辺境伯ヘルムート
辺境伯ヘルムート視点。
「この度はご結婚、誠におめでとうございます」
「心にもないことを言うな」
古くからの付き合いである家令からの言葉に、ヘルムートは深いため息をついた。
「彼女はどうしている?」
「お疲れのご様子でしたので、すでにお休みになったかと」
「そうか」
王都で婚姻の儀と披露宴をした翌日には、ヘルムートたちは辺境伯領へと戻った。辺境伯領は瘴気と魔物の脅威があるため、ヘルムートはあまり長く領地を離れられない。今回は、王命による聖女との婚姻ということで仕方なく王都へ出てきたのだ。それでも、可能な限り不在の期間は短くしたかったため、婚姻の儀の前日に王都入りし、披露宴を終えた翌日には王都をたった。実質三日の滞在だ。
「それにしても、随分と無理をなさいましたな。もう少しゆっくりされても良かったのでは?」
「馬鹿を言うな。もうすぐ収穫の時期でもあるのに、領主である私が不在してどうする。ガルグ山から魔物が降りてきたら討伐隊を誰が指揮するのだ」
「ですが、ご婦人にはあまりの強行軍だったのではありませんか?」
「それは……聖女殿は国のために尽くしてきた方だ。わかっているだろう」
咎めるような家令の視線から逃れるように、妻として迎えたばかりの女性がいる部屋の方角を見た。領地が心配なあまり急いだ移動となってしまったが、家令の言う通り、旅になれない女性には配慮に欠ける対応だったかと、今更ながら罪悪感が湧く。
「彼女には侍女をつけて、可能な限り要望はとりいれてやってくれ。称号は剥奪されたとはいえ、王命で預かった元聖女で高位の聖魔法使いだ。くれぐれも丁重にな」
「かしこまりました」
家令が部屋を出ると、ヘルムートは疲れたようにため息をついて己の執務室に溜まっていた仕事を手に取った。
◇◇◇
ヘルムートの治める辺境伯領に今回の話がふられたのは、寝耳に水のことだった。
七年前、わが国を救うために異世界より召喚された聖女は、この国の王太子殿下と婚約を交わしていた。中央から離れていたヘルムートの耳にも、聖女と王太子の婚約という慶事は届いており、国中の民が祝福していたのだ。
そんな明るい話に影が差し始めたのはいつ頃なのか、王都から遠く離れた領地で戦い続けていたヘルムートが知るはずもないが、半年ほど前、聖女だった女性と王太子の婚約は秘密裏に解消された。理由は、彼女がいつまでたっても《聖女の秘術》を会得しなかったことに議会が業を煮やしたかららしい。
我が国を蝕む瘴気は、瘴気の穴から吹き出している。ゆえに、いくら聖魔法で浄化しても、元の穴を塞がないことには根本的な解決にはならないということは、この国の貴族であれば皆が知っていることだ。
議会は、穴を塞ぐことができるという《聖女の秘術》に一縷の望みをかけていた。ゆえに、七年待っても会得できなかった聖女への失望は大きかったのだろう。
彼女には辛い仕打ちだっただろうが、議会の気持ちは痛いほど分かった。なにせ、一番瘴気の被害が大きいのがこの辺境伯領なのだから。
(だからこそ、押しつけられたとも言えるんだろうがな)
ヘルムートは、何を考えているのか分からない顔の女性を思い出し、ため息をついた。
国はアイコを見限り、新たな聖女を迎えることにした。
だが、民を不安にさせないために《聖女の秘術》のことは秘匿され、王太子との婚約解消も民には公にされない。新しい聖女を婚約者に据えることで、聖女と王太子の婚約は守られる予定だ。
しかし、残ったアイコも秘術を使えないとはいえ、最高峰の聖魔法の使い手であることには変わりない。七年間、陰ながら国に貢献した功績もあるらしく、下手に捨て置けず新たな聖女との軋轢も危惧した議会と王家は、王都から離れた地で囲うためにこの辺境伯領に白羽の矢をたてたのだ。
(我が領としては断る理由もなかったが、彼女からすれば災難なのだろうな)
辺境伯領は新たに高位の聖魔法師を手に入れられ、王家にも恩を売れた。しかし、聖女からすれば、王都の華やかな王宮、しかも王太子の婚約者から一転、危険の多い辺境伯領で瘴気を浄化して回る日々となるのだ。普通の令嬢なら悲嘆にくれてもおかしくはない。
(思いのほか落ち着いていたが……初夜は拒否されたのだから、やはりまだ王子に未練があるのだろうな。それか、無言の抵抗のつもりなのか)
婚姻の儀の夜、初夜のために訪れたアイコの寝室で、不覚にもヘルムートは眠らされてしまった。出会い頭に魔法を使われたのだろうが、無理なスケジュールで疲労が溜まっていたこともあって気が付けば朝日が昇っていたのだ。一晩ぐっすり眠った体は快適な目覚めだったため文句はない。もともと、ヘルムートは無理に子を作るつもりはなく、辺境伯家の跡取りは亡き兄夫婦の残した子を養子にする予定だった。
(愛もなく、子も求められていないとなると、確かに不憫ではあるが)
ここまでの扱いであれば、誰が見ても体のいいお払い箱だと分かる。彼女に求められているのは、辺境の民の心を晴らす浄化師としての役割だけだ。
しかし、その点でいえば、彼女は十二分に役割をこなしていた。
秘術こそ使えはしないが、アイコは辺境伯領の領都に入った際、待ちわびた領民たちの前で大規模な聖魔法を披露した。縋るようなまなざしを向ける民たちにの前で銀色の光の雨を降らせ、領都一帯の瘴気を浄化したのだ。一瞬で広がった清浄な空気に、集まった民たちは歓喜した。あっという間に領民の心を掴んだ辺境伯の妻は、これから毎日領都を浄化するという。
(確かに見事な聖魔法だった。あれほど膨大な魔力があれば、辺境伯領も今よりましになるかもしれない)
彼女には申し訳ないが、ヘルムートにとっては辺境伯領にとって有益であるか否かが最も重要だった。 だから、それを示したアイコに対して、ヘルムートは出来うる限りの配慮をする義務がある。
(彼女の望みはなんだろうか)
婚姻の儀でも披露宴でも、彼女と交わした会話は表面的で短いものばかりだ。笑顔さえ外向きのものだろう。これから長い時を夫婦として過ごす二人にしては、あまりに交流が足りていなかった。
(明日は、時間をつくろう)
互いを知り、これからについて話す時間を作るため、ヘルムートは新たな書類を手に取った。