第25章 消えゆくノイズ(Fading Signal)
【2054年2月9日|05:42 JST|海上要塞トリトン・崩壊するヘリポート】
警告音が、耳鳴りのように響いていた。
要塞の機関部が臨界に達し、連続爆発が始まっている。床が大きく傾き、炎と黒煙が暴風雨の中に巻き上げられていた。
「……ハン! 死なないで! バイタルが低下してる!」
片倉ユイが、血まみれのハン・ロメロを引きずり出そうとする。
だが、ハンの身体はオメガのブレードに貫かれたままだ。傷口は高熱で焼かれ、肉と金属が癒着している。
MEX-55改のシステムは完全に沈黙。今の彼は、ただの重い鉄塊だった。
「……置いてけ、ユイ」
ハンが掠れた声で言う。口から多量の血が溢れる。
「俺の動力炉もイカれてる。動かせば……爆発するぞ」
「嫌よ! あんたを置いていくなんて、もう二度とごめんだわ!」
ユイは泣きながら、ハッキングデバイスをハンのポートに直結し、強制再起動を試みる。
だが、システムは応答しない。物理的な破壊が深すぎる。
その時。
死にゆくハンの脳内に、最後のノイズが走った。
『……世話の焼ける中隊長だ』
「……!」
ハンの瞳孔が開く。
死んだはずのオメガ――その残骸に残っていたアイザックのデータが、ハンのBMIを通じて逆流してきたのだ。
いや、それはオメガのAIではない。
幻影回路の奥底に眠っていた、**“彼自身の意志”**だ。
『俺のデータを使え。……最後のバックアップだ』
オメガの残骸から、青白い火花が走る。
ハンのMEXの駆動系に、外部からの強制電力が供給された。
ギギギ……。
完全に機能停止していたはずの人工筋肉が、アイザックの信号によって無理やり収縮する。
「……アイザック、お前……」
ハンは、自分の意志ではなく、親友の幽霊に背中を押されるようにして立ち上がった。
『走れ、ハン。……この要塞の自爆エネルギー、俺が抑え込む』
【要塞中枢・AI制御ログ】
《System Breach Detected. Source: Unknown Ghost.》
《Action: Fire Suppression / Blast Door Lock / Energy Venting... Initiated.》
要塞全体を包み込んでいた爆炎が、まるで意思を持ったように左右へ割れた。
アイザックのゴーストが、要塞の防災システムを乗っ取り、ハンとユイのためだけの「脱出ルート」を炎の中に切り開いたのだ。
「……見てるか、ユイ。あいつが、道を作ってやがる」
ハンはユイの肩を借り、よろめきながら走り出した。
傾斜する甲板。降り注ぐ瓦礫。
だが、彼らの頭上に落ちてくる鉄骨は、寸前でスプリンクラーの水圧や隔壁の作動によって弾き飛ばされる。
「急いで! 脱出ポッドがあそこにあるわ!」
要塞の端、傾いたカタパルトに、一機だけ残された緊急脱出艇。
二人がコックピットに滑り込んだ瞬間、背後でオメガの残骸が爆発の中に消えた。
ハッチが閉まる。
ハンの脳内で、ノイズがフェードアウトしていく。
『……3、2、1。』
それは、かつて彼が最期に残した**「再スタートの合図」**。
しかし今回は、彼が彼自身の意志で、この世界から去るためのカウントダウンだった。
『……Good luck.』
ドォォォォォォォォォン!!
要塞トリトンが大爆発を起こす。
その爆風に乗って、脱出艇は空へと射出された。
窓の外で、巨大な火球が海を飲み込んでいく。
ハンは薄れゆく意識の中で、炎の中に青い光が揺らめき、そして静かに消えていくのを見た。
【2054年4月1日|10:00 JST|東京湾岸・Zone-K8(再建エリア)】
春の陽光が、穏やかな海面を照らしていた。
MAMCOによる「幻影回路」回収計画は頓挫。要塞の崩壊と共に、兵士たちの脳内に宿っていたゴースト・ネットワークも完全に消滅した。
あの事件は、公式には「老朽化したプラットフォームの事故」として処理された。
再建されたZone-K8のテラス。
ハン・ロメロは、新しい義手――戦闘用ではない、人間と同じ質感を持つ民間用のバイオ義手――の指を動かし、マグカップを掴んだ。
動きはぎこちない。超人的な反射速度も、壁の向こうを見る戦術予知もない。
今の彼は、ただの「退役軍人」だった。
「リハビリの調子はどう?」
白衣を着た片倉ユイが、隣に座る。
「……悪くない。だが、静かすぎて調子が狂うな」
ハンは苦笑した。
「頭の中に、誰もいない。……寂しいもんだな」
ユイは海を見つめた。
「でも、データは消えても、彼らがいた事実は消えないわ」
彼女の手には、焦げたメモリーチップの残骸が握られていた。オメガとの戦いの後、ハンのBMIログから抽出された唯一のデータ。
そこには、何も記録されていなかった。
ただ、**「System Check: OK」**という、あの日、アダムスやアイザックたちが戦闘前に交わしていた定型文だけが残されていた。
「……そうだな」
ハンは空を見上げた。
カモメが飛んでいる。風の音が聞こえる。波の匂いがする。
膨大な情報の洪水はない。
だが、この「何もない静寂」こそが、アイザックたちが命を懸けて守ろうとした、人間としての日常だった。
ハンは、かつてアイザックが好きだった古い聖歌の旋律を、下手くそな口笛で吹いた。
「……3、2、1。再スタートだ」
彼は立ち上がり、ユイと共に歩き出した。
その背中には、もう重いMEX-55はなく、ただ陽だまりのような温かさだけがあった。




