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夕陽の君  作者: 荒野銀
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 8年前の僕といえば、深刻な不眠症で一夜の睡眠時間は3時間、日中ささやかな居眠りすら許されないーーこれは肉体がどんなに疲弊していても眠りが訪れないという意ーー、そんな日々。もちろんすぐに限界がきて心療内科に行った、で、ベルソムラを処方された。この眠剤は良く効いた、最初のうちは。でも、半年も過ぎると悪く効き始めた。睡眠は取れる、でも、回復はしない。俗に言う寝た気がしないなのだ、脳の深部でドロドロに溶解した自我が、うごめている。そんな状態が終夜続く。で、さらにひと月、今度は悪夢、しかも、立て続けのだ。その逐一はもう忘れたけど、なん十回と世界は滅びたし、その中途で目覚ましに救済されたことも数多あった。でも、悪夢は特別じゃない、ベルソムラの副作用の1つ。医師は眠剤変更を推奨した、でも僕は渋った。1つには眠剤変更でまた眠れなくなるんじゃないかと恐怖したこと、2つに通院が億劫ーーまあこれは僕が悪い。ともかく、悪夢の種子を服用し続けた。でだ。ついにあるとき、悪夢根絶の契機たる能力が発現したのだ。それは明晰夢ーー翻弄されるばかりが一辺倒の夢の世界で、己の自我を奪還し、主従を逆転する革命の力、しかも、あらゆる物理法則や、時空の法則、社会通念、それら何もかもを超越できる。

 とはいえ、最初は土遊びの如く。例えば、緑なす一面の草原、そこに若木が一本、蒼天はどこまでも広く明媚だ。で、僕は、春風に吹かれて緑陰に安住していたとする。が、段々と雲がわき立ち、いつしか曇天一色、ついには冷たい風が吹いてきて、肥大した最初の雨粒が自動車の衝突実験みたく、ひしゃげる激突の水音を立てる。それを皮切りに雨滴は旺となり、煙霧立ち込める豪雨となって、だがそれは、純粋な雨水の粒でない。どこか異様で、緑地には細かい黒点がはびこり、仔細を見極めようとしたその時、首筋に雫、しかしそれはうなじを刺すように這い出した。手で取ってみるとなんとそれはダンゴムシ、しかも、真っ黒い背に鮮血のにじんだような赤い斑点、鋭利な多足が、獰猛に宙を掻く。それが指先を傷つけては、獰猛に肉を噛む、まるで己が一個の食欲を満足させる、それがすべてというように。そしてこれが無数に飛来する降雨の正体。つまりーー、直近の草々を見た。新緑に虫が付着して重くしなり、それが移動するたび葉に不協和な穴が発生する。そして足先。そこにはすでに、赤黒くうごめく粒の大群が、波となって緑の範囲を侵食しながら、猛然と迫ってきている。どこにも逃げ場はないーー従来ならここで終わり。でも、夢幻のアドミンになったのだ、対処は簡単。まず足元を奈落にしまーす、右足からグルっと、円を描くように。ただし、足場だけは残しまーす。これだけ。あとは、怪虫たちが滝となって、奈落に落ちていくのを見物するだけだ。

 でも、無害とはいえ不吉な怪虫は残ったまま。そもそもの現出を抑止できないか。でも、これも簡単、害虫の源泉、黒雲を散らせばよいのだ。で、安直に天に向かってグルグルと腕を回す、なんども。すると回転の中心に向かって雲がねじれ、ブラックホールに吸引されたように、暗雲に半球状の窪みが生じる。慣れてくるとたった1度の回転で、蒼天まで拝むこともできる。ここに至って確信した。もう休眠なんてどうだっていい、脳をフル回転させて、この睡眠活動をエンジョイしなくては!

 快、不快構わずあらゆるものを消滅させていった。夢は多種あった、でも、いずれも天地だけは消去できなかった。碧空は碧空のまま。大地には穴が空いた、深度10メートルほどの。で、螺旋階段状に掘削していった、飛び降りるのに適当な2メートルほどの深度にして。でも、100回も掘るうちに面倒になって止めた。天が無限なら地も無限、そう結論付けたのだ。まあ無意識の投影だから。

 でも、あるとき竹のように地下茎を張る植物の悪夢に出会い、その根を一掃していったときだ。その地下茎はある一点から同心円に伸びていて、その中心茎をつきとめる、そこまではいった。が、絶つ直前で芯となる根が逃げたのだ。大根のように白い根が、線虫のようにうねうねと、しかも常軌あらざるスピードで地を潜って。で、僕は、その掃討にやっきになるわけだ。とにかく腕を回し、深く深く深く、直径40センチほどの縦穴を、無闇やたらと掘っていく、現実なら乳酸で腕がパンパンになるくらいに。すると視界の先、無明の洞のかなたで、針で刺したような白点、奴か? ーー違うな、光? 地球の裏側か? いや、そうじゃない、ここは夢、つまり、掘り進めた先に何かある!

 翌日ーーその日は朝までの猶予なかったので持ち越したーー、大発掘調査が始まった。前回と同じ手法、螺旋状に大地を消す、飛び降り、さらに大地を消す、この繰り返し。で、数刻。腕を一掻き、すると土臭い暗黒の地底の穴ぼこに、巻雲流れる青空が広がった、まるで水鏡のように。地面から天頂を仰ぐ図で、メタリックに照り返す遮光ガラスのビルが伸びていた。その側には赤茶色のタイルを貼った学舎のビル、こちらは凸型で、横に広い。最近景は拡大されたレンガの多色の粒子のつぶ、雑草らしき緑の葉も柔らかそう。鳩らしき動物がのっしのっしと歩いてきて、水鏡いっぱいにY字にスタンプしていった。高空を旅客機がのんびり遊覧していく、ホイップクリーム製造マシーンみたいに尾を引いて。そう、ここは東京、中野の四季の森公園。でも、違うのだ。赤茶ビルの冠する大学名が異文字ーー甲骨文字っぽいーーとか、鳩の頭部がワインレッドだとか、芝がほぼ禿げ上がってるとか、違和を挙げれば切りがない。でも、重要なのは、人が砂嵐の形影だということ。彼らは横切る、分厚いビジネスバッグを手に持って。彼らは談笑する、アルミの椅子に座って、飲み物を目の前に長いポニーテールを揺らしながら。彼らは走行する、キャップ帽をかぶって、開いた口の下部から揺れるアイポッドの線を垂らしながら。彼らは通話し、ランチのキッチンカーで賑わい、午後のつかの間冷たいコーヒーに憩う、我々が世情で行うあらゆる些事と同じように。ただすべてがまだら、白黒の砂嵐なのだ。そして音はない。

 そして僕は、この水鏡に飛び込んだーーしょせん夢との軽視はあったが、それより迂闊で浅慮、この性状に、何度痛め付けられたか。痛飲と同じで惑溺もやめようがない!ーーすると、全身、水に落ちた感覚。髪が揺れ、衣服がからまり、視界がにじんでーー、いや、まず呼吸だ! 光源、海中の月のような光源が頭上にある、まるでここだぞと誘うように。で、そこに浮上した。

 頭を出して顔をぬぐい、左右を見る。右ーー、市役所と警察病院、それに早大の大学院。左ーー、まばらな桜と開闊たる園地、周囲3方に巨大なビル。間違いない、水鏡で見た四季の森公園、まあ、映った場所から公園外の歩道に移ってはいるけれど。僕は水面から右腕を抜き、が、そこで気が付いた。立ち泳ぎしている場所、ここマンホールだ、そして蓋を水面にジャブジャブしている。特異点か? が、ともかく、息を確保しなければ。左腕を引き抜き地面に着いて、すると正面から、ランナーらしき砂嵐が、猛然とこちら目掛けて駆けてきた、まるで機密の査察官が、対象となる物的証拠を発見、確保せんばかりの勢いで。急いで上半身を持ち上げ、狭いマンホールの枠内から右脚を引き抜き、次、左脚ーー、ダメだ、間に合わない! ぶつかるーー、が、そう覚悟したとき、走者は一足分逸れ、僕の肩先をかすめ、膝蹴りの練習といわんばかりの長大なストライドで走っていった、荒い息遣いを残して。そして気付く、音、つまり環境音が復活している! これまでは主役級のものしか音響は付与されなかった、なのに今は、視覚にない学生の陽気な喚声まで意識にのぼってくる。夢の領域を逸出したのか?

 左脚を抜いて地に立つ。髪を後ろに掻き視野確保、知覚の訴えに傾聴してみる。影法師が薄く延び初夏の夕刻、園内に人影はまばら、平日か? 平成帝京大学の学舎の方から女学生の歓声、ただし、語意は不明。日本語でない? 総身ずぶ濡れだが寒暖ないし、マンホールをくぐったわりに無臭で、腕を回すと空間に穴(すぐ閉じた)。うーん、これは、夢っすねぇ。

 影の割拠する不気味の広場を避け、平成帝京大学と湧水場の間を通行、明治大学の方に行く。水が枯れた索然の湧水場、しかも落葉が、つまるほど溜まっている。どうしたのだろう? 途中、大学生らしき形影たちとすれ違ってもびしょ濡れの僕に注目の気配なし。僕が見えてない?

 両大学の峡谷を通り抜ける。正面に燃焼やわらぐ衰勢の夕陽、側面に咲き残りの花冠揺らすツツジの垣根、そしてその垣根の奥、そこは明大キャンパス、その中庭。シャンパン色の夕陽をいっぱいに浴びた模造芝が広々とひろがっており、テーブルと椅子が数組設置してある。そして、その黄金をたっぷり含んだ緑の中程に、端然と頬杖ついて座る若い女性の孤影。彼女は夕日を一心に見つめていた。僕からは、夕陽を淡く照り返す端正な横顔と顎のラインが見え、それはまるで太陽神に祈る敬虔な信徒のよう。しばし見とれ、が、その一方で、驚愕しもしていた。というのも彼女が、いや彼女だけが、砂嵐でなかったから。彼女には色があり奥行きがあり、生きた人間だけが漏出できる生彩さがあった。そしてそれは、涙の湿りを含んだように儚く、なにか夕陽を浴びていなければ消える、枯死してしまう、そういった独特の陰りを帯びていた。そして不思議なことに、呼ばれている気がし、僕は近づいていった。

 が、近づいたが? 第一声はどうしろと?

「わたしはわたしの使命を知っている」彼女は言った、半袖から伸びる白い腕で頬杖のまま、端正な横顔を見せたまま。話掛けられた、のかな?

「父は51才、母は49才。職場婚と言っていた。母は父からのアプローチと主張しているけれど、実際は母からだと思う。母が仕草で誘って、父が応じた。25年前の話。あと弟が1人いる、3つ年下の」

 疑問は次々と浮かんでは消えていった。しかし、詰まるところそれは2つ。「誰に」「何を」伝達したいのか?

「あなたは?」

 あなた、とは、僕か? 僕が見えてる? が、最後のは愚問。彼女はこちらを正視していた。視線がぶつかり、多少の意思を交換し、1秒に満たない停止と進行が発生する。彼女は、斜陽で片目だけオレンジがかっていた。

「僕に、言ってますかね?」

 細かく首肯を繰り返した、瞳を閉じて。そして開き、また見つめあう。

「えっと」なんだっけ、何聞かれてるんだっけ? いや、それよりこの沈黙が、妙に息苦しい!

「あなたのことを教えて」

「んっと、自己紹介で、よいですか?」

 小さく首肯、ただし、今度は1度だけ。「座ったら?」同時に目配せ、その先に椅子。

 で、座って「えっと、名前は青葉充。31歳、農業を勉強しながら会社員をしてる。ITエンジニアで、在所は高円寺。趣味は」どうしよう? 仕事、なんだけど狂人と思われるかな。ならば「えっと、宴会芸の開発、ですかね」

「どうしてずぶ濡れなの?」

 なーんだ、やっぱ夢だ。「マンホールの蓋を泳いできたからかな」

「農業はどうして?」

「えっと、これからの時代、必要かなって」

「太陽の周りを1年に1回まわる?」

「回るよ、まわるまわる」

「わたしは192.168.32.27」IPアドレス! なぜに急に仕事の話、ルーティングを設定してやればよい?「24歳、大学院生。専攻は環境微生物工学。主に河口に生息する微生物の働きと海水温の上昇との関連を研究している。筑波に住んでて、趣味はサボテンの生育」

「難しそうな研究やんね」

「重箱の隅をつつくようなテーマなの。河口の微生物が海水温に影響を与えないって証明するのが目的で。つまり、山地に降った雨がミネラルとともに河川に流れ込む、するとそれによって河口の微生物が増減する、一部の種だけ爆発的に増えたりとか。で、それによってさらに海洋生物、例えば小魚とすると、小魚は増えるでしょ、餌にする微生物が増えるから。すると今度はその小魚が」が、急にそこで話を切った。それから小さなため息。「興味ないよね。わたしだってもう意味ないって思ってるのに」で、伏し目になって「でも、これがわたしの研究。2年もかけてね、それを果たすの」

「変更できないの? あ、いや、単位とかの関係で無理なのかな」

 が、彼女は答えず、頬杖のポーズをとって、再び夕日に静かな視線を注いだ、暗鬱占めた心内を浄化するように。

 寸秒あって頬杖をとく。「あなたのお父さんとお母さんは? どうやって出会ったの?」

「僕の両親? えっと、見合いだ、とは聞いてるよ」

「仲はいい?」

「父と母の?」

「うん」

「ペケペケペケペケ、って感じかなぁ。父が境界知能の持ち主っぽくてね、母は厄難の分割装置だって嘆いてるよ」

 うつむき加減、目線が多方をさまよって「わからない。厄難の分割装置ってどういう意味?」

「母曰く、父と暮らすって毎日が不愉快の連続らしい。でも父の害悪なんて小物も小物、で、人生の幸不幸が等量だとすれば、毎日不幸を積み上げてる自分に、大きな災厄はやってこないはず。つまり、父という小難は、大難を分割払いさせてくれる不幸分割装置ってことらしい。やりおるわ、あの女」

 僕は笑い、つられてか、彼女の頬にも口元にも気息の抜けたような柔らかさが出る。しかし言葉はなく、まあ、コメントしずらいか。

「せんーー青葉さんは、ご両親と仲がいい?」

「母とは良いね」

「お父さんとは?」

「うーん。親父かぁ、うーん、なんていうかなぁ、例えば花が好きで、菜園の一端にコスモスの種を蒔いたとする、わざわざ冊を作って、『入るべからず』なんて、看板まで立ててさ。で、蒸し暑い梅雨も、熱射差す真夏も、気を配って、咲く花を夢想して、丹精こめて世話をしたとする。で、いよいよ秋、菜園の一角は冊を破らんばかりの満開の、風に揺れるコスモス。ああ苦労した甲斐あったと莞爾としていると、翌日、わざわざ区画の真ん中に、花を倒して、腹を出していびきをかく猪。とうぜん、頭に来てすぐ追い払うよね。でも、花は踏み荒らされ、残った花にも猪のよだれ、泥土が付着し。この猪、この獣が父だよ、この獣と一緒に食事をし、家中の逐一を共にし」が、食い入るような相貌が真横にあってーー、我に返った。少々熱くなったなと。「まあ要するに、人と獣の間に親子の情は成立しないってこと」そもそも何をむきになっているんだ、幻影相手に?

 僕は立ち上がった。

「帰るの?」

「うん」

「帰り方は分かる?」

「んー? 待っていればそのうち起きるんじゃ?」

 うつむき、伏せ目がち、思案の仕草。「起きる?」つぶやくように言う。

「だってここ夢でしょ。眠剤が切れれば目覚めるんじゃないかなーって」

 彼女は瞳を閉じて、かぶりを振った、静かに、何度も、強く否定するように。「ここは夢じゃない」

「えぇ。とは言ってもなぁ」マンホールで立ち泳ぎし、砂嵐の人民を横切って、目前に永遠に暮れぬ太陽。この斜陽、先ほどから、ちーとも進んでない。「諸事勘案すると夢としか思えないし」

 彼女は空席のバッグを引き寄せ、化粧ポーチを取り出した。さらにジッパーを開け、ペン形の道具を取り出すと「手を貸して」僕の手を奪い取るようにつかみ、すまなそうに目を合わせ「ごめんね」擦りむけるほど強くペン先で引っ掻いた、何往復も、傷になるまで。

「痛った」

 解放されたとき、実際左手に擦過傷ができていた、血がにじみ、めくれた皮が丸まっている。

「目が覚めたときこれを思い出して。来た場所から帰れるはず、そこを必ず通って」そして夕陽を一瞥し「ああ、まだ陽は明るい、まだ大丈夫。また会える」

「あの夕日が沈んだらどうなるの?」

「世界が閉じるの、この世界が」


 覚醒して喧騒の無さからまだ早朝とわかり、2度寝を図りつつ左手をさする。スベスベとしていて痛みはなく、つまり、傷跡なし。やっぱ夢じゃんかと苦笑しつつ、しかしその思惟が、睡眠を妨げた。そのまま眠れず、起床時刻、高所ベッドの脚下で、目覚ましが、けたたましく鳴る。止めるべくベッドの梯子を降り、が、フローリングには剥がしたタオルケットが広がっており、不眠のイラつきもからんで、見事にそれを踏んでバランスを崩した。宙を掻く手。その手が梯子の溶接部の角に当たり、肉がえぐれて一筋の傷痕。血がにじみ、皮が丸まりーー、そしてそれは、左手の甲にある。

 しばし、それに見入った。

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