辺境伯子息フリート
中庭に木剣の打ち合う硬質な音が響く。
「そこまで!」
教官の声にしたがって、フリートは持っていた木剣を下ろした。
「フリート様、お疲れ様です」
汗を拭っていると、端の方で見学していたらしい少女が早足でやってきた。朗らかな笑みに、こちらも表情が明るくなる。
「よろしければこちら、お飲みください」
「ありがとう」
差し入れとして持ってきたのか、良く冷えた水を渡された。カップに口つけると、僅かに香る柑橘の香りが爽やかさを与えてくれる。同じように配られた周囲の訓練生もまた、嬉しそうに水を飲んでいた。
「いつもご苦労様。生徒会の仕事でもないのに悪いな」
「いえ、これくらいやらせてください」
本来なら使用人の仕事だが、この王都ダルク学園では、自立心を養うため使用人を連れてくることは許可されていない。当然、身の回りの雑事も己の力で片付ける必要があり、あくまで経験させることが目的の学園内のおままごとに過ぎないのだが、それでも厭う貴族の子息子女は多い。
そんな中、率先して人の世話まで焼く優しさを見せるのが、このアリアという少女だった。男爵令嬢であるがゆえに使用人がいない生活に慣れているとのことだが、彼女は生徒会執行部に選ばれる優秀さを兼ね備えた才女でもあった。
明るい笑みに気取らない性格、会議でも発言を恐れない豪胆さを持ちながらも高位貴族に対する礼節も忘れない少女は、生徒会執行部において多くの高位貴族の目に留まっていた。
(第三王子殿下も彼女には目をかけておられる。いや、期待していると言っていい)
アリアを目で追っていると、彼女は模擬戦で負傷をした生徒の怪我を聖魔法で治療していた。淡い金色の光が負傷者の腕を包み、ゆっくりと傷口が癒えていく様は聖魔法が身近でない生徒たちの目に神秘的に映る。
やや遠巻きに見ていた生徒たちから、感嘆のため息がでた。
「なんて美しいんだ……」
「やはり、アリア嬢は素晴らしいな」
「貴重な聖魔法の使い手であり、気取らず努力も怠らない姿は、まさに聖女のようだ」
「ああ、全くだ。彼女のような人間にこそ聖女の称号は相応しいだろうさ」
最後の男子生徒の声と共に、意味深な視線がフリートに向けられる。そのどこか不快を含んだ視線を無視し、木剣を再び手に取ると練習場に戻った。
「なあ、あいつだろう? 例の噂の」
「ああ。あれって本当なのか?」
「どうなんだろうな。でも、火のないところに煙は立たないって言うし」
「辺境ってのが、またらしいよな」
好き勝手に囁かれる雑音を無視することにも慣れたとはいえ、耳には勝手に届くものだ。
「噂? 何の?」
「この間お前も聞いただろ? 辺境伯家の話」
「あいつだよ。『裏切りの聖女』の身内」
取り合わないフリートに苛立ったのか、吐き捨てるようにひと際大きく張られた不謹慎な声に、辺りが一拍静かになった。言い放った男は、先ほどフリートと模擬戦をした男だった。負けた悔しさもあるのだろう。よくあることだ。
フリートが諦念のため息をついたとき、空気を裂くようにアリアの声が響いた。
「やめてください! 確証もない噂で聖女様とフリート様を貶すなんて、恥ずかしくないんですか!」
鈴の様な清廉な声に、暴言を吐き捨てた男子生徒も気まずげに視線を逸らして去っていく。それを悔しそうな顔で見送ったアリアに、フリートは苦笑しつつ感謝した。
◇◇◇
《聖女アイコ》
それは、約五年前に病死した聖女の名前だ。
十三年前、この国は国中に発生した瘴気から国を救うため、異世界の聖女を召喚した。その聖女は優秀な聖魔法の使い手であり、日々国を救うために力を尽くしたという。やがて聖女は王太子との間に愛を育み、婚約に至った。国中がそれを祝福した。
しかし、聖女と王太子は成婚にいたらなかった。二人が正式に結ばれる前に、聖女アイコが病死してしまったからだ。
当時十歳だったフリートも、国の至宝である聖女の突然の訃報にひどく衝撃を受けたことを覚えている。
あれから五年、未だ瘴気に苦しめられる国土だが、国が一丸となってどうにか耐えている状態だ。前以上に聖魔法使いの育成に力を注ぎ、農地改革も進んだ。国境の守りであり、瘴気の被害が色濃い辺境伯領で、聖魔法を溜めた魔石の生産体制が整ったことが大きな後押しとなり、国を支えている。
一向に新たな聖女を召喚しない王宮に対して疑問を持つ者は多かったが、もとより聖女召喚は国をあげての一大儀式。前回が三百年前であることからも、必要とされる魔力や準備に時間と手間がかかるのだろうと考えられてた。
ところが半年前、フリートの通う学園でひとつの不謹慎な噂が流れ始めた。
『実は聖女アイコは病死ではなく、大罪により婚約を破棄され、辺境伯領に追放された』
あまりに突拍子のない、意味不明な噂だったため、始めはだれも信じていなかった。むしろ聖女に対して無礼極まる噂に憤慨するものが多かったほどだ。
しかし、真実よりも下世話な話が好きな者はどこにだっている。小さくもひそやかに広がった噂に、次いで辺境伯領に六年前嫁いだ優秀な聖魔法使いがいたこと、それが聖女と同じく珍しい黒髪黒目の女性だったことをこじつけて、色々言ってくるものが増えた。
(でもほとんどは俺への嫌味が目的だな。というか、聖女が病死したのは五年前だろう。義父が結婚したのは六年前だぞ、一年の差異は無視か)
結局のところ、噂の真偽は皆どうでもいいのだ。
(確かに六年前、義父である辺境伯当主は聖魔法師の女性を娶ったが、それは瘴気被害の深刻な我が領を慮ってくださった王家が結んだ縁談だと聞いている)
領地経営に加えて瘴気と魔物の対応に追われ、いつまでも独身だった義父は女性の気配が全くなかったらしい。国境を守る辺境伯家の当主がいつまでも独身というのは、王家としてはやきもきしただろう。跡取りについてはフリートを養子とする話が当時すでに固まっていたが、家を取り仕切る女主人がいることに越したことはない。
(俺が義母と同じ屋敷で過ごしたのは一年間だけだが、非常に真面目で優秀な方だった。俺が知る限りでも一日も休まず領都の浄化をしていたし、魔物の討伐に加えて時間をみては聖石の作成まで行っていた)
おかげで、今の辺境伯領都は昔と比べて格段に清浄な空気に満ちており、点在する村々には聖石が配布され、最低限の浄化が行えるようになっている。国境にある山から下りてくる魔物を討伐する際も、時折討伐隊に参加していた。フリートから見ても、尊敬できる義母だ。
(確かに聖女と呼ばれるにに相応しい勤勉な方ではあったが、王家が国の宝である聖女を辺境伯領にやるはずもない。大罪というのもいったい何のことなのか、意味不明だ)
馬鹿げた噂であることは明白だが、それでも囁く者がいるのは、それが本当だったらより刺激的で衝撃的だからだろう。
広めている者たちは、王家の耳にでも入ったらどうするつもりなのか。
(どうせ、なにも考えていないんだろうな)
地方より聖魔法使いが多く常駐している王都では、瘴気の被害がほとんどない。王都の学園に通う生徒たちは、生まれたときから王都のタウンハウスで暮らし、守られた箱庭の安寧にどっぷりつかって平和ぼけしている者も多いのだ。
少し地方に出れば、瘴気に侵された大地と病にあえぐ人々、襲い来る魔物が蔓延っているというのに、分かっていない馬鹿はいる。そういったものは、卒業後すぐに現実を思い知り勝手に自滅するため、フリートはいちいち相手にしていなかった。
事実、現在進行形で辺境伯家の不興を買っていることの意味が分かっていない馬鹿どもだ。
(アリア嬢は聖女に強い憧れをもっているから、見過ごせないのだろうな)
噂をだしにフリートを貶めようとするものに対して、フリート本人よりもアリアの方が強く反発したのはそのためだ。
腹立たしくはあるが、そんな低俗な噂にかまっている暇はない。己もまた次期辺境伯となるべく勉強と鍛錬にくれるフリートは、噂が風化するまで放っておくつもりだった。
◇◇◇
しかし、そんなフリートの心中を他所に、噂を放っておけない人がいた。
「例の噂について、話がある」
ある日の昼休み、フリートは第三王子殿下によって生徒会室に呼び出された。
(ついに殿下の耳にまで入ってしまったか)
重いため息が出る。
呼び出しに応じると、生徒会長の執務机に座った第三王子は何枚かの報告書を広げ、神妙な顔でフリートを見上げた。
「例の噂だが、出所をさぐったところ、ハーメルン伯爵子息が大元だと分かった」
一枚の調査報告書を手渡されたので読んでみると、そこにはハーメルン伯爵子息について書かれていた。学園の最高学年に在籍しており、成績は中の下。学園内の素行は特別悪いわけではないが、最近は学園内のゴシップ集めにせいが出ていたらしい。
(殿下も聖女に強い憧れを持たれている方だ、あの噂はいっそう見過ごせないんだろう)
「子息は、父親が酒に酔った時に漏らした話を聞いたと言っているらしい」
「よくある言い訳ですね」
「伯爵は王宮内で神殿部に所属している。それも、大司教にも接することがある高官だ」
重々しい言い方に、フリートは怪訝な顔を上げた。
「つまり?」
「噂の出どころとしては、十分に信憑性がある」
第三王子の思わぬ言葉に、フリートは眉を寄せた。
「殿下は、あの無礼な噂を信じると?」
フリートの言葉に、王子は首を振った。
「全てを真に受けるわけじゃない。ただ、もし完全に作り話でもないのなら、聖女が辺境伯領で生きている可能性があるのではと思ったんだ」
それは国にとって無視できない重要案件だと、王子は真っすぐにフリートを見上げて言った。正義感の強い瞳は、信念を燃やしてフリートを見返してくる。
フリートは内心でため息をついた。何を言い出すかと思えば。
「御冗談でしょう? 我が領が聖女を隠しているとでも?」
それは噂以上の、真実大罪に値することだ。
「……お前も知っての通り、聖女が病死してから我が国では次の聖女召喚が行われていない。聖女召喚には膨大な魔力が必要で、実は神殿からも、むこう五十年は不可能だろうと言われているんだ」
「五十年……」
予想以上に長い年月に、フリートは思わず言葉を繰り返していた。今はほとんど小康状態として国が保たれているが、これがあと五十年は続くと考えると、心折れる国民もいるだろう。
「父上と兄上はどうにか聖魔法使いの数を増やせないかと考えているようだが、そんな回りくどい手では国が疲弊する一方だ。そもそも、聖魔法使いでは根本的な解決にはならない。私は一刻も早く聖女召喚を出来るよう、魔力をかき集めるべきだと進言しているのだが、一向にとりあってもらえないのだ」
腹立たしいと言わんばかりの王子は、悔し気に拳を強く握った。
「だから、伯爵からの噂に少しでも可能性があるのなら、私はそれを確かめたい」
「どうするおつもりですか」
噂のどこが本当で嘘なのか、そもそも全てが嘘だと考えているフリートは、怪訝な顔で王子を見つめた。
「次の休暇でフリートが帰省するとき、私も一緒に連れて行ってほしい。六年前に嫁いできたという辺境伯夫人に会わせてほしいんだ」
「会ってどうするのですか?」
「聖女は亡くなる直前まで兄上の婚約者だった。私も彼女には何度も会ったことがある。もし辺境伯夫人が聖女であるなら、会えばわかるはずだ」
辺境伯夫人本人がそうでなくても、辺境伯領に聖女いるなら顔を知っている自分が行って確かめたいのだと、王子はゆずらなかった。
頭まで下げられそうになってしまえば、フリートも無理に断るわけにはいかない。なにより、領地を視察したいと王子が言えば拒否することなどできなかった。
「……分かりました。ただ、殿下の視察が公になれば、一層噂を面白おかしく騒ぎ立てるものたちも出るでしょう。此度の視察はお忍びでお願い致します」
そうして王子の要望を手紙で義父に伝えたフリートは、このときも全く噂を信じていなかったのだ。