08 a night
エマを送ってしまうと、彼は踵を返して捜索を再開した。
本来の予定とは違ってしまったが、カナリアの友人を守ることができたのなら決して無駄な行程ではなかっただろう。それに彼女と話が出来たことも、悪いことではなかったと思える。エマのどこかしら不満げな口ぶりからは、それでもカナリアが大事に思われていることが伝わってきたのだ。彼女たちの命が不当に奪われることのないように、やはり早く天使を狩らなければと思う。
黙々と路地裏を巡っていく時間は、先程まで誰かと一緒にいたせいか自分の息の音だけが意識に響く。無人の荒野を踏むように足音は続いていく。
――――誰かを心配する愚痴など、久しぶりに聞かされた気がする。
その愚痴に半分では共感しながら、その場にいない他の誰かを思うことも。
いくらかの人の輪のなかに自分がいるという会話は、グレイシアスに懐かしい感覚を呼び起こしていた。遠く幼い頃に大切にしていた硝子玉を、今さら見つけたような。
きっとカナリアと関わるということは、彼にとってそういうことなのだろう。
誰かを守りたいと、大切にしたいと考えることは、同じ思いを持つ人間ともまた彼を結びつける。人と人との繋がりはそうして広がっていく。そこに安らぎを得るのが、ただしい人の形でもあるだろう。
そう思いながらも、だが同時にグレイシアスは、少し遠いとも感じていた。
郷愁というのは、つまりはそれだ。
かつてを思い返しながらも、もう届かないと懐かしむ感覚。
天使狩りは人から排されるものだ。いまさらその中で生きていけるなどというのは、水面に映った月のように実感がない。それはカナリアだけとの繋がりとは違う、グレイシアスには掴みづらい感覚だった。
彼は周囲を眺めわたす視線を頭上へと振り向けてみる。
路地裏の底から見上げる空は狭い。薄汚れて連なる軒に遮られ、切り取られたそれは迷路に似て不自由だった。
定められた道。人は想像するほど多くを選べるわけではない。
本当はきっと、選べると思っていいわけでもないのだろう。
それとも……天使を狩り続けるという行為の先に、周囲から認められるなどという道があるのだろうか。たとえばエマから向けられる険のある目つきも、彼が下層の天使を狩ることができれば、多少は和らぐだろうか。
天使の死体を積み重ねる行為。それを迎え入れる人々。
それは、はたして正しい在り方だろうか。
いや、正しさを問うのなら、現状が既にそうだと言える。
天使を狩り続ける自分たち。それを容認する人の群れ。
間違いがあるとすれば、きっと初めからだ。
やはりこの街には、彼のしていることには、本当は――――。
グレイシアスは我知らず眉を顰める。益体もない考えを首を振って打ち消した。エマとの会話を無意識に反芻していた彼は、ふとそこで足を止める。
そういえば、と独り言が漏れたのは、あることを思い出したからだ。
彼はすぐに足先を変えると、夕暮れになりつつある街を下層の外れへと向かう。捜索も今日できる終わりにさしかかっており、中層にある自宅に帰りつける方向で進んでいたが、このまま帰る気はなくなっていた。
下層のどこかにいる天使は薬師を狙っているという。
もしグレイシアス自身が天使であったなら――――所在の分かっている薬師から狙う。そしてある程度は名の知れた、身動きの取れないという薬師が、下層には存在しているのではなかったか。
相手が天使だという先入観から思いつきもしなかったが、これがたとえば人による薬師の殺害であるのなら、狙いやすい人間から狙うのが定石だ。
意志を持つ天使であるのなら、それくらいの知恵があっても不思議ではない。
先程エマが訪ねていったということは無事でいるのだろうが、警告くらいはしておいた方がいい。訪ねるのも早い方がいいだろう。
カナリアの師の家に辿り着いた頃には、周囲はすっかり日暮れの赤に染まっていた。彼は古びた木扉を叩くと、声をかけて中へと踏み入る。
石室の中は以前カナリアと訪れた時と何ら変わりがないように見えた。
少し開けられた木窓から夕焼けの光が差し込み、室内を赤く照らし出している。
寝台に身を起こしている老人は、やってきた青年を見て僅かに目を細めた。
何の用か、としわがれた声が囁く。彼はそれに、下層に天使が隠れていることと、薬師が狙われているらしいことを話した。
驚いた風でもない横顔。はじめは気をつけるよう警告しようと考えていた彼は、だが話をしているうちに相手の反応に違和感を覚える。落ち着き払ったような態度は、しかしただその話を知っているだけではないような気配があった。
青年の話を聞いた老人は、しばらく無言で目を閉じていた。何かを包み隠したような不自然な沈黙が部屋に流れる。
青年は目を細めると口を開く。
何かを知っているのであれば教えてほしいと。
問いかけたのは直感だ。老人の語らない横顔から何かを、彼は感じ取っていた。諦観とも覚悟ともとれる不自然さ。しばらく瞑目していた老人は、ややあってから顔を上げた。穏やかな瞳が、不透明なさざ波を湛えて彼に向けられる。
――――君はあれを、狩りたいと考えているのかね。
沈黙が不自然であったなら、続く言葉もまたそのようなものだ。
狩らなければならない、と彼は答える。それが天使であるのなら。
この街で生きる人間としては当然の答。
だが自明であるはずの問いを投げかけた老人は、青年から視線を外すと小さく溜息をついた。そこまでして狩る意味があるだろうか、と静かな声で零す。
重ねられる不理解。グレイシアスの表情に不審が浮かぶ。
どういう意味かと青年が問い返すと、老人は言った。
君は知っているのだろう。あれは――――
禍々しいほどの赤色に染められた石室。
瞬間、その言葉は忌まわしい風のように床を這った。
グレイシアスは口元に力が入るのを自覚する。それは見えないものとされている絶望だ。彼はゆっくりと息を吐き出してから返す。
天使が何であれ、この街を守るのが俺の仕事です。
本当にそう思うかね。君は今まで何人の天使を殺してきた。
分からないと答えると、老人は静かに頷いてまた彼を見やる。
グレイシアスを咎める眼差しではなかった。ただ真摯な疑問がそこにはある。
老人は乾いた声で問うた。――――君の目から見て、この街は、ここに住まう者たちは、それだけの天使を殺して、守って、続けていくに値するものだったかね。
迷う必要などなかった。
人々の安寧のために天使を狩る。狩り続ける。
そうでなければ人はこの地で生きていくことはできないのだから、それは当然肯定されるべき行いだ。正誤以前の、考えるまでもない問いである。
だが――――
彼を取り巻く猜疑の目。
塗り重ねられて渦を巻く悲鳴。
天使と人とを分ける善性の在処はどこにあったのか。
犯され続ける罪の重さに見合うだけのものも。
この街そのものの是非と、天使を排することの正しさ。
肯定の言葉を、グレイシアスの喉元で何かが掴まえて離さないでいた。
それはずっと、彼のうちに蟠り続けていたものだからだ。
見えずとも、言葉にされずとも、この世の多くの絶望がそうであるように。
無言で立ち尽くす天使狩りの青年へと、老人は囁く。
生きるためなら何をしてでも生き続ける。
その醜さを顧みることもない。
仕方がなかったのだと、当然だからと、そう他者を踏みつけにしてしか生きられないのなら、はじめから我々に生きていく意味などないのではないか。
――――……だがあなたは、カナリアを育てたはずだ。
どこかで相手を認めてしまいそうな感情の波間の、それでも諦めきれない一片。彼はそこに自分でもよく分からない拘りを覚えて老人に言い返す。
青年の反駁は、僅かだけ老人の沈黙を誘ったようだった。
微かな戸惑いと、小さな驚きの表情が皺だらけの顏に浮かぶ。
束の間、過去を思い返すかのように遠くなる瞳。不分明な視線は彼自身、何故それを為したのか手探るようで、けれどすぐに伏せられた。
どうでも良いと思っていたからだ。
床に落ちた言葉は、重くもなく軽くもなく、ただ枯れ切った葉のようだった。
彼はカナリアを拾い育てた理由を話す。それは誰かを救いたいからなどという高尚さからではなかったという。もうこれ以上を失うものがない人間の気まぐれだと。拾ってきた子供が天使となって私を殺そうと、もう構わなかったのだと。
ただそれだけだと、彼は言った。
過去を辿って話す老人の顔つきは、無表情に近いものとなっていた。
生きながらに死しているようなそれは、どこか今まで殺してきた天使たちの貌に似ている。グレイシアスは虚しさを覚えて空の手を握った。
この老人は、かつて中層で天使に家族を殺されたのだという。
それがきっかけで彼は下層にやってきたのだと、カナリアは言っていた。
その時から彼の心は、疑念と絶望に蝕まれ続けていたのだろうか。天使の討滅を無意味に思わせるほどに、この街に巣食う不条理は耐え難いものだったのか。
老人は諦めたように、呟くように問うてくる。
君はなぜ天使狩りになった。
グレイシアスは孤児であったからだと答える。
身寄りもなく、他にできそうな仕事もなかったからだと。
これからも続ける気なのか、と老人の問いは繋がれた。
おそらく死ぬまでは、と彼は答える。
では、なぜ続けるのかね。
端的な問いに、彼は息を詰める。
なぜ――――なぜ、彼はこのようなことをしているのだったか。
やめてしまっても良かったはずだ。
報われない戦いに倦んで、剣を置く天使狩りは実際いくらでもいる。
何も知らなかった幼少の頃ならともかく、もう今の歳なら他の職を探すことくらいは出来るはずだった。
生きることはできる。
彼が手を汚さずとも、それをできる者が続きを担うだろう。
だが彼はそうしなかったのだ。人に忌まれ、人の似姿を斬ることに倦み疲れても、剣を捨てることはしなかった。
それは―――――それは、どうしてだったのか。
耳奥で鳴り響く鐘の音。
いつか見た花は記憶の底で枯れ落ちている。
戦えども戦えども終わりはなく、祈りも誇りも忘れてしまった。
雪花の丘と澄み渡って清冽な空。手の届くことのない茫漠。
描き出せるものは、取り戻せもしない色彩ばかりだ。
刹那の間、グレイシアスは己の歩いてきた道を回顧する。
彼は答えの掴めぬ問いに目を伏せて、だがすぐに老人へと視線を定めなおした。
今考えるべきことは、そのようなことではない。
彼が天使狩りを続ける理由や、人の存続の是非などどうでもいい。
どのような理由があれ、天使を見過ごすことはできない、と彼は話を戻す。
感情で語られるべき問題ではない。これははじめから現実的な問題だ。
天使狩りに意味があろうとなかろうと、彼らが周囲の人間たちを襲う脅威であることは変わりない。どうあれ、この街に生きる者たちの生存を投げ出してしまうわけにはいかないだろう。
諦観は拭えない。だが、人を殺して回る存在を野放しにして、緩やかにこの街を自死に誘う選択が、正しいはずもない。ただ純粋に人が死に続ける。その無益さが分からないほど、この老人が理性を失っているとは彼には思えない。
下層の天使はいずれまた人を襲うだろう。
避けられる犠牲なら避けなければいけない。それはまだ助けられる命だ。
彼自身、今は守りたい人間がいる。失うわけにはいかない。
そのように訴えて、グレイシアスは沈黙する老人に告げる。
あなたがどう思っていたかは分からない。
けれど自分はカナリアに会えて――――良かったと思っている、と。
赤い石室は息を潜めるように暗闇へと帰っていく。
目に見える現実が塗りつぶされ、それぞれの沈思が色濃くなる時間。
彼らを隔てる無言の空白は、長いようでもあり、束の間のようでもあった。
互いの感情が虚空に溶け合っていくような沈黙。
それは覚悟を決めるための時間であったのか、それとも諦めるための時間であったのか。
やがて老人は口を開くと、下層の天使について短く口にした。
彼が語ったのは、天使になった者の素性と、その居所の心当たりである。
そして例の天使が、一度はこの石室を訪れたと言う出来事についてだった。
故にこそ彼は、下層の天使の素性を知りえたらしい。
決して無感情ではいられないであろう話を教えてくれたことに青年は礼を言う。
天使の処遇は決まっている。
天使になる前の人間が報われることはない。
どこかで人知れず幸福になることも。
腰元の剣の重みを手で触れて、グレイシアスは唇を引き結ぶ。
立ち去ろうとする青年へと、最後に老人は嘆息して言った。
この町を出なさい、天使狩り。
君にその剣は重すぎる。
石室の出口の前で、その言葉に一瞬足を止めたグレイシアスは――――だが再び歩き出すと、何も答えることなく老人の棲家を後にした。
◇
夜に没した下層の路地を、グレイシアスは歩いていく。
老人から教えられた心当たりは四つ。
うち一つは、グレイシアスが日中に見つけていた納屋であった。残りの三つの天使がいるであろう居所を、彼は順に巡っていく。
すでに暗闇は足下を浸している。煤けた壁も蟠る水溜りも濃紺の影に染められ、寒々しさを漂わせる通りを、けれど明確な足取りで彼は進んでいった。
夜陰に紛れる眼差しは、他の誰からも感情を窺わせることはない。
細く短く吐く息だけが、物寂しい路地に置き去りにされていく。
今なら、あの老人が話したがらなかった訳が理解できていた。
中層で唐突に奪われた家庭。下層でこれ以上を望むまいと沈黙させた人生。
残されたものは緩やかな自棄と、そしてほんの僅かな安らぎで。
その最後の拠り所にさえ、きっと彼は裏切られたのだ。
ありふれた悲劇だと、グレイシアスは思う。
この街に生きている限り、誰かが、何処かでその悲しみを負っている。
だが疑念はやまない。なぜならそれは終わることがないからだ。
殺されて、殺して、また殺されて。
連綿と続く天使との殺し合いは、この街に根差して終わる兆しなどまるで見えない。はじめからそう宿命づけられているように。
であれば、老人の言うように、そう――――なぜ続ける必要があるのだろう。
いつか終わる悪夢であれば諦めもついた。
だが何を為しても何も変わらないのであれば、自分たちは何のために。
天使を探し、殺すために歩き続ける夜。
確たる手掛かりを得たという高揚も、これから戦いで死ぬかもしれないという緊張もない。天使を見つけなければという義務感と、見つからなければいいという無気力が混然となってグレイシアスの心を満たしていた。
いずれにしろこの夜は終わる。その終わりを思って今を進んでいく。
自分が何を以ってその時を迎えるのか、その感情も分からぬままに。
天使は狩らなければならない。たとえそれが何者であったとしても。
この戦いが終わらないものであったとしても、下層の天使を狩ればひとまずの安全は確保できる。カナリアもしばらくは無事でいられる。
なぜこのような仕事を続けているのか。
この街は続いていくべきなのか。
いっそ意味など忘れてしまえば、楽になれるという気もしていた。
難しいことを考える必要はない。天使は殺すべきものだ。
そう割り切って意志を持たぬ剣として振る舞えばいい。
グレイシアスはそこまで考えて一人、夜道を歩き続ける自分を省みる。
剣を手に、ただひたすら狩るべき相手を探し求めている。
そして自分は見つけ次第、目に入ったそれを殺すのだ。
他の何も考えることなく、もの思うことなくそれを為すのであれば――――やはり人に生きる価値はなくなるだろう。
もの言わぬ殺戮を行う天使と同じになること。
それは――――避けなければならないことだっただろうか。
譲れないだけの何かが、まだこの体のどこかに残っているのか、単純な答えも見出せぬままにグレイシアスは歩いていく。
最後の場所に彼がたどり着いた時、夜はすっかり更けていた。
町外れにある廃屋。普通の家屋よりは一回り大きいくらいだが、痛みがひどく人は住んでいないという。今は雨風に弱い植物を育てるために使われているらしい。下層において最も住宅地から離れた地区の一つにあり、他の場所から優先して回ったので来るまでにかなり時間がかかってしまった。
それまでに巡った小屋や物置と同じく、入り口は施錠されていない。簡素な木組に布を張っただけの戸は、静かに手前に引くとすんなりと彼を迎え入れた。屋内に生い茂る下草を踏んで、剣を抜いたグレイシアスは慎重に奥へと進んでいく。
ところどころ穴の開いた天井から僅かに差し込む月光。
ほの暗い小屋には背の高い木の棒が幾本も並べて刺されており、そこに薬草が絡みついて墓標のように影を引いて立ち尽くしている。
言葉が忘れ去られたかのような静寂。
その奥にグレイシアスは何者かの気配を感じ取る。彼は息を詰めて剣に手をかけると、薬草畑を抜けてその奥へと踏み込んでいった。
人影はすぐに見つかった。
大きく破れた天井。降り注ぐ月光の雨を浴びるように、小屋の最奥でその天使は座り込んでいた。力なく土に汚れて横たわる両翼。壁に背をもたれさせた、その傍らに投げ出されている外套を彼は見止める。カナリアと一緒にいた時に襲ってきた天使で間違いない。
天使はゆっくりと顔を上げると、彼を見た。
疲れ果てた女の顏。弱弱しい眼差しは、絶望と諦めで擦り切れていた。
わたしをころすの、と天使は言った。
青年は答える。天使であるのなら、そうするのが俺の役目だと。
わたしはちがう、と天使は震える声で言った。
ただ彼女を正気でなくさせる声が、頭のなかに響くのだと。
その声は何と言っているのか、青年は問いかける。
天使はがくがくと震えのやまない掌で顔を覆った。
この街の者を許さないと。
生贄にされた恨みを晴らせと、そう彼女に声は囁くのだという。
繰り返されたのであろう正気と狂気。
その怨嗟の声に抗っている間だけ、彼女は自分を保っていられるらしい。
青年は嘆く天使に、いま楽にすると小さく呟く。
ころしたくない、ころしていないと天使は首を振って訴える。
彼は剣を振り上げる。
◇
人の絶えた街路は夜の静寂に包まれている。
下層の天使を殺し終え、グレイシアスは路地を歩いていく。
目に見えぬ足枷を引き摺るかのような足取り。
強い虚無感が彼を満たしていた。
これで下層は安全になったはずだ。カナリアが危険な目にあうことも当面はあるまい。これで休日に路地裏をあてどなく歩き続ける必要もなくなった。
だというのに。
彼女を殺さない道がどこかにあっただろうか、という考えが頭をよぎる。
同時にそれはありえなかったということも。今までに討滅してきた全ての天使に言えることだ。人外は殺さなければ、この街の人命が奪われ続けることになる。
ならば一体どこで間違えてしまったというのだろう。
最初の天使が生まれた時か。そもこの街の成り立ちか。
乾いた月光に照らされて浮かび上がる道。
砂漠に似て果てなく思えるその夜を、彼は疲労感に苛まれながら進んでいく。
殺すことも、誰かが殺されることも、もう十分だ。
ただ体が重く感じる。逃避のように、いまは眠ってしまいたいと思う。
次にカナリアに会えたら、まだ少しでもこの塞いだ気持ちが晴れるだろうか。
上手く想像ができずに、彼は苦悶に似た吐息をついた。
殺すことで得た安寧も。殺さずにいられる平穏も。それがすぐ終わる泡沫でしかないとしたら、きっと意味のないことなのだと考えてしまったから。
報告のため詰所のある中層に向かって遠い道のりを歩いていたグレイシアスは、不意に後ろから強く肩を叩かれる。彼はゆっくりと振り返った。
そこにいたのは天使狩りの僚友だ。
月明かりのもと、ゴーシュは驚きと心配を顔に浮かべている。
何をしているのか、どうかしたのかと顔を顰めて問いかけられ、グレイシアスは首を振った。下層の天使を討滅したとぽつりと告げると、天使狩りの男は両目を丸くする。
グレイシアスは胸の内にあるものを吐き出すように淡々と伝えていった。
天使は薬師の女であったこと。
それが今までに例のない、人としての意識を持ったままの天使であったこと。
そして天使が助けを求めて、師であった老人の薬師を訪ねていたこと。
その師から、薬師として女が使っていた建物の心当たりを教えてもらったこと。
ゴーシュは夜の見回りで下層を巡回していたらしい。
ひとまず共に詰所へ向かいながらも、ゴーシュが苦々しく吐息をつく。
天使に殺されてたのが全員、薬師だったかもしれないって言ったな。つまりそれも、本当はそいつらを殺したかったんじゃなかったってことか。
そう漏らすゴーシュに、グレイシアスはああ、と頷く。
本当は、助けを求めていたんだろう。多分、知り合いの薬師を探して、どうにかならないかを聞きたかったんだと思う。
彼女に残されていた一縷の望み。だがそれは困難なことであったのだろう。
グレイシアスはカナリアとともに遭遇した時のことを思い返す。
羽を振るい襲い掛かってきたあの女は、その時点で半ば人としての自我を失いつつあったように見えた。あの女自身の師でもあったという老人のもとを訪れた時は、そのまま立ち去ったということだが、それは幸運なことであったと言える。あの老人はその場で殺されていても不思議はなかったのだ。
そこまで考えて、グレイシアスは路傍に醒めた目を送る。
幸運なこと。本当はどこが幸運だというのだろう。
中層で家族を失い、下層で人がましい暮らしを捨てて。
それでも薬師として教え子を育てていたのは、おそらくは彼がまだ、人との繋がりを失いたくないと思っていたからだ。
そのうちの一人が、また天使と化して自分の前に現れた。
助けを乞う女の姿を見て、あの老人が何を思ったのかは想像もできない。
血の色に染まったような石室。
床に跪く女の影と、それを寝台から見下ろす影。
自らがそうしたように対峙する二つの影を瞬間、グレイシアスは想起する。
人の記憶を残したままの天使、か。
だが、そういうこともあるのかもしれないな、とゴーシュは呟く。
グレイシアスは力なく頷きの声だけを返した。
天使が生まれ続ける理由は分かってはいない。
なぜ天使というものが存在するのか。なぜ理性を失って人を殺すのか。長らく続いて来たこの街の不文律。そこには不理解ばかりが募っている。
人知れず回り続ける秘された真相の歯車が、今回は何かのきっかけで狂ったということもありうるだろう。
言葉を話していたって言ってたな、その天使。
ああ……襲ってはこなかった。最後までな。
何を言ってた。俺たち人間への恨み言か。それとも命乞いでもしたのか。
男の問いかけはあっさりとして、ことさら興味があるようにも思われない。
グレイシアスは眼前の夜道に、先ほどの光景を重ね合わせて思い出す。
絶望と悲嘆、そして自らに押し付けられた不条理への拒絶を口にした女。
かぼそい傷だらけの声は、鮮明に耳奥で繰り返される。
それは慟哭というには静かな、祈りというには痛切な色に満ちた哀願だった。
聞き入れる者はいなかった。彼はそれを切り捨てることを選んだ。言葉を知らなければ知らずに済んだろう、深く狂おしい感情がないまぜになったその姿は、あまりにも彼が知る人間の姿そのままだった。
どこかでそれを、彼は見たことがあった気がする。
一歩一歩を踏みながら、茫漠と記憶をたどったグレイシアスは思い出す。それは天使によって身近な者を失った人間の、頽れて嘆く姿だった。
グレイシアスはかぶりを振ると、しんとした静寂に溶けこむ声音で答える。
――――気にしなくていいことだ。もう人ではなかったからな。
それもそうだな、と天使狩りの男は頷くと、それにしても、と話題を変えた。
なんでまた一人で探しになんていったんだ。
誰かと一緒に行けば良かったか。
当たり前だろ。返り討ちにあったらどうするつもりだったんだ。
……返り討ちにあったら、死んでるだろう。
そうだが、そういうことじゃなくてだな。
僚友である男は呆れ顔になる。グレイシアスは冗談だ、と呟いて口の端だけで笑ってみせた。言い合う二人から零れ落ちた戯れの気配は、すぐに道脇の暗がりに紛れて見えなくなる。
彼の言い分はもっともだ。
老人から得た手がかりが、確証のないものだったということもある。
それでも他の天使狩りに、分かっているところまででも伝えてから動くべきだったのではないか。自分はなぜ、たった一人で天使を殺しに行ったのだろう。
一刻も早くカナリアの無事を確保したかったからか。
急がねば天使が逃げてしまうかもしれないという危機感からか。
それとも――――いっそ死んでもいいと、思っていたからかもしれない。
ゴーシュ。あんたはどうして天使狩りをしているんだ。
下層の路地はうらぶれて、だが夜中の今はその猥雑さも気にならない。細く蛇行して見通しの悪い、ただ続いていることが分かるだけの暗い路地。
隣に問いかけると、天使狩りの男は少しの間、沈黙したようだった。
言葉を探すような、遠い昔日を思い返すかのような気配。
だがすぐに男は苦笑を漏らしたようだった。
――――さあな。忘れてしまったよ。
過去の傷も、かつて目指したものも置き去りにした述懐。僚友の顔を確かめる気にはならない。グレイシアスはそうか、と小さく返すにとどめる。
積み上げて来たものを言葉にできるほど、彼らはもはや正しくはないのだろう。
並べられる足音の狭間に、声のない夜が満ちていく。
この街で剣をとり戦う理由。人の価値。
それはもう、必要なものではないのかもしれない。
永遠に再生される嘆き。その渦の中で生き続ける。
その逃れようのなさを彼はとうに知っている。
なぜなら現実は変わらない。儘ならぬ理不尽を糊塗し、不条理を言い繕っても、そこにあるものをなくすことはできないからだ。
この無力感を覆す感情の欠片など、もう見つからない気がした。
宛てる先もない彼の行いが、せめてカナリアを守ることになればいい。
隣を行くゴーシュが軽く息をついてみせる。平坦な声が小さく響いた。
グレイシアス。
なんだ。
その天使、本当に殺したのか。
……ああ。確かに殺した。
そうか。なら、お前も殺さないとな。
次の一瞬を生き延びることができたのは、奇跡に近かっただろう。
理解より先に、咄嗟に体を飛び退かせたグレイシアスの体があった場所を、ぎりぎりのところで振り抜かれた刃がよぎっていく。
下層の路地は広くない。転がるような勢いでそばにあった路地の壁へと体を打ちつけながら、それでもグレイシアスは咄嗟に凶刃の届く範囲から逃れ出た。
壁を腕で突き飛ばし、地面を蹴りつけてなりふり構わず距離を取る。
激しく態勢を崩してよろめきながらも、彼は辛うじて後ろを振り返ると剣を抜いた。愕然と目を見開いて問いかける。
――――どういうことだ。
凶行の主。僚友であるはずの男は、剣を振り下ろした姿のまま静止していた。
青年の驚愕の視線の先で、天使狩りの男はゆっくりと体を起こすと、彼へと向き直る。狂気に走るでもなく、冷徹なわけでもない、ただ昏い瞳。冴え冴えとした月光のもと、男の顏はまるで見知らぬ生き物のように見えた。