第19章 不可視の潜入(Stealth Engage)
【2054年2月9日|04:12 JST|東京湾岸・ネオ有明タワー外壁(高度180m)】
東京湾の海風が、猛烈な勢いでビルの壁面を叩きつけていた。
地上60階建て、高さ300メートルを超えるMAMCO本社ビル「ネオ有明タワー」。その漆黒のガラス外壁に、二つの小さな影が張り付いている。
「風速25メートル。……最高の登山日和だな」
ハン・ロメロは、磁気吸着ブーツ(Mag-Grip)のスパイクを強化ガラスのフレームに食い込ませながら、通信回線で呟いた。
彼とユイは、光学迷彩マント(Active Camo Cloak)を纏い、背景の雨雲と同化している。
「無駄口は叩かないで。サーマルセンサーの走査が来るわ」
ユイの声は緊張で硬い。彼女はハンの背中に背負われる形ではなく、自身も軽量型のエクソスーツを装着し、ワイヤーを駆使して並走している。
《Alert: Heat Source Scan Initiated. Sector 44-B.》
上空から、警備用の大型ドローン「ワイバーン」が降下してきた。
機体下部の複合センサーが、執拗に壁面を舐めるようにスキャンしていく。
雨に紛れる光学迷彩だけでは、熱感知までは誤魔化せない。
「ハン、来る!」
「了解。……『コールド・モード』起動」
ハンは、脳内のスイッチを切り替えた。
MEX-55改の主要動力炉をカット。生命維持に必要な最小限の循環系を除き、全てのアクチュエータと発熱機関を停止させる。
さらに、体内循環液を冷却する「緊急凍結剤」を血管内に注入。
体温が36度から、外気温と同じ4度まで急速に低下する。
心停止に近い仮死状態。
ハンの視界(HUD)がノイズ混じりのモノクロームに変わる。
ドローンの赤いレーザー光が、ハンの身体を通過した。
《Scan Result: Negative. Ambient Temp Only.》
ドローンは興味を失い、上昇していく。
「……ふぅー」
ハンは再起動コマンドを入力。凍りついた人工筋肉に再び電流が走り、熱と感覚が戻ってくる。
「心臓が止まる感覚は、何度やっても慣れねえな」
「文句言わない。セキュリティホールを見つけたわ。50階、第3サーバールームの排熱ダクト。そこから侵入する」
【ネオ有明タワー・50階メンテナンス通路】
ダクトの金網をレーザーカッターで焼き切り、二人は音もなく廊下に着地した。
迷彩マントを解除する。屋内では排熱の問題ですぐに見つかるため、ここからは物理的な遮蔽物を利用した潜入となる。
廊下は、不気味なほど清潔だった。白一色の壁、無機質な照明。
かつての薄汚れた戦場とは対照的な、企業の管理社会を象徴する空間。
「敵影確認。……Saintsの歩哨だ」
角の向こうから、二名の警備兵が巡回してくる。
足音がない。彼らの足裏には消音ゴムが貼られ、会話も無線(脳内通信)で行われている。
ハンはユイにハンドサインを送る。
(俺がやる。お前はカメラを)
ユイが頷き、壁面のターミナルにジャックイン。監視カメラの映像を「10秒前のループ映像」に差し替える。
ハンは、ナイフだけを逆手に持って走り出した。
靴音は立てない。重心を低く保ち、滑るように床を移動する。
敵の一人が、空気の動きに気づいて振り返る。
「!?」
反応速度0.2秒。だが、ハンは既に懐に入っていた。
ザシュッ。
ハンは敵の首筋にある主要神経ケーブルの接続部へ、ナイフの柄頭を正確に打ち込んだ。
「ガッ……」
電気的なショート音と共に、Saints兵が膝から崩れ落ちる。
もう一人がライフルを構えようとするが、ハンはその銃身を手で逸らし、流れるような動作で背後に回る。
スリーパーホールド。
ただし、相手はサイボーグだ。呼吸を止めるのではなく、頚椎に埋め込まれた電源供給ラインを万力のような腕力で圧迫し、システムダウン(強制気絶)させる。
「……良い夢見な」
二つの物体を音もなく床に横たえ、ハンは息を吐いた。
警報は鳴っていない。完璧なサイレント・キル。
「ハン、こっちへ来て。……これを見て」
ユイが手招きする。彼女は通路の窓から、さらに下層にある巨大な吹き抜け空間を覗き込んでいた。
ハンも覗き込む。そして、息を呑んだ。
そこは「工場」だった。
ベルトコンベアの上を流れているのは、自動車でも家電でもない。
カプセルに入った「人間の脳」だ。
無数の脳が、脊髄ケーブルをぶら下げたまま洗浄され、金属のケース――Saintsの頭部ユニットへと封入されていく。
「……畜生。ここは地獄の生産ラインかよ」
ハンが吐き捨てる。
「彼ら、Null兵士の生き残りを……ここで“部品”に加工しているのね」
ユイの声が震える。
「回収しなきゃ。彼らのデータを、魂を」
「ああ。だが、その前に掃除が必要だ」
ハンの視線が鋭くなる。
エレベーターホールが開いた。
そこから出てきたのは、人間大のSaintsではない。
重厚な駆動音と共に現れた、4脚歩行の巨大な影。
【ネオ有明タワー・ロビー】
「侵入者確認。排除モード、起動」
無機質な合成音声。
それは、多脚戦車(Multi-legged Tank)『タランチュラ』。
天井まで届く巨体。前部には20mmガトリング砲、背部には誘導ミサイルポッド。そして蜘蛛のような4本の脚は、壁や天井を自由に移動できる。
「……ボスのお出ましだ。ユイ、隠れろ!」
ハンが叫ぶと同時に、ガトリング砲が火を噴いた。
白い廊下が瞬く間に粉砕され、瓦礫の山と化す。
「正面突破は無理だ! ユイ、奴の火器管制をハッキングしろ! 俺が足止めする!」
ハンは瓦礫を盾にしながら、アサルトライフルのセレクターをフルオートに入れた。
隠密行動終了。
ここからは、鉄と火薬が支配する戦争の時間だ。
「来いよ、デカブツ! 俺の“ゴースト”が、テメェの装甲をぶち抜いてやる!」
ハンは咆哮し、粉塵舞うロビーへと飛び出した。




