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楽園  作者: 八塚
4/12

04 sugar dark


 明かりを落とした室内には、彼の息遣いだけが反響している。

 幸い月明かりで、手元は薄暗がりのなか見てとることができた。

 寝台に腰掛けているグレイシアスは、胸に大きく刻まれた傷跡に軟膏を塗ってしまうと、包帯を体へと巻き付けていく。カナリアから受け取ったそれは、微かに甘い香りがした。怪我の手当てをしてしまうと、彼は痛みを訴える体をゆっくりと寝台へ横たえる。

 天使の討滅において手傷を負うことは珍しくない。

 だが今回は、少しばかり判断を誤ってしまったのは確かだ。

 彼は瞼を閉ざして、天井に向けて大きく息をつく。住民だけでなく、天使狩りからも死者が出た戦い。今日出会った天使は中層の街中で人々を襲っていた。グレイシアスは先行していた仲間が天使の爪に倒れ、死体となって頽れるのを目の当たりにして、足止めをしなければと飛び込んだところで自らも斬られてしまったのだ。ゴーシュからは馬鹿かと苦い顔で小突かれた。

 詰所で一通りの処置は受けていたものの、夜中に痛みで目が覚めてしまい、カナリアからの品で処置をし直したところだ。


 身を横たえる青年は無言で夜の静寂に耳を澄ませる。

 体が軋んで重い。胸元が針で寝台に留められているかのようにずきりと響く。

 刻まれた傷は時間でしか癒せない。

 ただ体を休ませることだけを彼は考える。

 泥の中に落ち込んでいくような倦怠感。次第に意識は重く沈んでいく。

 暗闇のなか、微かに甘い香りが鼻をくすぐる。

 その感覚だけが、彼の精神を今へと繋ぎとめる縁である気がした。


 ――――痛苦と微かな安堵。

 散り散りになっていく意識の欠片。

 無数の記憶の泡沫が浮かんでは消えていく。

 それは閃光のような明滅と暗転だ。

 今までに見てきた無数のこの街の光景。悲鳴。僚友たちの顏。翻る銀の刃。彼を優しく呼ぶ声。広がっていく血色。大きく広がる歪な羽根。

 そして取り戻すことのできぬ断片。


 なにか物音が聞こえた気がして、彼は目を覚ます。

 時刻はかなりの夜更けであるはずだった。眠たげな意識をひきずって、寝台に横たわっていた彼はむくりと体を起こして室内を見回す。広い部屋にもう一つ置かれている大きな寝台は空のままとなっていた。

 どうしているのかと思い、彼は寝台を抜け出す。開ききらない瞼をこすりながら、明かりの漏れている居間への扉を開けた。

 暗闇から一転して、蝋に灯された暖色へと染まる視界。

 はじめそこにあるのは、なにか奇怪な造物のように見えた。

 たしか昆虫の標本、というものだったはずだ。

 いつか見た、難しい本に載っていた図示にそれは似ていた。退屈を訴えていた彼へと、父親が持ってきて見せてくれた本だ。

 壁に留められているのはその父親だった。

 失われた顔色。うつむいて、口元から血を垂れ流して、胸元にそれが夥しい染みを作っている。ぐったりとした体を五、六本の白く輝く枝が貫き、それが事切れた男を居間の木壁へと縫い留めている。

 枝の根元には女がいた。輝く枝のような爪を背中から生やした女だ。

 凄惨な光景。揺らめく蝋の炎と、異様な影。動くもののない沈黙。

 彼の母親であったはずのそれは、ゆっくりとこちらを振り向く。


 グレイシアスはゆっくりと瞼を上げる。

 高鳴っている動悸。すでに陽の光が差し込みはじめていた。寝台の上で、彼は目にしたものが今の現実ではないことをおぼろげな意識のなかで確かめていく。傷を負った体。昨日の天使との戦い。一つしか寝台のない部屋。

 二度、三度と静かに息をすると、早鐘をうっていた鼓動は落ち着いていった。

 嘆息が口から漏れていく。眩暈を堪えるように琥珀の瞳が瞬きをする。

 グレイシアスはまだ痛む体を起こすと、寝床から抜け出す。


 怪我をしたこともあり、その日は非番となっていた。

 体は万全とは言いがたいがまったく動けないほどでもない。グレイシアスは買出しなど必要な雑事を午前中に済ませてしまうと、午後はカナリアのもとへ向かうことにした。街のあちこちにある階段を下り、下層への道を辿る。

 途中で目にする店の品ぞろえや、草木の色が移ろう季節につられて変わっていることに気付く。カナリアと知り合って以降、自然と外に出ることも増え、仕事ではない部分で街の様子を気にするようになっていた。

 意味があるかは分からない、だが受け入れても良いと思える変化。

 グレイシアスは次第に寂れた様相になっていく路地を、平静な瞳で歩いていく。


 カナリアの店の戸を引くと、折よくそこには彼女がいた。

 仕入れや病人の様子を見るため店を空けていることもあるため、カナリアと会えるかはその日の運にもよる。扉の鈴の音に顔を上げた彼女は、彼の顔を見ると軽く目を瞠る。それからほっとしたように肩の力を抜いて微笑んだ。

 薬を貰い受けたい、と話すのはいつも通りのことだ。

 使い切った小さな木瓶と、軟膏の入ったそれを交換する。布袋に包まれた包帯といくらかの貨幣も。必要なやりとりをかわす傍らでカナリアが、心配した、と小さく呟いた。昨日、天使狩りが亡くなったって聞いたから、と。

 耳が早い。天使の話題は、昨日の今日で下層の住人達にまで伝わるほど口の端に上りやすいのか、それともカナリアが天使狩りの話題を気にしてくれているのか。どちらにせよグレイシアスは頷く。大丈夫だ、もう長く続けているからそう簡単には死なない、と僅かに口元を緩めてみせる。

 カナリアは顔を晴れやかにこそしなかったが、小さく頷きを返してくれる。


 グレイシアスは陰気さを避けるように話題を転じる。

 最近の下層の様子や、伝え聞いた気になる噂話、次にあの丘に行く予定について。カウンター越しにカナリアとたわいもない話をする彼は、短い時間ながらも互いの無事を確かめあう会話に満足すると帰ることにする。

 だが別れを告げようとしたその時、カナリアが彼の顏を覗き込む。

 少し離れた背丈のせいで、視線は下から見上げるようだ。

 揺れる銀の髪。純粋な目で身を近づけてくる娘にグレイシアスは思わず軽く身を引く。一方で眉を曇らせた彼女は、カウンターを回ると青年の傍へと立った。

 怪我、してるでしょう、と彼の胸に小さな手を当てる。


 来るのは怪我が治ってからで良いのに、とカナリアは目を伏せる。

 気にする必要はない、とグレイシアスは首を振った。

 このくらいの怪我ならすぐに治る。それに傷を負っていても、多少は動けないといけない。不調でも体を動かしておくのは、訓練のようなものだ、と。

 カナリアは彼の胸に手を当てたまま、小さな唇を結ぶ。

 今日会えたことの嬉しさと、どこか不安を湛えた瞳が彼を見上げた。


 切なげに細められる娘の双眸は、何故、と問うてくるようだ。

 青年はそれに応えない。痛みも心配も、安堵でさえも、本当は知られずにそうあればいいと思っただけの話だ。傷つけたくないのだから、はじめからその機会を生みたくもない。回りくどくとも、彼女が自然に笑ってくれていればそれでいい。


 それに実際、そこまで無理をしているわけでもないのだ。

 怪我を押して自らの姿を見せにきた天使狩りは、微かに苦笑する。よく怪我をしていることが分かったな、と首を傾ける。

 青年の疑問に娘は、歩き方や話し方でなんとなく、とうつむいて小さく答える。

 なかなか特殊な才能のような気がする。だが例えば家族や、親しい人間ならばそうでもないのだろうか。それにあたるものを早くに失った彼には分からない。

 それは君が薬師だからか、とグレイシアスは何気なく問うた。

 けが人を相手にする職業柄、相手の不調に気が付きやすいのか。それとも。

 顏を伏せていたカナリアは息を吸って、それから彼と目を合わせる。そんなの、と小さな唇が僅かに震えて、そこで何かに気付いたように言葉は途切れた。


 混じり合う視線。空色の瞳の向こうに、いくつかの透明で複雑な感情がよぎる。

 澄んで晴れ渡る空を行く薄雲のような、青い空を舞う花びらのような。

 色硝子のように移ろうそれを彼は、綺麗だ、と思った。

 青年の胸に当てられていた手のひらが離れていく。いつしか白い耳が赤く染まっていた。彼を見つめるカナリアは静かで、熱の滲んだ声で言う。グレイシアス。わたし、あなたのことをよく見てるから。だからね。


 少しは私のことも考えてね、とそう言って、娘は唇をきゅっと結ぶ。

 後ろ手に指を組んだ彼女の様子に、グレイシアスは目元を緩める。

 言われるまでもないことだ。だがそれが、彼女を満たせるほどの感情であるのか、この娘に値するだけのものであるのか、彼にはまだよく分からなかった。

 最近、軟膏や包帯の香りが変わったことになら気づいたんだがな、と。

 口をついたのはそんな愚にもつかない返答だ。カナリアは少し残念そうな目をしたが、ついで柔らかく微笑む。


 彼女からの品が漂わせる甘い香り。かすかな花の香りは、あえて香りづけをしたものなのだという。彼が少しでも心休まるようにと考えてくれたらしい。

 彼女らしい気遣いにグレイシアスは胸が温まるのを感じる。

 ふとあることに気づいて、彼はそっとカナリアの肩に手をかけた。娘の瞳をじっと見つめる。え、と小さく声を洩らして固まる彼女へと青年は顔を寄せた。


 互いが最も近しくなる一瞬。

 グレイシアスはカナリアの髪に僅かだけ顔を寄せると、小さく納得する。

 彼女から貰い受けた軟膏や包帯。その優しい香りがどこか覚えがあるもののような気がしたのだ。確かめてみると、どうやら間違いはないらしい。おそらく香り付けに使っているのは、カナリアが普段使っている香水と同じ類のものなのだろう。


 身を離してみると、なぜかカナリアはぎゅっと目を閉ざしている。

 こわばった体は、なにか未知のものがこれからやってくるとでも言わんばかりだった。その様子を不思議に思いながら、グレイシアスは、同じだなと口にする。

 そろそろと目を開けたカナリアは、意味が分からなそうに瞬きをする。

 どこかで覚えがあると思った、包帯の香りの話をすると彼女は呆然とした顔つきになった。それからものすごい勢いで顔を真っ赤にしていく娘に、青年は怪訝な目を向ける。


 ――――彼女が見せる感情は時に温かく、時に鮮やかだ。

 その生き生きとした移ろいは彼が追いつけないほど。

 その素直さを危なっかしいと思う一方で、常に彼の一歩先を歩いて、手を引いてくるような。そんな気持ちにさせられる相手だった。

 くすんで灰がかっていた視界のなかで、いつしか彼女の触れたものが、視線の先にあるものが、語っていたものが色づいて見えるようになっている気さえする。

 彼女が気にかけていた品の並び。好きだと話していた明け方の空の清々しさ。彼女なら喜ぶであろう街角の小さな緑。知り合ってからの時間が長くなるほどに、彼の意識には彼女の気配が混ざり込んでいく。

 彼の心を占めるものが、少しずつ彼自身のことだけではなくなっていく。


 ふと考えたことがある。

 一人きりの夜、暗い部屋の中で彼女の香りがふいに鼻先を掠めた時。いま自分がそうであるように、カナリアのなかにも彼は存在しているのだろうか、と。

 それを彼は願わない。

 彼女が自分を思ってくれるという嬉しさよりも、切実な強さで。

 混ざり合って曇らせたくなどなかった。彼女の生きる時間に血臭などを持ち込みたくはない。天使狩りである彼が与えられるものなど濁ったものばかりだ。

 花は花としてあればいい。

 それでも共にいたいと思ってしまう。


 日々は緩める息の早さで流れ去っていく。

 カナリアの店に立ち寄り、ささやかな会話を交わす日。その穏やかさ。

 剣を振り抜いて天使の血を浴びた刹那。その生温かさ。

 訓練で怪我をし、カナリアの店で手当てを受ける時間。彼の腕を労る指。

 鐘が鳴る。剣を構え、突き立てて深紅の飛沫を散らす。

 約束を交わす。純白に澄んだ花々の丘に登る。

 街を歩く。下層にある彼女の店へと街角の階段を下っていく。

 鐘が鳴る。突き出される枝の羽根。振りかざす刃が銀光を弾く。

 彼女と会う。笑顔を見れることが嬉しいと思う。

 そうしてまた、あの丘に登る。


 グレイシアスはゆっくりと瞼を持ち上げる。

 おだやかな風。さらさらとさざめく葉擦れの音。

 目を覚ますことが、苦痛なだけでなくなったのはいつからだっただろう。

 今がいつなのか分からない心地で、彼はぼんやりと空を見上げる。


 彼女と二人でやってきた丘の上。

 いつも通り丘の上でカナリアが作ってくれた昼食を取ったあと、ゆっくりと話をしているうちに寝入ってしまったらしい。隣にいる彼女の声が心地よくて、寝転がったところまでは覚えがある。

 頭の下にはいつのまにか柔らかな感触があった。

 起きたの、と緩やかに目元を細めてカナリアが微笑む。

 空から見下ろしてくるような彼女へと、膝枕されている青年は思わず穏やかな笑みを返した。照れくさくもあり、それでも今は彼女の好意に甘えたかった。

 すまない、と呟くと、いいよ、と銀の髪を揺らして娘は首を振る。


 一つの影となった彼らを、静かな風が浚っていく。

 穏やかな停滞。伝わる温もりと頬に当たる風。そっと髪を撫でていく指。

 あまりに心地が良くて、彼は再び目を閉じた。

 暗闇の中でおぼろげな思考が浮かぶ。

 いま彼が感じていると同じだけの温かな気持ちを、カナリアは感じているのだろうか。そうであってほしいという気持ち。そうであってはいけないのではという気持ち。どちらもが彼の中には存在していた。

 共にいたいと願うこと。変わって欲しくないと願うこと。

 触れ合えば触れ合うだけ、人は互いの精神を変じさせていくのだろう。

 そして互いを求めるようになる。それぞれのなかにある欠片が呼び合うように。

 彼と関わることが、本当にカナリアにとって良いことなのか。

 その点については、グレイシアスはいつも暗黙の答えを抱えていた。彼女とは関わらない方が、きっとカナリアは幸せになれる。

 そう分かっていながら、どうして自分はこうしているのだろう。

 ただ堕落しているだけなのか。それとも大切な意味があるのだったか。

 ただ一つ確実なのは、もう彼にとって彼女は他にない存在だということだった。


 深く息をついてからグレイシアスは、すまない、と繰り返した。

 もう少しだけ、眠っていたい。

 たとえ束の間のことだとしても、この温かさを感じていたかった。

 もう少しだけね、風が冷たくなるから、と子をあやすように彼女ははにかむ。

 彼の意識はすみやかに閉ざされていく。


 青年が穏やかに眠っていることを確かめて、娘は密やかに囁く。

 髪をかき上げた手がこめかみを抑えて、カナリアは小さく微笑んだ。

 グレイシアス。わたし――――


 ◇


 剣先から伝わる手応えは、強靭で崩しがたいものだった。

 振り下ろした刃が、甲高い音を立てて受け止められる。

 それを為したのは、不気味な白い光を放つ枯れ枝のようなかぎ爪だ。

 相手の背から伸びた片翼と、押し込もうとする力が拮抗し、剣を握るグレイシアスは顔を歪めた。

 互いの得物ごしに視線を交錯する女。その顔面に表情はない。

 女の背後でもう片翼の刃が音を立てて動かされる。視界の外側を回りこむように左からやってくるそれを、グレイシアスは咄嗟に身をかがめて避けた。頭のすぐ上を、鋭い風切り音がよぎっていく。

 気をつけろ、焦るなと、仲間から叱咤の声が飛んだ。

 これでは仕留められないと悟ると、グレイシアスは舌打ちする。床を蹴って爪の届く範囲から逃れると、相手取る天使から一旦距離をおく。


 今回の天使が出たのは街の最上層だった。

 上層の者たちが、礼拝や司祭の教示を受けるために訪れる聖堂。

 最奥には祈りをささげる聖女の像が控え、両脇には彫刻の施された柱が立ち並んでいる。左右の高窓からは光が降り注ぎ、多くの人間が詰めかけるのにも十分な広さを詳らかにしていた。

 見上げるほど高い、梁の通された天井にまで立ち昇っているのは、しかし天への祈りや聖女を湛える句ではなく、断続的な剣戟と血臭である。並べられていた長椅子はあちこちのものが天使に打ち壊され、乱雑に破片を散らばせている。その狭間にうずくまる死体が、動かす余裕もなく取り残され累々と床上に転がっていた。


 この日ここで行われていたのは、ある男女の婚礼の儀式だった。

 彼らが最も幸せを享受すべきであった舞台は、だが今や惨憺たる戦場と成り果てている。男と結ばれるはずだった女が、この場で天使に変じたことによって。

 壇上に倒れ伏している男は、真っ先に切り裂かれたのだろう。黒の礼服はそれよりも色濃い深紅に染まっていた。こぼれそうに目を見開いた死体から流れ出したおびただしい血が、数段ある階段を滴り落ちて床を濡らしている。

 夫となるはずであったものを足下に転がし、光る葉脈のような一対のかぎ爪を背中に広げて壇上に立つ花嫁姿の天使を、グレイシアスは睨む。


 天使の羽は速く、そして鋭い。

 油断をすれば一瞬が命取りになるだろう。

 こちらの攻撃に対する反応も速く、闇雲に切りかかっても防がれるだけだ。グレイシアスはじりじりと機を窺って剣を握り直す。

 ――――近づくための隙が欲しい。

 しなる鞭よりも速く走る刃であり、また鉄を弾く盾としても柔軟に動く羽を持つ天使には、同時に何人かで打ちかかるのが定石である。

 幸いここには天使狩りが増えつつある。呼吸を合わせなければ、とグレイシアスは横目で布陣を確認した。鳴りやまない鐘を聞きつけてやってきた天使狩りたちは一人、また一人と増え、今では六人にまでなっていた。

 広い壇上の中央に立つ天使を、彼らは半円状に取り囲んでいる。


 戦闘に生じた空隙。それを縫って一人の天使狩りが走る。

 剣を掲げて右の側面から切りかかったが、片翼がしなってその動きを迎え撃った。鋭いかぎ爪の一撃を、天使狩りは己の剣で辛うじて逸らす。

 その時にはグレイシアスが、そしてもう一人も同時に床を蹴っていた。

 意識の逸れる隙にと、反対側から相手へ踏み込もうとする。

 だがその動きは、数瞬を先んじた天使に止められる。人外の速度で振り回されたもう片方のかぎ爪が、続けざまに彼らを打ち据えた。グレイシアスらは己の剣でそれを受け止めたが、近づくことは出来ず後ろへと引き下げられる。

 さらに別の天使狩りも同時に踏み込んでいたが、本体の女へと剣がかかる直前で、引き戻された最初の片翼がその刃先を食い止めた。激しく軋む鉄の耳障りな音。切り結んだ天使狩りの背に、もう片翼が振り下ろされる。

 だがその直前、それは根元から斬り落とされた。

 よろめく女の体。天使の視界を避け、後ろから回り込んだ天使狩りの一人は、背後から片翼を斬り落とすと、剣を下段に構え直した。差し込む陽光を反射して真白に輝く刃。それは次の瞬間、違えようもなく女の体へと突き込まれる。

 仕立てられた白の花嫁衣裳――――今は返り血に濡れたそれが、彼女自身の紅に染まる。痙攣して傾ぐ体。天使狩りたちは機を逃さずそちらへと殺到した。首筋に、胸元に。互い違いに己の剣による一撃を加えていく。

 行けるぞ。――――やれ!

 勝機に興奮した声が交錯する。グレイシアスも床を蹴った。

 残された羽の動きは弱弱しく鈍く、もはや天使狩りたちを止める力を失っていた。彼は斬撃を受ける天使へ突進しながら、剣を握る右手に力をこめる。

 無表情のままの女の顏。くるくると可憐に結い上げられた栗色の巻き毛に血の色が跳ねる。白い手袋に包まれた彼女の指が、何も掴めず虚空を掻いた。


 次々と突き立てられていく刃の雨。

 この天使は幸せだったのだろうか。

 あとから追いかけてくるだろう微かな煩悶も、今は気にならない。

 グレイシアスは息を止め、最後の一歩を踏み込む。

 そして女の喉元に刃を突き込んだ。

 たとえ人外であろうとも絶命せざるを得ないほど深く、深く。


 天使と戦った後はいつも後味の悪さに囚われる。

 切り捨てられた花嫁の天使と転がる骸。凄惨な血潮が撒き散らされた聖堂の後始末を専門の者たちに任せ、天使狩りたちは詰所に戻ってくる。彼らは言葉少なに着替えたり剣を手入れするなどして、ひと時の安寧を憩う。

 死者は十余名にも昇った。

 花婿と仲介役。彼らを祝福するはずだった者たちが立て続けに天使の手にかかったためだ。裕福な者が多い上層の、それも最も華やかで衆目の集まる場での殺戮は、不条理に慣れたこの街においても大きな惨事と言える。

 せめて討滅に出た天使狩りに、死者が出なかったことが救いなのか。椅子に座るグレイシアスは、自らの長剣を布で拭き取りながら息をつく。


 身に染み付いた血糊を黙々と拭い、次の戦いに備える天使狩りたち。

 後片付けの最中の詰所の室内には足元に低く倦み疲れた沈黙が立ち込め、それぞれが手を動かす音だけが耳につく。

 ただ時おり同僚たちの顔が見るともなく目に入ると、その両眼には一様に仄暗い影が埋め込まれているようだった。きっと自分も同じ目をしている。

 つい先ほどまで人であったものを、苛烈に狩り立てる残酷さ。

 街の者たちはそれを見て、彼ら天使狩りに慄き敬遠する。

 それでいて嘆きながら低い声で指弾を寄せるのだ。

 なぜもっと早くに天使を見つけ出し、殺せないのかと。

 必要だから殺す。相容れないから刃を交える。

 だが醜悪であるのは果たして誰だったのか。殺戮を厭わぬ天使か、他者を愛するだけではいられぬ人間か。それとも天使狩りである彼ら自身か。

 感謝されたいわけではない。今更理解されたいわけでも。

 ただ密やかに疑念と無力感は降り積もる。

 人が生きていくというだけで、血を流し続けるこの街の在り方に。


 身なりを整え直すと彼は、詰所の隅に掲げられた伝言板の前に立つ。

 そこには天使狩り同士での言伝や、警邏の道筋や夜の見回りの順番、最近の街での注意すべき伝達事項などが取りまとめられている。中層での刃傷沙汰となった揉め事、下層で目立つようになった違法な薬物の売買について。諸々の出来事の中央に目立つように書き付けられた注意文に、グレイシアスは眉を顰める。

 この数日、下層の路地裏で付近の住人の死体が相次いで発見されている。

 被害者は二人。いずれも夜の闇に紛れての斬殺。付近で天使らしき者の姿が目撃されていることから、見つからないまま逃げ延びている天使の仕業の可能性が高い。見つけ次第討滅されたし、というのがその内容だった。

 ――――下層に、天使が?

 苦々しさを抑えられぬ呟きが漏れる。

 近くに立っていた三人の天使狩りたちが振り向いた。ちょうどその話題を話していたのか、一人が彼に話しかけてくる。

 どこかに隠れてるらしいな。夜にだけ出てくるらしい。

 顔を顰めていた他の天使狩りたちも会話に加わった。下層に出るのっていつぶりだろうな。あそこは入り組んだ路地も多い。だから見つからないんだろう。近々、大勢で捜索するように言われるんじゃないか。

 だが天使が隠れるってのは、あまり聞かないな――――。


 凶暴な彼らは人であることをやめると、大抵は手あたり次第に周囲の人間を襲う。すぐに他の人間に見つかり、鐘が鳴らされて天使狩りたちが駆けつけると、その場で討たれることがほとんどなので、被害が出ることはあっても混乱が長く続くことはない。

 だが天使にも、一定の自我や個性と呼べるものは存在しうるのかもしれない。

 街中から移動し、家族であった者たちの民家に逃げ込んだ天使をグレイシアスは思い出す。月に一度、あるかないかの頻度で生まれ続ける天使のうち、とりわけ用心深い、あるいは臆病なものが発生したということはあり得るだろう。

 彼の考えを裏づけるように、今までにも見つからない天使が出たことはあったらしい、と一人の天使狩りが言う。


 そういえば最近、下層を多く見回ってるんだろ。気をつけろよ。

 ふいに言われてグレイシアスは頷く。ありがとう、と答えると、相手は少し驚いた顔になった。どうしたのかと聞くと、いや、お前、少し変わったな、と苦笑気味に返される。

 別の一人が口の端を上げる。厭な笑みではなかった。

 こいつ、下層の薬師の子とよく出歩いてるからな。その子のおかげだろ。

 ああ、そういえば俺も見かけたな。いい子そうだよな。

 なるほど納得、そういうことか、とたちまちからかい交じりの笑みに囲まれて、グレイシアスは先程までと違う意味で苦い顔になる。最近は少し、こういうことが増えた。ずっと一人で生きてきた彼は、いままで誰に対しても踏み込まず、踏み込まれることもなかったというのに。なんだかカナリアの人懐こさに、ほだされている気がしてならない。

 放っておいてくれと言うと、さらに彼らは喉を鳴らして笑う。


 ふと彼は、このような時に訳知り顔で割り込んできそうな僚友がいないことに気づく。以前に彼らと同じようなことを言って絡んできた男。

 そういえば、ここしばらく詰所でも姿を見ていない気がする。

 ゴーシュはどうしたのか、と聞くと、仲間たちの顏からは笑みが消えた。

 一様に苦い顔になった彼らは、生きてるよ、と口にする。

 だが、あいつの連れがな。躊躇いがちに続けられた言葉に、グレイシアスはその先を悟って沈黙する。話によるとどうも彼は、大事な人を失くしたらしい。病に倒れたのか、不幸な事故であったのか、それは少なくとも天使とは関係のないところでの死であったようだが、しばらく喪に服すといい、彼は天使狩りの仕事には出てきていないのだという。


 気の良い僚友を襲った不幸に、グレイシアスは何も言えず小さな溜め息をつく。

 次に会った時、どのような言葉を掛ければよいのだろう。頭のなかに浮かんだ言葉は、どれも実体を伴わぬ力しか持たず消えていった。どのような言葉も上滑りだ。真に近しい人間を失った者の悲しみ。その感情を、そもそもそのような存在がいたことのないグレイシアスが、分かちあえるはずがないのかもしれない。

 あるいはカナリアならば、ふさわしい言葉をかけられるだろうか。不思議と向き合った者の核心をつく娘の微笑を、彼は思い出す。

 天使狩りにも思い悩み、傷つくだけの心は残されている。

 それが天使を斬り捨てるたび擦り減り、摩耗していくものであろうとも。

 不条理な苦しみだ。だが残酷とは思わない。心から流れ出す血を、誰にも知られず抱えていたいと思えるうちは、彼らは人でいられるだろう。

 そうしてまた立ち上がり、歩き出す。

 奥歯を噛み、吐く息で行く手を睨み、老い疲れながら。

 彼らがもうこれ以上を失わないためには、戦うしかない。



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