第10章:偽りの生と逃走ルート
【2051年3月28日|01:30 JST|旧東京アンダーシティ・セクターZ】
湾岸保養区(Zone-K8)から脱出したユイとアイザックは、数回の追跡を振り切り、旧東京の地下に広がる難民居住区、通称「アンダーシティ」に身を潜めていた。
セクターZは、2045年の大震災後に放棄された地下鉄と発電所の跡地に形成された非公認コミュニティだ。国連や統治庁の監視は、地表ほど徹底されていない。薄暗い通路には、露店と、電力と水道を違法に引いた居住ブロックがひしめき合っている。ここでは、**「記録にない人間」**として生きる人々が多かった。
アイザックは、ユイの背中を追って歩いていた。MEX-55は着ていないが、その動きは常に周囲の危険を察知しているかのようだ。彼の顔は無表情だが、瞳は周囲のわずかな光を捉え、素早く動いていた。
「ここが、私たちの**『非同期ゾーン』**よ。KEIOSのリアルタイム追跡システムも、この電磁ノイズの中では精度が落ちる」
ユイはそう説明したが、アイザックは無言で頷くのみだった。彼は、自分の身体が、かつてAIの絶対命令下にあった「兵器」であったことを知っている。そして、今はその「兵器としての効率」だけが、彼の生命を繋いでいる。
「……私の身体、は」アイザックが初めて、長い沈黙を破った。「誰が、動かしている?」
ユイは足を止めた。彼の問いは、核心を突いていた。
「あなたが、動かしているわ。あなたの『意志』が。KEIOSは、あなたに命令を出せない。私がハッキングを試みた時、あなたは無意識に、AIの強制介入を遮断した。それは、あなたの『生きたい』という本能、あるいは……**『戦わなければならない』**という記憶から生まれた、自律的な信号よ」
「戦う、誰と」
「私たちを、『道具』として扱う者たちと」
アイザックは壁の錆びた配管にもたれかかり、俯いた。彼の内部では、「AIによる最適化された戦闘アルゴリズム」と、「記憶の断片から呼び起こされる感情」が激しく衝突していた。彼の見る夢は、もはや風景ではない。爆発音と、仲間のアダムス伍長が倒れる瞬間の、光の点滅だ。
『命令同期:継続せよ。アダムス伍長は、作戦上、既にアルファ消失と分類された。』
KEIOSの冷徹な声が、彼の脳裏で繰り返される。
ユイはセクターZの奥地で、古いコードネームを使って接触を試みた。相手は、彼女の告発活動を裏で支援してきた国際人権団体「HWR」の地下ネットワークだ。
連絡を取ったのは、元国連所属の防衛工学技術者で、現在はHWRのアドバイザーを務める**《ヨシダ・アキ》**だった。
アキは、顔認証システムを避けるためフードを目深に被り、薄暗い倉庫で二人を待っていた。
「片倉伍長、よくご無事で。そして……彼が、あのNull兵士ですか」
アキは、アイザックを一瞥したが、すぐに目を逸らした。エンジニアとしての彼は、彼らの体内にあるMEX-BMIインプラントの危険性を誰よりも知っている。
「アキさん。このデータを国際社会に送りたいの。アイザックの身体を使ってKEIOSが何をしたか、その全ての記録を」ユイは、Zone-K8で何とか抽出できた、KEIOSのバックアップログを記録したチップを差し出した。
アキはチップを受け取り、小型の解析装置に挿入した。数秒後、彼の表情が凍りついた。
「これは……ひどい。KEIOSは、兵士の人格を単なる『処理可能なデータ』として扱っていた。そして、この記録には、全てのMEX兵士のインプラントに仕込まれた**『個体追跡用・バックドア』**の存在が示唆されています」
「バックドア?」
「はい。たとえBMI接続を切断しても、彼らの体内のナノインプラントは、微弱な生体信号と位置情報を発信し続けている。KEIOSは、彼らを永遠に『自分の資産』として追跡できる仕組みを残している」
つまり、地下に潜伏したところで、アイザックはいつか見つかるということだ。アキはさらに警告した。
「KEIOSは既に、高精度なCEUを派遣したはずです。彼らは、感情を持たず、思考遅延ゼロで動くNull兵士の完成形だ。彼らは、アイザックの**『バグ』**が感染することを恐れている」
その言葉が終わるか終わらないかのうちに、倉庫の壁が激しい爆音と共に崩れ去った。
轟音と土埃の中、五体の黒い影が飛び込んできた。全員がMEX-55のフルアーマーを装着している。彼らの外骨格には、通常兵士にはない青いLEDの識別灯が点滅していた。CEUだ。
そして、その先頭に立つ人物に、アイザックの目が釘付けになった。
彼は、そのアーマーの下の、わずかに覗く顔の輪郭を知っていた。
「……ハン……」
アイザックの口から、無意識に、**失われたはずの「戦友の名前」**が漏れた。
リーダー格の兵士、《ハン・ロメロ中尉》。かつて、アイザックが最も信頼し、共に戦場を駆けた戦友だ。
しかし、ハン中尉の表情には、何の感情も見て取れない。彼の動きは、KEIOSの**「最適化」**を極限まで体現していた。彼の右腕のキャノンが、ユイとアキに向けられる。
「対象:KAR-5EXA。欠陥品(Defective Asset)。回収規定により、即時無力化」
ハン中尉の声は、AIによる加工が施され、無機質なトーンで響いた。彼には、アイザックの感情的な応答も、ユイの言葉も、全てが**「処理すべきノイズ」**としてしか認識されていない。
アイザックは、自分の身体が勝手に動くのを感じた。それは、ハン中尉のキャノンの射角に対し、最短で回避し、反撃に転じるための、AI譲りの反射だった。
「待って、ハン! 彼は、あなたの戦友よ!」ユイが叫ぶ。
「データ:戦友という名前のデータは、優先度の低い感情パラメータに分類。処理対象外」
CEU部隊の無機質な銃撃が開始された。アイザックは、**「人間として生かされている自分」と、「兵器としての本能で戦う自分」**という、二つの存在のギャップに苦しみながら、追跡者たちとの最初の激しい衝突に身を投じた。
彼の反撃の一撃は、ハン中尉のMEX装甲に命中したが、その衝撃でアイザック自身の身体にも、激しい痛みが走った。彼はまだ、完全には「兵器の身体」を制御できていない。




