が浮かんだ。




