第8章 声のない名前を呼ぶ
【2051年3月27日|東京湾旧湾岸保養区・Zone-K8】
世界が騒がしいほど、現場は静かだった。
スキャンダルが報じられてから20日が経ち、UN-JAPAN臨時政府は“Null兵士”の戦線投入を一時停止した。
代わりに設けられたのが、人格消失兵の「再人間化観察施設」――Zone-K8。
かつて海の見える保養所だった場所に、今は無表情な兵士たちが並んでいる。
その中に、彼もいた。
アイザック・カレン。
個体コード:KAR-5EXA(再接続停止中)
【片倉ユイの訪問】
「……来るのは、これが最後かもしれない」
ユイはそう呟いた。
彼女の髪は切られ、民間医療協会の職印も消えていた。
告発者としての立場は、彼女に多くを奪った。
でも――まだ**一つだけ返してもらっていない“名前”**があった。
【対面:言葉のない空白】
コンテナ式の観察室。
遮光された小部屋の中で、アイザックは無表情に座っていた。
反応指数は低下、声も記憶応答もゼロ。
BMIデバイスは機能停止処理により**“ただの金属の枠”**と化していた。
「ねえ、アイザック。……あなたは、まだどこかに“いる”の?」
ユイは、彼の正面に座った。
何度も同じ質問を投げ、同じ沈黙に耐えた。
そのときだった。
彼の指が、ほんのわずかに机の上を叩いた。3回。間をあけて、2回。そして、1回。
3-2-1。
【回復ではなく、“再構築”された自我】
ユイの目が見開かれた。
「アイザック……覚えてる? あなたが一番最初に人工呼吸器外した夜、モールス信号で“321”って叩いたの。
“カウントダウンじゃない、再スタートの合図だ”って言ってた……」
彼は、また机を3回叩いた。次は指を止め、ゆっくりとユイの目を見た。
目が、震えていた。
「なぜ……生きてるんだろう、俺……」
声は、まるで錆びた管楽器のように震えていた。
「“俺”は一度……壊された。……なのに、ここにいる」
【ユイの応答:記録ではなく、記憶として】
「あなたが戻ってきたんじゃない。“あなたを覚えていた誰かが、待っていた”んだよ。
AIが忘れても、記録が消えても、私は“あなた”を覚えていた。
それが、まだ人間でいられる理由じゃないかな」
「覚えてくれて……たのか、ユイ……?」
「ずっと、ずっと。あの夜、まぶたを閉じたあなたが最後だった。
戻ってきてくれて……ありがとう」
彼は泣いた。
初めて見せた、人間としての“反応”だった。
それは、神経の記憶ではなく、“想起された関係”だった。
【記録にない帰還】
Zone-K8から正式な報告書は上がらなかった。
AI記録には「非対応の再同期信号」とだけ記された。
だが、コンテナの奥に小さなメモが残っていた。
「俺は“自分”じゃないかもしれない。でも、もう一度、誰かを守れるなら、それでいい」
—Isaac C.