07 wandering creature
下層の街並みは暗く、陰気な雰囲気が漂っている。
丘の麓の景観は、建物が所狭しと密集しているために影が落ちやすいということもある。だがそこに住まう者たちに困窮している者が多いということも要因だろう。立ち並ぶ民家や倉庫はくすんで黒ずみ、裏通りの脇には粗雑なごみと湿った空気がわだかまっている。粗野な格好をした住人たちに胡乱な目を向けられながら、帯剣したグレイシアスは下層の路地を歩いていく。
この数日、下層に隠れる天使を狩るために、彼は下層の捜索を続けている。
――――終わってしまった大市に、結局カナリアと行くことはできなかった。
仕方がないと微笑んで頷いた娘の表情は、今でもちくりと彼の胸を刺す。だが天使の捜索を優先しないわけにはいかなかった。どれだけ彼女を残念がらせることになっても、彼女の安全には代えられないのだから。
カナリアが外出する時に付き添うことは続けながら、それ以外の自由になる時間を下層の捜索に当てる。
例の天使の件に決着がつくまでは、そうしようと彼は決めていた。代わり映えのしない路地に人外の手がかりがないか、鋭い視線を走らせていく。
ただやはり下層は広く、しらみ潰しに探すのはやはり難しい。
細い道が多く、本当に隅々まで探そうとすると行き来を繰り返さなければならない。丘の斜面に形作られているためこの街には階段が多く、下水を通すために掘られた橋下の水路など、立体的な構造になっている箇所も珍しくない。
また特に日の当たらない区画の住人たちの中には、彼に女や薬を売りつけようとする者や、あまつさえ徒党を組んで彼を恐喝しようとする者までいた。下層では天使狩りが珍しいのだ。人外を見るような歪な目を向けられることは少ないが、それで厄介事がなくなるわけではない。
体力と気力を削られていく時間。ただでさえ困難な相手を探しているというのに、人間の相手までしなければいけないことに、彼の心は重くなる。
このような場所で見つけることができるだろうか、という果てのなさは探索を始めてからすぐにグレイシアスの思考の隅を占めることになった。まして大人数での街狩りでも見つけられず、居所を変えているかもしれない相手だ。昨日探した場所に今日はいて、今日探している場所には明日いるのかもしれない。
歩きながら強くなる徒労感を、彼は軽くかぶりをふって振り払う。
だとしても、捜索をやめるわけにはいかない。次に誰かが殺された時、それがカナリアでないという保証はないのだ。
街の外れの方にまで出た彼の目に、壊れかけた石造りの小屋が映る。
このあたりは下層のなかでも半ば放棄されているような荒れ具合で、人の気配も薄い。建物の前に並べられた小さな鉢植えには雑草が生え、植物は立ち枯れていた。どことなくカナリアの店の前の様相に似ている。彼は小屋を見上げた。屋根は崩れかけて、おそらくは穴が開いている。
戸にも鍵などはかかっていなさそうだ。
この管理の具合なら、覗いても構わないだろう。
グレイシアスは軋む木の扉を引き開け、そして目元を険しくする。
荒れ果てた小屋。そこは鍬や杭などの農工具や作物を保管するための場であったようだ。薄暗い屋内に、ところどころ空いた天井の穴から朧げな日光の筋が差し込んでいる。
道具類に混じって腐りかけた木床にいくつも零れ落ちているのは、木の枝の破片のような小さな欠片だった。近づいてグレイシアスはそれを一つ手に取る。天使の羽根だった。
ここに隠れていたのだろうか。
少なくとも天使がここにいたことは間違いがない。
だが残された痕跡は、昨日今日のものではなくそれなりに古いものに見える。地面に散らばる欠片は色褪せ、灰色に変色していた。
戻ってくる可能性もあるだろうが、今はここにはいない、と結論づけるとグレイシアスは立ち上がった。小さく息をついて小屋の外に出る。
静けさに包まれた路地に戻ると、彼はゆっくりと息を吐く。
痕跡は見つかった。やはり、どこかに天使は存在しているのだ。放棄されているような、似たような建物を探せば見つけることが出来るだろうか。
だが、果たしてこの下層の広さの中で、本当に天使の居所を見つけることができるのか――――その自信は、実際のところグレイシアスにはなかった。数日も下層を歩き通して、ようやく見つけた手がかり。だが成果があったと喜ぶよりは、むしろ捜索の先の見えなさを改めて見せつけられた気分だ。
小屋の場所を覚え、つとめて感情を波立てないようにして、彼はまた歩き出す。
周囲から死角となるような物陰がないか。
隠れて過ごせそうなあばら屋などがないか。
路地裏の突き当たりや建物の隙間、水路を通している洞道などに注意をしながら探索を続けていく。そうしてまたいくつかの区画を横切っていったグレイシアスは、ふとあることに気付くと足を止めた。
ここは一人目の被害者が見つかったあたりだ。
天使によって殺された人間たち、その最初の一人。詰所の掲示板で示されていた地区へと彼は差し掛かっていた。
であれば、この付近にも天使の痕跡は残されているのだろうか。
グレイシアスは歩きながら、周囲の様子に目を走らせる。今まで見てきた他の区画と特に違いがあるわけでもない、くすんで薄汚れた路地。その行く手の民家の軒先に座り込んでいる男を見つけると、彼は声をかけて聞き込みをしてみる。
男は天使に関するものは見ていないようだった。
異形の者も、羽根の欠片のようなものが落ちているところも見ていないという。
やはりそう上手くはいかないらしい。落胆を無表情に隠して礼を言う天使狩りの青年を、男は皮肉げな目で見上げた。
あんた、こんな場所でよく天使探しなんかやってられるな。
投げかけられた声には、呆れの色が濃い。グレイシアスはどういう意味だと、怒るでもなく問い返した。男は、そのままの意味だ、ここで天使を探してても、金が貰えるわけじゃないだろうに、と胡乱な目を向けてくる。
下層の貧乏人がいくら死のうと、上の人間は気になどしない。鐘が鳴った時だけやってきて、そこに天使がいれば殺すくらいで十分だと考えているはずだ。そのようなことを話す男に、グレイシアスは内心で同意する。
実際のところその通りだ。下層の天使の捜索は、普段からそれほど強調されて命じられることはない。それは今回も同じだった。街狩りが行われたのは二度だけで、隊商が去って以降は忘れられてしまったかのように何も動きがない。天使を狩るうえで、重視されているのは主に中層や上層の安全なのだ。
それもあって多くの天使狩りはあまり下層に関わらないし、人死にに繋がると分かっていても血眼になってまで天使を狩り出そうとはしない。今回の件は意志を持つかもしれない天使ということでまだ例外なのだが、それでも寝る間を惜しんで捜索などをしているのは彼ぐらいのものだろう。
下層に死なせたくない人間がいる、と。
そう飾ることもなく話すと、男は小さく笑ったようだった。
やめておけ。下層の人間なんて、みんな碌でもない奴ばかりだ。
この辺で天使に殺された奴だって、良い噂は聞かなかった。危ない薬を売ってるって奴だったからな。
グレイシアスは眉を上げる。殺された人間は薬師だったのか、と聞くと、そんなに立派なもんじゃない、崩れだけどな、とある意味での肯定が返ってくる。売っている薬の危うさから、生前には天使狩りに取り調べも受けていたほど半端ではあったというが、それでも薬師といえばそうだったらしい。男に礼を言って別れると、彼は捜索を再開しながら考えを巡らせる。
――――やはり、そうなのか。
この下層にいる天使は薬師を狙っているのかもしれない。
先日犠牲になった女、それにカナリアが狙われたということ。夕闇に混じって辛うじて聞き取れた呟きを、彼は思い出す。
薬師、という単語を、あの天使は口にしたようだったのだ。
天使によって殺された人間たち。その被害者の素性はあまり知られていない。それは無差別に人を襲う天使の被害において、重要なことではないからだ。だがことによると、今回の被害者はその全員が薬師であったのではないだろうか。
そうだとすると疑問は強まる一方だ。
何のために薬師を狙っているのか。そも、本当にそのような判断で人を殺しているのか。人間めいた意志など、天使は持たないはずであるのに。
進んでいく路地は薄暗く、探すべき場所はいくらでも存在するようだ。
見通せない状況そのものの迷路に入り込んだかのような錯覚。おそらくは自分自身を追い込んでいるだけの頭痛を覚えると、彼は人知れず顔を顰める。
探している天使は、今まで彼が相対してきたものとは違う何かなのか。
元より天使について、彼はほとんどのことを知らない。
それは古くからこの街の下に埋められ続けてきた暗黙の謎だ。
なぜ彼らが突如として、人を襲うようになるのか。
なぜ先ほどまで語らっていたはずの者が、人語を解さなくなるのか。
だが理解の及ばぬ相手であろうとも、足を止めるわけにはいかないだろう。
天使であるのなら狩らなければならない。
たとえ、人の意志を持とうとも――――。
それだけはどうしても動くことのない真実だ。
どこまで続いていくのかも分からない道行き。
捜索に転機が訪れたのは、さらにもうしばらくしてからのことだった。
次第に空を移ろっていく陽。降り注ぐ光を薄く間延びさせていく午後の陽に明かされた視界を、見覚えのある娘が過ぎる。
寂れて人気のない路地裏。一つ離れた辻の先を横切っていったのは、いつか彼がカナリアと話していた時に割り込んできた娘だった。カナリアからエマと呼ばれていた彼女は、一人で何処かへと向かっているようだ。
グレイシアスは僅かに躊躇ったが、後を追って話しかけることに決める。足を早めて彼女を追った。
後ろから呼びかけると、振り向いた彼女ははじめ驚いた顔になった。
それがいつか友人と話していた天使狩りの青年だと分かると、その表情は顰められる。険の強さを感じさせる顔立ちが、さらに尖って彼を睨めつける。
何の用か、と突き放すように問いかける娘。彼女が向けてくる目は半ば敵を見るものに近い。このような路地裏で、親しくもない男から声をかけられたとあればそうもなるだろう。ましてや彼女が嫌っているであろう天使狩りだ。
やりにくさを感じながら、何から話すべきかと彼は僅かに思案する。
ひとまず彼は、この下層で天使を探しているという話をした。
この下層に天使が隠れているという話は彼女の耳にも入っていたらしい。だが知るところはないようで、何も知らないし、見てもいないと言い捨てるように答えてくる。少しでも彼と一緒にはいたくないのだろう。娘は髪を翻すとそのまま足早に立ち去ろうとする。
取りつく島もない、とはこのことだ。これではまともに話もできない。
仕方なく彼は声を上げる。
――――薬師が狙われている。
本来なら天使とは無関係のはずのその言葉は、ひとまず娘の足を止めさせることには成功した。嫌そうに、けれど怪訝そうに振り向く娘。どういう意味かと問いかけてくる彼女へと、彼は今分かっていることを説明する。
天使が意志を持っているかもしれないこと。
その被害者が、全員薬師であるかもしれないこと。
彼の話を、娘は黙って聞いていた。
聞きたくもない相手からの、聞かざるを得ない話。その不条理さに対する怒りに近しい感情が、無表情になりきらない横顔に滲む。
あり得るの、そんなこと。
天使っていうのは、何かを考えたりしない化け物なんでしょう?
もっともな疑問。目を合わせることもなくぼそりと呟かれるそれに、グレイシアスは分からない、だが下層の天使の動きが奇妙なことは事実だ、と返した。
それからグレイシアスは、行き先が遠いのなら送ろう、と口にする。
はじめから、彼女にはそれが言いたかったのだ。
薬草師が狙われているというのなら、同業だという彼女もまた狙われる可能性があるだろう。まだ陽は出ているが、だから天使が出ないとも限らない。襲われるかもしれない彼女を、黙って見送ることは彼にはできなかった。
娘の顔があからさまに顰められる。
予想されたことではあったが、彼女は当然のように嫌がった。そんなことをされる筋合いはない、どこに行こうと自分の勝手だ、と突き放してくる。
だが、カナリアを悲しませたくない、と言うと娘は虚を突かれたようだった。言葉を詰まらせてゆっくりと黙り込む。
彼とて、誰にでもこのような申し出をするわけではない。
この街の薬師全員を守ることなど、そも不可能だ。
それでも、嫌われていると分かっていてでも彼女に同行しようと思ったのは、そうしなければカナリアに顔向けができないと思ったからだ。
たとえこれで彼女が襲われて死んだとしても、カナリアが彼を責めるようなことはないだろう。だが店にやってきた者と話すのが好きで、他人との繋がりを求めているようなカナリアなのだ。友人の死を悲しむであろうことは間違いないし、そうなった時になぜ同行しなかったのかと思い悩むのは彼自身である。
反論の気を削がれて、娘の唇が引き結ばれる。
万が一それが起こった時に、自身の選択が友人を悲しませるかもしれない。それは隔たれた彼女と彼が抱えることの出来る、唯一同じ感情なのかもしれなかった。
行き先がすぐ近くならば別に構わない。だがもう少し歩くのなら。
後悔したくない、と彼は言外に訴える。
正しさと感情を天秤にかける沈黙。硬い表情の娘の横顔は、彼への拒絶とそうできない理由とで塗り分けられている。ややあって彼女は視線を路地の脇に向けたまま、お願いするわ、と小さく言った。行き先を告げるでもなく踵を返すとそのまま歩き出す。グレイシアスは微かに安堵の息を吐き出すと、その後を追った。
護衛をするからと言って、彼らの距離が縮まるわけでもない。
薬師の娘と天使狩りの青年は、つかず離れずで下層の街を歩いていく。
隣に並べば嫌がられそうであったし、弾むような会話もない。かといって離れすぎてはそれこそ怪しい尾行のようだ。結果的に彼は貴人の従僕のように、淡々と歩みを進めるエマの二、三歩後ろに付き従っていた。
あるいはこれがゴーシュであれば、うまく警戒心を解いて会話に持ち込んだりなどするのかもしれない。想像してみると、強引にでも隣に並んで話しかける様子がありありと浮かぶ。ただ僚友の持つ器用さというものを欠片ほども持たない自覚のあるグレイシアスは、今の自分が求められている役割は護衛でしかないと割り切ると、黙って娘についていくことに集中した。
微妙な距離を保ったまま彼らは歩いていく。
あるいはその同行の奇妙さに耐えかねたのは、娘の方だったのか。ねえ、と振り返って呼びかけてくる。
あんた、あの子となんで知り合ったの?
もたらされた話題が、共通の知人であるカナリアについてであったのは自然なことだろう。向けられた目からは、今まで感じられていた敵意がやや減じられている気がした。会話をしようという意志がそうさせたのかもしれない。気まずさを晴らすという以上に、それは彼女が聞きたかったことでもあるのだろう。
彼は祝祭をきっかけにカナリアと出会ったことを話す。
迷子の子供を助けたこと。
そこから薬を求めて彼女に店に通うようになったこと。
店に暴漢が立ち入り、そういう場面に出くわしたことから彼女を気にかけるようになったことも。
それまでよりも僅かだけ近づいた距離。互いに不足なく話すことのできる位置どりで、少しだけ先を行くエマは、前を向いたまま彼の話を聞いていた。
それを聴き終えると、短く口を開く。
なら、なんであの子がいいと思ったわけ。
視線は振り向けられない。見えない横顔の向こうから問いはもたらされる。
いいと思った、という表現の直截さはグレイシアスに若干の反論のしたさを呼び起こさせる。だが一瞬胸の中に込み上げたその微妙な反感を、彼は口に出すことはしなかった。彼がどう言おうと、彼女からはそう見えたのだろう。そのことについて議論をする隙間は、いま彼女との間には存在しないように思われた。
それに――――実際のところそれは、そう間違ってもいないのだ。
グレイシアスは口には出せない思いを飲み下すと、僅かだけ目を閉じる。
なぜカナリアのために、と思えるのか。
脳裏に浮かび上がってくるものは穏やかな時間の欠片だ。彼女のくれた目線、生き生きと彩られた表情、自然で飾らない言葉――――彼の名を呼ぶ声。
今から思えば、彼女はどこか初めから特別であったような気もする。
天使狩りだからと偏見を向けてこなかったから。
持てる優しさを分け与えてくれるから。
繊細に見えて、誰にも踏まれぬ強さを秘めた人間に見えるから。
だから彼は、今ここにいるのだろうか。
思い浮かぶ理由はどれもそうで、どれも違う気がする。
カナリアへ向ける思いは、注視しようとしてもうまく行かない。絡まり合った糸くずのように、一本一本を抜き出してもその全体を言い表せる気がしない。
それでも彼が彼女と接する中で、一番胸を突かれるのは。
白い花弁の舞う丘。娘の笑顔が脳裏をよぎる。
――――思いもしなかった、欲しかった言葉をくれるから、だろうな。
結局そんなことを、彼は口にした。
カナリアの言葉は、いつも自然だ。
それでいて温かく、彼の心に染み入るように響く。
同情からくる施しではない。
無理解による慈しみでもない。
彼自身でも気づいていなかった、言われて初めてそうであったと分かる本心に、彼女はただそうあるものとして触れてくれるのだ。
そうして胸の内側に刻まれた傷を、そこに滲んだ血の痕を、そっと拭ってくれる。それは紛れもなく彼にとっての救いだった。
あの子は誰にでもそうよ。惚れっぽいんじゃない?
エマの返答はあっさりとしたものだ。こちらの理由など取るに足らないものだと言わんばかりに言い捨ててくる。
自身の感情など、他人にとってはその程度のものだと達観している青年は、怒ることはしなかった。かもしれない、と短く頷くにとどめる。
だが彼女のそういうところは必要で、守られるべきだと思う。そう続けるとエマは鼻で笑ったようだった。カナリアが危なっかしいから、自分が守らなければいけないという意味か。そう皮肉げに聞いてくる彼女に、彼は黙って首を振る。
適した言葉を探し出すための僅かな間。
エマから返される言葉はどこかしら刺々しい。
だがそれに取り合って、勢いに任せて会話をしたくはなかった。
間違った言葉を使ってしまえば、自身の中にある思いまで歪む気がして。
青年はややあってから、静かに口を開く。
怒りも憎しみも込められていない。
それは古びても己が役目を忘れぬ鋼の剣に似た、ただ真摯な声だった。
――――少し、違う。カナリアの方が正しいから、守りたいと思ったんだ。
彼女が弱いから守らなければと思ったわけではない。
それはむしろ彼女の美徳で、だからこそ守りたいと思った。
自身の傷よりも他者の心を当然のものとして気遣っていた彼女。
人はだれしも生きながら血を流している。
そのうえでなお他者に手を差し伸べることのできる精神。
憐れみからくる施しではない。
義務感による慈しみでもない。
そのままでいてほしいと思ったのだ。どこか危うげで手折られてしまいそうな、それでも世界を信じているような、そんな彼女の在り様が美しいと思えたから。
独白に似た青年の答えに、エマはしばらくの間、黙っていた。
うらぶれた路地に二人の足音が乾いて響いていく。
同じ言葉を用いても、伝えられる思いばかりではない。
それでも胸のうちにある真実を告げようとすることは、無意味だろうか。
風に吹き流される糸のように、繋がるもののない空虚。それが埋められたのは通りの角を三つほど曲がった頃だった。
あの子は能天気すぎるのよ、と出し抜けにエマは口にする。
彼に聞かせるでもない、自身に言い聞かせているかのような言い方だった。
自分のことだけ考えろ、って言ってるのに聞かないんだから。
誰かに優しくしたって、ここじゃそんなもの何の役にも立たない。
今まで何度も危ない目に遭ったり、騙されそうになって――――いえ、騙されても良いと思ってるんでしょうね。
だから周りの人間が苦労することになるのよ。
泥に汚れた花を摘むような声だと、グレイシアスは思う。
込められているのは怒りのようでもあり、呆れのようでもあり、ただそれだけでは決してなかった。見放すことが賢しいと分かりながらも、手放すことが出来ないでいる愚かしさ。彼はその感情のさざ波に触れることはせず、見通せない娘の横顔に目をやる。
エマは小さな声でカナリアとのことを話し始める。
薬師として仕事をしているうちにカナリアの師に出会い、彼からも学ぶようになったこと。彼女とエマが出会った時にはすでに、お互いそれなりに長じていたこと。不愛想な師に対し、それをほぐすようにカナリアの性格は反対であったこと。世話焼きな彼女がこれまでに巻き込まれたいくつかの問題ごとと、それでも変わらず笑っていること。
エマの話は彼の知らない話がありこそすれ、意外なものではなかった。
カナリアが彼と出会う前からあのような性格だったのは想像に難くない。下層では無防備さとなるその優しさ故に、当然危うい出来事もあっただろう。彼女は彼と出会う前からずっと、彼女のままなのだ。
ただふと頭をよぎったのは、きっとエマのような人間がいることが、カナリアがカナリアでいられる理由の一つであるのだろうということだった。
初対面でも近しい者のように接したり、街から離れた丘の薬草畑に出向いたりと、カナリアの行動には不用心さが目立つと常々思っていた。それでよくこの下層で無事に過ごしてこれたものだと。
だがそれはきっと偶然ではない。おそらくはエマのように、そして自分のように、彼女と接した者が少なからずカナリアを気にかけているのだ。
それらの目があるから、下層の者たちの間である程度は彼女に手を出しにくい力が働いているのではないか。
訥々と続くエマの話を、グレイシアスは短い相槌をうつに留めて聞く。
路地に撒かれて消えていく思い出話。彼女のそれは返事を求めている風でもない。共感も理解も必要とされない、ただの伝えておきたいこと。拾い上げられるものは形にならない期待未満の欠片だけだ。
広めの通りをいくつか跨ぎ、風雨に色褪せた路地を進んでいく。そのうち彼らは家屋の寄り集まる細い裏道へと入り込んだ。そこに住まう者たちしか寄り付かない裏道。ある程度進んだところで、エマはここでいいと言う。足を止め、師の様子を見に行っていたせいで遠出になってしまったと零す。
彼女の家が近くにあるのだろうか。いずれにしろ目的地はこの近くらしい。
グレイシアスは軽い頷きを返すと、それ以上は拘泥せず踵を返す。
この近くのどこが行き先なのかは分からないが、戸の前まで付いてこられるのも嫌だろう。一度同行を承諾した以上は、変な遠慮や嘘をつくこともないと思えた。護衛は本当にここまでで十分なのだ。
――――最近、あの子は変わったわ。
立ち去りかける彼の背中へと声が飛んだ。
振り返ると、エマは顰め面でよそを向いている。曲げられた口元からは、彼女が口内で味わっているだろう苦々しさというものが漏れ出しているようだった。
どんな髪型が流行か聞いてきたり、慣れない縫物をしてみたり。今まで薬草の手入れだけしていれば満足だったはずなのに。誰か知らないが、気になる人でもできたのだろう、と嫌そうながらも零す娘に、青年は思わず無言で瞬きをする。
何と言っていいか分からず娘を見やる彼へと、試すような一瞥が向けられる。
天使狩りの仕事、ちゃんとしなさいよね。
それだけ言うと、娘はその場から立ち去って行った。
世慣れた風貌の薬師の姿は、路地の角を曲がって見えなくなる。