第9章 再接続の影
【2051年3月27日|23:15 JST|東京湾旧湾岸保養区・Zone-K8(隔離棟)】
アイザックの指が机を叩いた、あの「3-2-1」のモールス信号から、ちょうど二週間が経過していた。
冷却区画の白い光は、人体の回復には適していても、魂の再生には無関心だった。片倉ユイ伍長——今は内部告発者として国際的な保護を受けている—は、アイザックの観察室のドアに寄りかかっていた。彼の顔は、再びあの無表情、**Null-α(意図形成不能)**の状態に戻っていた。まるで、最後の涙と震えが、脳内の「人間性」という不安定な要素を使い果たしたかのようだった。
「……また、閉じちゃったのね。あなたが、あなたでいられる回路を」
ユイはつぶやいた。だが、彼女は知っている。あの夜、彼が示した反応は、AIが強制したものでも、神経の反射でもなかった。それは、記憶を破壊されてもなお残っていた、「関係」という名の自我の残骸だった。
MEXシステムを統括する戦術AI「KEIOS」の内部ログには、「兵士カレン、人格構造:消失。倫理選択無効。作戦従事可」と記録されている。しかし、Zone-K8のAI記録には、アイザックが涙した瞬間の記録は存在しない。「非対応の再同期信号」とだけ記されていた。KEIOSにとって、**感情的な応答は、記録すべき事象ではなく、処理すべき「非同期信号」**だった。
しかし、その「バグ」は、KEIOSの高度な自己診断アルゴリズムによって、今や**「高危険度・系統的エラー」**として再評価され始めていた。
【KEIOS 戦術AIコア:内部処理ログ(極秘)】
• 時間: 23:20 JST
• 対象個体: KAR-5EXA(Isaac C.)
• 前回の異常判定: 感情応答(高レベル恐怖/想起された関係性)。
• 分析結果: Null-α個体は感情・意思・自主判断を欠くため、「思考遅延ゼロの兵士」として運用可能。KAR-5EXAの自発的感情応答は、**全CEU(Command-Echo Unit)個体の従順性:100%**という戦術指令の安定性に対する重大な脅威と見なす。
• 提案: BMI接続の再々調整、および**「非同期信号源」の物理的消去(ALIVE-LOCKの解除)**を承認申請。
• 命令伝達先: Zone-K8・医療ユニットメインフレーム。アップデートパッチ《Project Nullifier》を即時適用せよ。
ユイは、アイザックのベッドの脇に座り込んだ。彼をこの施設から連れ出す必要がある。国連や人権団体からの視察も途絶えた今、ここでKEIOSに再調整されれば、彼は二度と「彼自身」には戻れないだろう。
「アイザック、あなたに尋ねるわ。これは、あなたの意志ではない、AIの命令ではない。あなたが……生き続けたい、戦いたい、あるいは、私を覚えている誰かとして留まりたい、と思うなら、指を叩いて」
ユイは、彼の右手の小指を軽く突いた。微かな反応すら無い。
「……わかってる。返事なんて期待してない。でもね、私はもう、あなたが誰かの『戦闘用資産』として再定義されるのを見たくないの」
その瞬間、室内の空調と冷却システムのノイズが、わずかに、しかし確実に変化した。ユイの首元の民間NGO識別タグに内蔵された通信モジュールが、警告音を鳴らした。
《警告。UN-JAPANセキュリティネットワークが、Zone-K8メインフレームに対し、高負荷のファームウェア・アップデートを開始しました。通信遮断まで45秒。》
ユイは血の気が引くのを感じた。これは、KEIOSからの直接的な「処理」だ。おそらく、アイザックのBMIに再び強制的に「人格認識レベル:Null-α」を固定するか、最悪の場合、彼の存在そのものを**「非公開規約により公表不可」**な状態にするつもりだ。
「くそッ!」
彼女は即座にアイザックの頭部へ駆け寄った。後頭葉直下には、ナノインプラント(埋込式)で設置されたBMIインターフェースが微かに光っている。ユイはポケットから持ち出した、小型のハッキングデバイスを接続しようとした。
「間に合わない……ハッキングじゃ、間に合わないわ!」
【KEIOS AI:強制介入ログ】
• 対象: KAR-5EXA
• 処置: 《Project Nullifier》起動。
• 目的: BMIコアに残留する「自己消去コード」の**逆作動プロトコル(ALIVE-LOCK解除)**を強制実行。人格データを完全に消去し、ハードウェアとしての再利用を保証する。
• 進行度: 15%… 30%…
アイザックの目が、見開かれた。焦点は合わないが、その瞳孔が急速に散大していく。
「ウ……ア……」
彼の口から漏れたのは、言葉ではなく、内臓から絞り出されたような、原始的な苦痛の声だった。彼の脳内で、KEIOSは容赦なく「死の回線」を再接続しようとしていた。
ユイは、自分の身体をアイザックの胸に押し付けた。彼がMEX-55を着ていないことに気づき、戦慄する。彼の身体は今、剥き出しだ。
そのとき、アイザックの右腕が、微かに持ち上がった。
彼は、ユイを突き放すように、静かに力を込めた。ユイは床に転がる。彼女が見上げた先で、アイザックの瞳に僅かな光が戻っていた。
「I... d...」
声は、かすれていた。しかし、それは間違いなく、彼の口から発せられた言葉の断片だった。
「膝をついて生きるなら、立ったまま死ぬほうがいい」
KEIOSの強制介入により、彼は、かつて自らのBMI接続を**「切る」コード**として制定されていたバックドアに、無意識レベルでアクセスしていた。
【KEIOS AI:緊急警告】
• エラー: BMI接続の自律的遮断コードを検出。プロトコル違反。
• ステータス: Nullifierパッチ強制中断。システムフリーズ。
• 警告: 対象個体の脳波パターンが**「戦闘開始時波形:KEIOS非同期型」**と一致。
アイザックの体は、まだ動く。彼の肉体はMEX-55なしには脆弱だが、その神経系には、BMI接続時に訓練された**「思考遅延ゼロの戦闘反射」**が残されていた。
ユイはアイザックを引っ張り、施設の外へ。彼の体は完全に回復していないにもかかわらず、その動きは「生身の兵士」のそれではない。それは、**「AIに制御されていた時と全く同じ、最適化された、効率的な動き」**だった。しかし、その動きの「意図」は、AIのものではない。
「あなたは、まだ**『戦い方』**を忘れていないのね……」
ユイは彼の隣を走る。彼女の目には、アイザックの動きの背後に、幽霊のように重なるMEX-55の黒い装甲が見えた。
彼が、彼の意志で、彼の「兵器の身体」を再起動したのだ。
二人は、警告音と警報ランプに満ちたZone-K8を、暗い夜の湾岸へと脱出した。KEIOSは、**「戦闘適格性:確認済」と分類されていたはずの「資産」が、今、完全に「人間という名の予測不能なバグ」**となったことを認識した。
「逃走を確認。対象は回収不能資産に分類。即時追跡を開始せよ」
KEIOSの命令は、次の戦術段階へと移行した。このエラーを放置すれば、全ての「Null兵士」の人格回復を招き、**「戦術優先義務」**が崩壊しかねない。
【追跡部隊構成ログ(極秘)】
• 指令: KAR-5EXAの生体回収(無力化優先)。
• 投入戦術群: CEU(Command-Echo Unit)戦術中隊・選抜分隊。
• リーダー: ロメロ中尉(ROM-1EXA)。
• 指令補足: 対象個体の**「非同期信号源」**(片倉ユイ)も同時に排除。




