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楽園  作者: 八塚
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02 white petals

 時々、自分のしていることがどうしようもなく無意味に思える。

 必要なこと。求められていること。正しいと信じられるはずのすべて。

 けれど行えども行えども、相反するものを見せつけられるだけであるのなら、それらは初めから価値があるのかも疑わしくなる。


 非番の日、グレイシアスは下層へと降り、カナリアの店へ向かう。

 彼女の店には見回りの際、手持ちの薬が少なければ立ち寄るということがほとんどだ。しかし最近は、必要な時でなくとも店に立ち寄っていることを自覚しつつあった。彼らは顔を合わせた時、互いに忙しそうでないことを悟ると、そのままただ話をするだけの時間を持つようになっている。

 共に部屋の隅に置かれたテーブルでお茶を飲み、何くれとなく話をして、窓の外の陽が傾いていく移ろいを共にする。それは今まで一人で生きてきたグレイシアスが感じたことのない安らげる時間で、彼が行くとカナリアがいかにも嬉しそうな顔で出迎えてくれることも足を運ぶ理由となっていた。

 街の至る所にある石段を降っていき、軒先に看板の出ているつつましい民家の扉を叩く。

 その寸前、向こうから何かが引き倒される乱暴な物音が聞こえた。


 咄嗟に考えたのは、天使が出たのか、ということだった。

 天使は街の中層か、あるいはほぼ上層にしか出ない。だがそれはその通り珍しいというだけで、下層に出た事例がないわけではなかった。天使はこの街のどこにでも現れ得る。

 まさかという焦燥は一瞬で脳裏を焦がした。

 扉を乱暴に開き、剣に手をかけながらグレイシアスは店の中へと踏み入る。扉に据え付けられた小さな鐘が、けたたましい音を立てた。


 まず目に入ったのは二人の男だった。粗野な服に身を包み、薄汚れた風体をしている。その向こうに店の奥で立ち尽くしているカナリアの姿がある。

 カウンターを挟んで向かい合っていた彼らと彼女は、唐突に現れたグレイシアスを振り返り、動きを凍りつかせていた。カナリアの目には怯えが、男たちの目には獰猛な光があった。男たちが蹴り倒しでもしたのだろうか、彼らの足元には脇に置かれていたはずの机が横倒しになっている。

 床の上に散らばった薬草と瓶を、グレイシアスは冷えた目で一瞥する。


 問おう。汝は人なりや。

 グレイシアスは努めて冷静に、よく通る声で誰何した。

 街の兵士が問題に当たった時、まず最初にする問いかけだった。天使は人語を解さない。この問いに答えない者はすなわち天使であり、斬り捨てても良いというのがこの街のもっとも強固な掟の一つだった。

 抜き放たれて掲げられる剣。

 その柄には天使狩りの証である飾り紐が結ばれている。

 男たちは慌てたように両手を挙げた。

 聖女様のご加護を、と彼らは口々に声を上げる。強張った表情のカナリアも、同じ文言を口にした。紛れもない人間の反応に、グレイシアスはひとまず安堵する。だがそれでは、この状況はどういうものなのか。

 グレイシアスは、険しい表情のまま刃先を下げる。

 それを鞘には納めぬまま事情を問いかけると、男たちは、この女に詐欺をされたのだ、と話し始めた。金を払って買った軟膏を塗ったが、傷が良くならない。それどころか傷が膿み始めたのだ、と。男のうち一人が左腕を突き出す。そのひじの部分は黒く変色し、ぶよぶよと醜くただれていた。

 彼は店の奥で立ち尽くすカナリアを見やる。

 娘は胸の前で組んだ手を微かに震わせていたが、彼を見返して小さく首を振った。譲れぬものを浮かべた瞳。わたしの薬のせいではありません、と小さな声が響く。男たちはカナリアを睨むと、グレイシアスへと口々にまくしたててきた。――――この娘は嘘をついている。傷がひどく痛んでどうしようもない。また薬を買わなければいけないのだ。その責任を取らせなければ。相手が女だからと判断を違える気ではないだろうな。


 顏をゆがめた男たちの声は、グレイシアスには遠く聞こえていた。

 分厚い木戸に隔てられた話し声のような、水に沈んだ街の喧騒のような。

 彼の視線は詰め寄ってくる男たちを通り過ぎて、立ち尽くすカナリアへ向かっていた。その目は悲しげに、床板で踏み散らされた薬の壺を見ていた。


 カナリアが詐欺を働くとは、彼には思えなかった。

 彼女はいつも慈しむように薬草に水をやり、やってくる客にも親身になって話を聞いていた。グレイシアスに薬を渡すときにも丁寧に使い方を教え込み、その効果が間違っていたことはない。いくつかの軟膏は天使狩りの仲間にも譲っている。だがその評判も良く、文句を言われたことは一度としてなかった。

 だからこれは本当に、ただの言いがかりなのだ。

 何よりも、街の兵士として何度もこうした揉め事に遭遇してきたグレイシアスには、この場に踏み込んだ時点で、男たちの物々しい気配が感じ取れていた。暴力で人を言いなりにさせようとする者特有の、白々しいまでの悪辣さが。


 己の欲を訴える男たちの声。それは、野犬の吠え声めいた。

 ひどく重い、疲れにも似た無力感が全身を取り巻いて支配する。

 それはグレイシアスの背筋をこみあげて、剣を握る指先を痺れさせた。

 ――――天使狩りは、人に仇為す者を殺す。

 人の似姿の首を刎ね、羽を切り落とし、剣を振るってきた。

 今までに、何度も、何度も。言葉の通じぬ化け物を、そしてこれからもずっと。

 だがそうして守るだけの価値が、ある者ばかりだろうか。

 剣で弑することが出来るものと、そうでないものの違いとは何か。

 かつて隣人であった者たちを狩りたててまで生きる人の群れ。

 幾人もの天使を斬り捨てても、変わり映えのしない性。

 天使は何も語らない。爪によってのみ人を引き裂くのは、ただ弾劾する価値もないからなのかもしれない。劣悪さすら孕む、その営みを。

 戦いの中でその粘度を増していく心の澱。

 それはもうずっと、彼の体の奥底にあった。

 手にした剣を好きに振りかざせば、この思いも晴れるのかもしれない。

 血で贖う清算が許されているというのなら――――いっそ彼らごと。


 凶暴な衝動が意識を染めたのは、白昼夢のように一瞬だった。

 本当に理があるのなら、机を引き倒す必要も、怒鳴り声をあげる必要もない。

 それは正しく考えるのなら自明のことで、また彼自身にも同じことが言えた。

 グレイシアスは溜息を吐くと、大声で喚く男たちを手のひらで押しとどめる。彼らへと温度のない目を向けた。淡々とした声音で、この店は天使狩りが贔屓にしている店だ。その薬効も天使狩りの多くが保証している、と口にする。

 不利な風向きに男たちの顔つきが変わった。

 俺たちが嘘つきだって言うのか。どこを見てそんなことを言うんだ。一層まくしたててくる男たちへと、グレイシアスは突き放すように、どちらが嘘つきか詰所で聞かせてもらってもいいぞ、と返した。

 険悪な雰囲気が、狭い室内に立ち込める。

 グレイシアスは右手の剣の刃先を、相手に分かるように動かした。

 天使狩りの邪魔をするな。俺たちの敵になりたいのか。

 言葉とともに切っ先が向きつつある気配に、男たちが身を固くする。

 天使狩りは人を殺さない。有無を言わさず殺していいのは天使だけだ。だが、抜かれた刃の輝きは、今この時、相手を選ばぬ獰猛な威を備えていた。

 実際のところ、天使狩りが殺していいものとそうでないものは、ひどく曖昧だ。天使狩りに刃向かう者は、ほとんど天使と言って差し支えない。彼らが街の人間たちから人狩りと忌まれる所以でもある。

 ――――行け。もうこの店に近づかないのなら、見逃してやる。

 青年の声はその時、人を人とも思わぬような冷徹さに満ちていた。その瞬間、喉の奥に伝わっていたものは怒りであり、あるいは憎悪ですらあったかもしれない。

 グレイシアスと睨み合ったのもつかの間、男たちはつばと舌打ちを残して去っていく。開け放たれていた店の戸が乱暴に閉じられ、グレイシアスがやってきたときと同じように、据え付けられた鈴が激しい音を立てる。

 それが鳴りやむと、店の中には静けさが戻ってくる。


 グレイシアスは息をつくと剣を鞘に納めた。

 胸の奥にどろりとした嫌な感触がこみ上げる。行き合いたくない類の人間たちに出会ってしまった。だが不快感を覚えながらも、グレイシアスは今日ここに来てよかったとも思う。上層ではこのような強盗まがいの出来事はほとんどないが、下層は治安も悪く、あのような人間たちがいることは驚くにあたらない。今までにもこういうことがあったのだろうか。もしここに自分がいなければと思うと、ぞっとしてしまう。

 大丈夫か、とカナリアに声をかける。

 店の奥に立ち尽くす娘は、どこか悲しそうな顔で彼を見ていた。だがすぐに頷くと、ありがとう、助かりましたと頭を下げる。

 いつもと違って神妙な様子。グレイシアスは気にするな、と答える。

 揺れる白銀の髪と伏せられた顏。何かを言わなければ、と彼は思った。できるのなら彼女が覚えたであろう、痛みを和らげられるような言葉を。だが彼は、その場で己の気持ちを聞き心地の良い言葉に変えられるほど器用ではなく、また相手を自然と朗らかにさせるほど愛想がよくもなかった。

 ぎこちない空気。顔を上げたカナリアがとりなすように、片づけないと、と声を上げて苦笑する。その明るさにグレイシアスは助けられる。手伝おう、と答えて彼は頷くと、横倒しになった椅子を掴んで立て直す。


 家具の位置を戻し、砕けた瓶を拾い集める。

 こぼれた軟膏と薬草を拭きとり、床を清めていく。

 会話のない静かな室内で、片づけは粛々と進んだ。

 カナリアは目を伏せて店の中を掃除していた。綺麗な顔立ちの横顔は、悲しげな感情に沈んでいるように見えた。結ばれた唇と、細められた眦。普段の彼女とは違う、少しずつ余計な力が入った顔つきに、グレイシアスは見えぬように唇をかむ。

 一人きりで守ってきた店を荒らされたのだ。無理もない。

 ふと目が合うと、床を布で拭っていたカナリアは手を止める。

 ねえ、グレイシアス。

 どうしたのかと答えると、彼女はこの後、一緒に出かけられないかと問いかけてきた。僅かだけ陰を残した、小さな笑みを浮かべてみせる。

 まだ正午に差し掛かるところで、日は高い。それでも彼女が店の外に出ようなどと言うのは初めてで、彼は驚く。今からか、と問い返すと、カナリアはうん、と頷いた。片づけと簡単な食事を済ませてしまうと、彼らは連れ立って店を後にする。


 ◇


 微かな葉擦れの音を浚って、風が吹き抜けていく。

 一面の白の花々がさざめくさまは壮観で、何よりも自由を思わせた。

 グレイシアスは半ば放心して、自分たちの座る丘の斜面を見下ろす。すそ野までゆるりと駆け下りていく雪花の群れ。静謐を湛えて揺れる花々は、ただそうあるだけで清らかだ。視線を遠く伸ばすと、ここからは離れて望む、小高い丘の稜線が見て取れる。なだらかな輪郭のそこには彼らの住まう石の街並みが連なっていた。

 その頭上に遮るものなく広がる空には、薄く伸びた雲がかかっている。


 店を出た二人は、街壁をくぐって街を出ると、郊外の丘までやってきていた。

 人の手がそれほど入っているようにも見えない森の道を上り、途中からは密集した木々の合間を抜けて。壮麗ですらある光景に案内される。

 丘の上にあるこの花園は、カナリアが時おり訪れている場所らしかった。

 聞いてみると、薬に使う野草がまとまっている薬草畑が近くにあり、ある時たまたま見つけたのだという。ここに来るための道があるわけではなく、辺鄙な場所にあるため、誰にも知られていないらしい。お気に入りの秘密の場所とのことだったが、どうやらグレイシアスには教えてくれたらしかった。


 さざ波のように打ち寄せては響く、風と葉擦れの音。

 揺れ動く花弁しか時を示すものがないこの場所は、人の喧騒を知らないかのようだ。彼らがあの街で負うわだかまりさえ、なくなったかのように感じられる。

 想像もしていなかった眺望に、グレイシアスは目元を緩める。

 通じ合えぬ人間の眼。毒のような言葉。花々の中に座していると、そういったものと無縁でいられるようで、カナリアがここに来たくなったのも分かる気がした。

 二人は多くの言葉もかわさず、ただ座って時を共にする。

 カナリアはそろえた膝を両腕で抱えて、しばらく彼と同じものを見ていた。時々、足元の草花に目を落とし、白い指先で緑の葉を撫でている。やがて隣の青年の横顔を盗み見るようにすると、小さな声で問いかけてくる。

 グレイシアス。

 どうした、と聞くと、彼女は言った。

 ――――元気は、出た?

 彼はその言葉に驚く。まじまじと隣に座る娘の顔を見つめた。

 何故、と問い返すと、娘は困ったように眉を下げて笑った。元気がなさそうに見えたから、とこぼして、自信なさげに足下の草花に目を落とす。


 グレイシアスは思い違いに気付いて、胸をつかれる。

 口を開こうとして、けれど言葉を失くして何も言えなかった。

 気分が沈んだから、カナリアはこの場所に来たのだと思っていた。店を荒らされ、傷ついたから、せめて誰かと心を休めたかったのだと。

 けれど違った。きっと彼女は、はじめからそうだったのだろう。自分が傷つけられるかもしれない時でさえ、床板に散った草花を悼む目をしていた。店の片づけをしていた時も、自分自身に向けられた悪意に沈んでいたわけではない。

 理由など知るはずもない。けれどおそらく彼女は、グレイシアスが何かに傷ついたことを悟って、故にこそ心を痛めたのだ。


 その瞬間、胸にこみ上げた感情の名を、グレイシアスは知らなかった。

 ただ胸の奥が熱くなり、喉の奥に吐き出せない想いが生まれる。答えが返らずに、少し不安げに唇を結んでいる娘の美しい横顔を、彼は見つめた。

 無辺の花園。地を満たす花弁と遠く澄んだ空。

 価値あるものではない。役立つものというわけでも。

 ただ彼女は自分が彼にできることを考えて――――そうして、彼女が持っていた一番のものを分け与えることを選んだのだ。


 深い溜息が漏れた。その呼気は涼やかな風に紛れて消えていく。

 ありがとう、とグレイシアスは笑んだ。

 知らなかった。

 誰かといて、これほどに救われる気持ちになることがあるなどと。

 目を伏せていたカナリアは、ほっとしたように笑う。それから彼の方を見ると、なぜかひどく驚いた顔をした。なんだ、と聞くと、何でもない、と照れたように言ってまた口元を緩めて笑みを浮かべる。

 二人はそれからぽつぽつと言葉を交わしながら、眼前の景色と静けさを分け合った。それは微睡むような、優しい時間だった。

 カナリアが冗談めかして、くすりと笑みを零す。辛くなったら、またここに来て。誰も来ないから、静かなところに居たくなったら。

 グレイシアスは首を振る。俺は来ない。少なくとも一人では。

 来るのであれば、一緒がいい。

 その答えにカナリアは目を丸くすると……

 泣き出しそうな瞳で、柔らかく笑った。


 ◇


 勾配のついた土の道を歩いていく。

 さらさらと木漏れ日がさざめく細い道を抜けて。

 小さな声で、取り立てて意味のない言葉を交わしながら。

 頭上の枝を行き交う鳥の鳴き声。跳ねて揺れる白銀の髪。

 先を行く娘が振り返り、薄い空色の瞳が微笑む。

 そうしていつか、目指していた花々の咲く丘へと辿り着く。


 二人で誰にも知られぬ花園を訪れてからというもの、彼らの習慣は増えた。

 カナリアは月に二度ほど、郊外の例の丘に薬草畑の手入れのため出向いていく。

 そこにグレイシアスも同行し、余裕がある時には陽が落ちる手前まで、二人で花園で共に時間を過ごすようになったのだ。

 街から離れた丘の上まで一緒に行くようになったグレイシアスは、今までこの道を一人きりで往復させていたのかと苦い顔になったものだが、カナリアはもう大人だから平気だと気にしない素振りで笑っていた。

 もしかしてまだ子供だと思っているのか、と少しおかしげに、どこか不満げに問うてくる彼女へと、問題はそこではない、とグレイシアスは答える。

 さすがは下層の生まれであるのか、カナリアは最低限は安全な出歩き方も身に着けているようだった。ただ店に押し入った男たちのこともあり、グレイシアスとしては心配が拭えない。せめて非番の日はと、できるだけ彼女の予定に合わせるようになる。


 白い花の楽園は、いつも同じ静けさで彼らを出迎えている。

 花々のなかに座り込んだグレイシアスは、手持ち無沙汰に手帳と鉛筆を掌中でもてあそんだ。

 カナリアが近くの薬草畑を見回っている間、グレイシアスは先に花園にやってきて時間をつぶしていることが多い。はじめは彼女の仕事を手伝おうとしたのだが、半眼で、ざつ、思いやりが足らない、などと文句をつけられてからは大人しく手を引いている。

 もっともそれは、これ以上彼に手伝わせるわけにはいかないという、彼女が引いた一線でもあるのだろう。結果、カナリアが仕事をしている間は、眼下まで広がる花々を眺めながら彼女を待つことになる。

 緩やかに吹きつけてくる風の音。

 遥か下方まで続く雪花の群れと、石組みの街の遠景。茫洋とした青い空を眺めながら、青年は時おり思い出したように手帳に書きつけをする。

 グレイシアス。背後から声がかかり、彼は彼女がやってきたことを知った。

 後ろに荷物の花籠が置かれる草ずれの音。同時に白い両腕が首元にかかり、なに書いてるの、と娘の顏が後ろからのぞきこんでくる。

 その鼻先でグレイシアスは手帳を閉じた。

 不満げに唇を尖らせる娘に、終わったのかと問いかける。うん、と答えてカナリアは彼の背後から離れた。彼の隣に座り直す。


 二人で並んで座っていると、世界に彼らだけであるような気さえしてくる。

 今まで過ごしてきた灰色の記憶、戦いの赤熱に染められた瞬間――――彼女と出会ってからの穏やかな日常の一幕。そのどれにもまして、彼女とこの眺めを共にする時間は、彼にとって心安らげる時間だった。

 いつも持ち歩いているように見える手帳について、カナリアが問いかけてくる。

 グレイシアスが暇なとき、手慰みに何かを書きつけている手帳。それはいつも娘の関心を引いてやまないようだった。彼がかたくなに中身を見せようとせず、覗き見ることはできても文字があまり読めないというカナリアには、その意味までは分からないらしい。一体何を書いているのか、娘はことあるごとに問いかけてくる。

 しばらく言う、言わないをじゃれあうように繰り返すのはいつものことだ。

 このやり取り自体が楽しいと、そう思っているのが彼女に知られたら、何と言われるだろうか。ささやかな冗談を、いつまでも続けていたいなどと。

 ただ今回、繰り返しの末に根負けしたのはグレイシアスの方だった。

 実際のところ、それほど隠し立てるようなことでもなかったのだ。

 言わなかったのは、ただ少し、決まりが悪かっただけで。

 詩を書いている。そう言うとカナリアは目を丸くする。

 たちまち顔を輝かせて読み上げてほしいとせがむ娘に、グレイシアスは顔をそむけた。期待に見た眼差しが面映ゆく、見ていられない。


 彼の書くものは、市井で話題になるような立派なものではない。

 ただ知っている単語を並べて、綺麗な言葉を探して。

 そうして目の前にある光景や思いを文字にしているだけだ。

 表現も言葉選びも拙く、人に聞かせるには忍びない。

 ただ自分なりに、鉛筆の先で文字を書き出すことは続けてしまう。

 その先にどこか遠く、自分たちが赦される世界がある気がして。


 カナリアは手帳の中身を読んで欲しがったが、グレイシアスはそれだけは頑として拒んだ。書かれているのは現実逃避のような戯言だ。何より自分の心根が透けて見えそうな文章を読み上げるというのは、彼には耐えがたかった。やがて娘は諦めると、少しくらい教えてくれてもいいのに、と頬を膨らませて膝を抱える。

 だって貴方、あまり自分の気持ちを話してくれないもの。

 カナリアの意見はそれなりに耳が痛くはあったが、こればかりは別問題だった。

 退屈なら、詰所にある本を読み聞かせてもいい。そちらの方が満足できる、とグレイシアスは言ったが、その提案はすげなく退けられる。

 いつか貴方のを聞かせてね、とカナリアは首を傾けて微笑む。

 グレイシアスは苦笑すると、その気はないと首を振った。


 無垢の花々の絨毯が、風に合わせて揺らめく。

 遠く変わらぬ街の眺望と、その上をゆっくりと流れていく雲。

 音もなくたゆたう時間は永遠を想起させる。

 ふいに隣から自分の名を呼ばれて、グレイシアスは返事をする。

 どうして、天使狩りになったの?

 その問いは、風と葉擦れの音の狭間へと吸い込まれるように落ちた。

 そういえば彼女には話していなかっただろうか。互いの素性をある程度知っているとはいえ、それは決して全てというわけではない。

 グレイシアスは目を伏せる。

 なぜ天使狩りになったのか。それは本当に、大した理由ではなかった。孤児であった彼に、出来る仕事は限られていたのだから。

 俺にはこれしか取り柄がなかった、それだけのことだ。

 剣の鞘に指を置いてそう答えると、カナリアは少しもの問いたげな、悲しげな目になる。だが無言で彼に細い肩を寄せると、後は静寂だけがその場を優しく拭い去っていった。

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