第16章 起動する亡霊(Ghost in the Shell)
【2054年2月9日|02:14 JST|東京湾旧湾岸保養区・Zone-K8(再人間化観察施設)】
雨は、かつて東京と呼ばれた都市の墓標を濡らすように、冷たく、執拗に降り注いでいた。
Zone-K8。KEIOSコア破壊事件の後、人格を剥奪された元兵士――「Null個体」たちが収容されるこの施設は、世間からは忘れられた聖域であり、同時に生きた幽霊たちの待機所でもあった。
第4居住棟、個室309号室。
ハン・ロメロは、暗闇の中で目を開けた。
覚醒に要した時間は0.02秒。呼吸の乱れなし。心拍数、平常時45から戦闘時62へシームレスに移行。
窓の外には、雨に煙る東京湾の暗い海面が見えるだけだ。物音はない。警備ドローンの巡回音さえ聞こえない。
――静かすぎる。
ハンはベッドから音もなく起き上がった。彼の肉体は3年前の戦闘で酷使され、右腕と左脚は軍用義肢に置換されている。だが、その「重さ」こそが、彼にとっては安らぎだった。
記憶の多くはまだ霧の中にある。かつて自分が誰を指揮し、誰を殺し、誰に救われたのか。断片的な映像しか浮かばない。
だが、「殺気」の感知能力だけは、人格よりも深く、脊髄に焼き付いていた。
《警告:局所的な大気揺らぎを検知。熱光学迷彩(Thermo-Optical Camouflage)使用の可能性》
脳内のBMIインプラントが、視覚野に赤い警告タグをポップアップさせる。
KEIOSは死んだはずだ。だが、この警告はどこから来ている?
ハンは思考を放棄し、身体の駆動系を「戦闘モード」へシフトした。
【施設管理室|片倉ユイ視点】
「……おかしいわ」
片倉ユイは、メインコンソールのホログラムモニタを叩いた。施設外周の監視カメラ映像が、10秒前からループしている。
「雨の粒子のパターンが完全に一致してる。映像が差し替えられているわ」
彼女は直ちにキーボードを叩き、防衛システムへの強制介入を試みた。元衛生兵としての医療ハッキングスキルは、今やこの施設を守る唯一の盾となっていた。
《System Breach Detected / Source: Unknown》
「外部からの侵入……! セキュリティレベル・レッド。全館ロックダウン!」
ユイが叫ぶと同時に、管理室の強化ガラスが音もなく振動した。爆発音はない。高周波カッターによる溶断だ。
「そこね!」
彼女はデスクの下から護身用の電磁パルス(EMP)ハンドガンを抜き、背後の空間へ向けた。何もない空間。だが、そこには確かに「質量」が存在する気配があった。
【第4居住棟・廊下】
ハンはドアの陰に張り付いていた。
廊下の突き当たりから、濡れた足跡だけが近づいてくる。姿は見えない。光学迷彩を纏ったプロフェッショナルだ。
足音の重量感から推測する。総重量120kg超。サイボーグ化率60%以上の重装歩兵。あるいは――完全自律型アンドロイド。
(距離3メートル。武装、アサルトライフルと推測)
ハンは、廊下に設置された消火器を蹴り飛ばした。
赤いボンベが床を滑り、見えない敵の足元へ転がる。
敵は反応しない。欺瞞工作には引っかからない高度なAI制御。
だが、ハンが狙ったのは敵の注意ではない。
彼はドアから半身を出し、滑っていく消火器を正確に撃ち抜いた――ただし、銃でではない。彼の手にあるのは、部屋の金属パイプ椅子を引きちぎった「鉄の棒」だ。
彼はそれを投擲したわけではない。ただ、タイミングを合わせた。
敵が「通過」する瞬間、消火器の粉末が噴出した。
真っ白な煙幕の中に、人型のシルエットが浮かび上がる。
「視えた」
ハンは床を蹴った。義脚のカーボン筋肉が悲鳴を上げ、コンクリートの床を踏み砕く。
一瞬で距離を詰め、浮かび上がったシルエットの「首」と思われる箇所へ、鉄パイプを突き立てる。
ガギィィン!!
硬質な金属音。人間の感触ではない。
「硬いな……!」
ハンは鉄パイプを捨て、敵が振り上げたライフルの銃身を左手の義手で掴んだ。握力400kg。アクチュエータが唸りを上げ、アサルトライフルのバレルをひしゃげさせる。
敵の姿が揺らぎ、迷彩が解除される。
現れたのは、のっぺらぼうのセンサーヘッドを持つ、漆黒のボディスーツを纏った兵士だった。
『脅威判定:近接戦闘(CQC)対象。排除する』
合成音声と共に、敵の腕から高周波ブレードが展開される。
ハンは笑った。表情筋が引きつるような、冷たい笑みだった。
「挨拶なしかよ。行儀の悪いガラクタだ」
ブレードが彼の首を刈る軌道を描く。ハンはそれを最小限の動作で潜り抜け、敵の懐――動力炉がある腹部へ、右の義手をパイルバンカーのように打ち込んだ。
衝撃。敵のボディがくの字に折れ、壁まで吹き飛ぶ。
ハンは倒れた敵から、予備のサブマシンガンとタクティカルナイフを奪い取った。
慣れた手つきでコッキングレバーを引き、弾薬を確認。
《残弾数:45。発火形式:ケースレス。リンク接続:拒絶》
「上等だ」
銃を手にした瞬間、彼の脳内でノイズが走った。
ザザッ……『……3時方向、敵影2。仰角15度。壁抜きでイケる』
その声に、ハンは迷わず壁に向かってトリガーを引いた。
タタタッ!
乾いた発砲音と共に、壁の向こう側で何かが崩れ落ちる音がした。
壁越しの狙撃。視覚情報なし。
だが、ハンには「視えて」いた。脳内のBMIが、不可視の敵の位置をワイヤーフレームのように投影していたのだ。
「……アイザックか?」
問いかけに対する答えはない。ただ、脈打つような「戦術予知」のデータだけが、熱い血のように脳内を駆け巡っていた。
【施設上空】
雨雲を切り裂き、漆黒の強襲揚陸艇がZone-K8の上空に静止していた。
機体側面には、軍事複合企業「MAMCO」のロゴマークが薄く刻まれている。
コックピットのモニターには、施設内の交戦状況が表示されていた。
『オメガ・ワンより司令部。潜入班、2機ロスト。居住区にて予期せぬ抵抗を確認』
司令部の声が冷淡に応答する。
『想定内だ。そこには、かつてKEIOSを破壊した“最強の不良品”がいる』
『ターゲットは?』
『Null素体全員。および、彼らを制御する“鍵”――片倉ユイ。……回収せよ。脳の鮮度が落ちないうちに』
【Zone-K8・中央ホール】
ハンは血とオイルにまみれながら、中央ホールを疾走していた。
彼の周囲には、ユイによってハッキングされた館内放送が響き渡っている。
『ハン! 聞こえる!? 第3ゲートへ向かって! アキが脱出車両を回してる!』
「了解。……だが、客が多い」
ハンの視界(HUD)には、天井のガラスドームを突き破って降下してくる、新たな敵影が6つ表示されていた。
全員が熱光学迷彩を展開し、空中に溶け込んでいる。
雨粒だけが、彼らの輪郭を描き出していた。
ハンはサブマシンガンのセレクターを「フルオート」に切り替えた。
彼の瞳孔が収縮し、虹彩の周りに青いリングが発光する。
それはかつて、亡き戦友アイザック・カレンが発現させていた「KEIOS非同期型」の証。
「……ダンスの時間だ。リードはお前がしろ、アイザック」
ハンは虚空に向かって叫び、雨と弾丸の嵐の中へと飛び込んだ。




