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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
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隣に蔵が建つと腹が立つ

作者: 尾妻 和宥

 裏庭の柿畑から収穫を終えた季節だった。

 郁子いくこは嫁の出海いづみといっしょに、縁側で干し柿作りに精を出していた。

 甲状腺の腫れと他の症状はこのところ落ち着いていた。左手の小指全体に紫色のアザがついている。月夜の晩こそうずいたものだが、日中は不自由しない。

 このしゅうとめも笑いながら、表年(、、)のため豊作になった柿の出来をしきりに喜んでいた。


 なのに――。

 郁子はときおり作業の手を止め、隣家りんかに眼をやる。

 キリキリ、キリキリ、ギリギリ、ギリギリ。

 歯ぎしりしているのだ。


 生け垣の向こうの高野たかの家は、今年になって人の出入りが激しい。今月上旬、これ見よがしに垣根のすぐそばに大きな土蔵を建てたのだから恐れ入る。

 大勢の大工やら手伝いの人夫にんぷらが入るや否や、太い柱が打ち込まれ、立派なはりもかけられた。


 あれよという間に平瓦がかれ、壁じゅう漆喰しっくいが塗られたうえ、伝統的ななまこ壁(、、、、)に仕上ったのだ。

 それこそ威風堂々たる大きさで、日が傾けば、土蔵の影が西大路にしおおじ家の敷地の真ん中にまでさしかかるほどだった。

 影さえも憎らしいと、郁子は思った。




 1966(昭和41)年、高度経済成長の真っ只中であった。

 日本国民は敗戦の悔しさをバネに、インフラの再整備、内需転換に力を注いだ。

 その甲斐あって経済状況が飛躍的に上げ潮ムードになり、戦前の最高水準を上回る記録を次々と打ち立てた。


 日本の中心では好景気で沸く一方、山村の若者は働き口を求め、集団就職で都市部へと大量流出。

 西大路家のある人口500人も満たない農村だけではなく、どこの山村も急速に凋落ちょうらくしはじめていた。

 わずかな若者と中高年の他、残された高齢の家は土地持ちでもない限り、どこも等しく貧しかった。


 にもかかわらずである。

 近ごろ、隣家である高野家ばかり、羽振りがいいのはどういうわけか。

 郁子と同学年の高野家の祖母ミエ子は、卑屈なほど腰の低い働き者だったのに、急に身につけるものが華美になった。夫ともども、トヨタが大々的に宣伝した初代カローラを乗りまわすようになったのだから開いた口が塞がらない。

 以前のように野良仕事へ出かけるのも少なくなり、家でふんぞり返ってすごすようになった。


 その息子夫婦も例外ではない。

 平均的な兼業農家にすぎなかったのに、これもピカピカの赤いスポーツカーを買い、青年団の若者らに見せびらかす始末。


 しきりに新調した家具を業者に運ばせ、贅沢な生活を楽しんでいるようであった。

 おまけにしょっちゅう宴会が催された。隣からどんちゃん騒ぎの雄叫びや嬌声きょうせいが耳に入るようになる。

 西大路家も形だけ誘われはしたが、一家は口裏を合わせ、参加することを拒んだ。


◆◆◆◆◆


 西大路家は今でこそ落ちぶれたが、江戸時代のころは地主であり、小作人を雇うほどの豪農で名を馳せた。

 村民に慕われるだけにとどまらず、近郷の町にも知れ渡っていた。選挙活動が行われるたび、議員が取り巻きを連れてあいさつに来たものだ。


 しかし胸を張れたのも昭和初期までで、ここ最近は先代である義父が家名を汚していた。

 無類の賭博好きが高じ、ことごとく財産を食いつぶしてしまった。借金のかたとして所有していた山林まで手放した。


 陰口を叩かれているのをひそかに郁子たちは感じていた。

 これ以上、家名に泥を塗るのは許されない――そんなとき、義父はぽっくり病死し、どうにか西大路家はそれ以上の損害を被らずにすんだ。

 ところがそれで終わらない。

 義母が見栄で派手な葬式を執り行い、そのうえ最高級の墓石を建て、死後もしばらく散財したのだ。




 高野一族はその間も、持ち前の粘り強さでコツコツと財産を築いていたらしい。

 江戸時代じゃあるまいし、まさか1966年にして大きな土蔵を建てるとは大それたことをしでかしたものだ。


「西大路家に対する当てつけみたい」


 と、郁子は夕飯のたび、苦々しげに口にした。背筋をしゃんと伸ばし、ご飯をたいらげる。

 35歳になる一人息子、はじめが自分で二杯目をよそおうと、炊飯器を開けた。

 空の茶碗を片手に、もう片方にしゃもじを手にし、


「あんなどでかい蔵は、ちょっとお目にかからないよな。母さんがしゃくに障るのはわからんでもないさ」


 そう言って、しゃもじで炊飯器の内側をドラムのように叩いた。


「これ、朔! 飯びつの縁をしゃもじで叩くと狐に(、、)憑りつかれますよ(、、、、、、、、)!」


 郁子は食事する手をとめ、本気で息子を叱りつけた。


「お義母さま、あまり昂奮なさらず……」


 朔の嫁である出海は、そのたびになだめた。姑は作法にうるさかった。

 しゅうと規夫のりおはその輪に加わらず、ため息をついて、熱燗を啜った。

 ダイニングルームの窓からも、暗い庭の向こうの土蔵が黒い塊となり、のしかかるようにそびえている。


 農村は平坦な土地柄、田んぼの中に各家が点在している。はじめて村を訪れる人は迷子になりがちだった。

 その中で隣家の土蔵は頭ひとつ飛び出して目立ち、今後ランドマークとして機能するだろう。じっさいそうなった。

 郁子はいつも憎々しげに、その真新しい蔵をにらんでいた。

 この由緒ある西大路家を差し置いて――。


◆◆◆◆◆


 寒い朝だった。パンジー・ビオラを植えた花壇にしもが降りている。

 庭で掃き掃除する郁子は手をとめ、隣の蔵を見つめた。

 その白い横顔の峻烈な冷たさよ。

 遠巻きに、敷地の向こうで同じく竹ぼうきを手にしている出海の視線を感じていた。34歳の嫁が、思わず我が身を抱くほど寒気を憶えるほどに。


  朔のもとに嫁に来て、この姑とともに暮らして11年経つ。

 郁子がなにに歯ぎしりし、これほど隣家に敵意の眼差しを向けるのか、いくら鈍感な出海でもわかっただろう。

 郁子が席を外しているとき、朔との会話で聞こえてきた言葉があった。実母に教えられたらしい。


 ――「お義母さまを見ていると、『隣に蔵が建つと腹が立つ』ってことわざを思い出すわ」


 そのことわざは、言わずもがな、嫉妬、羨望の感情を表しているにちがいあるまい。

 現在はともかく、江戸時代においては、蔵とは富を表すステータスシンボルであった。


 出海にとっては、家庭が安泰ならそれだけでよかった。あいにく子宝に恵まれず、規夫に陰で、石女うまずめめと陰口を叩かれ、耐えているのも知っている。

 郁子はかばった。せっかく落ち目の西大路の長男の嫁として来てくれたのだ。家系が絶えてしまうのは口惜しかったが、こればかりはなるようにしかならない。


 郁子は屋敷に入ると、床の間の前に正座した。

 まつられた壷に手を合わせる。

 左手の小指は紫色のアザで染まり、宿業を感じずにはいられない。

 きっと、ご先祖さまがいつか力を貸してくれる。

 あらゆる向かい風は、いずれ追い風にしてくれるはずだ――郁子はそう信じていた。


◆◆◆◆◆


 ある日の昼下がりである。

 軽三輪トラックが荷物を満載して、正門をくぐって敷地に入ってきた。

 なにごとかと郁子をはじめ、出海や朔もサンダルを突っかけ、表に出る。


 ハンチングをかぶった運転手は、東京のデパートで注文された家電製品を届けにきたという。

 途中道に迷い、難儀したのだと汗を拭いながら言った。

 朔は笑った。東京に住む伯父の粋な計らいで、プレゼントしてくれたんじゃないか、と早合点した。

 トラックの荷台にかけられたシートをめくってみた。


「おい、見ろよ! テレビに洗濯機、冷蔵庫だぞ! ついに三種の神器(、、、、、)が我が家にお出ましだ!」


 そのとき、生け垣の向こうに隣人が立った。

 高野 ミエ子だった。派手な着物をまとっていたが、腰ひもがだらしなく緩んでいる。髪を茶色に染めていた。


「違う違う違う。その荷物、こっちだったら!」と、ミエ子は激しい剣幕で手招きした。「ちょっと、おたくさん。誤配ごはいよ。デパートに苦情の電話、入れちゃうから。しかも、どれだけ人を待たせたと思ってんの!」


 運転手の男はバツが悪そうに顔をゆがめ、ハンチングを取って謝った。そして西大路の家人にも頭を下げたあと、そそくさと車に乗り込んだ。

 その間も、ミエ子は配送業者をなじり続ける。男はオート三輪をバックさせ、敷地から出て行くべきなのに、せっかく郁子が掃き掃除をして地面をならした庭でUターンしはじめた。


 庭にトラックのわだちができる。

 荷台に、テレビ、洗濯機、冷蔵庫の重みの分があるだけに、ましてやハンドルを何度も切り返し、いくつもの溝をつけられた。

 オート三輪はようやく正門から出ていき、隣家の庭に入っていったようだ。

 ミエ子はそれを見届けてから、茫然と立ち尽くす郁子らに向かって、


「ごめんあそばせ、皆さん。お騒がせ致しました。まだおたくにはテレビ、置かれていないんでしたっけ? ごあいにくさま――」


 と、最後の捨て台詞は歌うように言って、トラックの方に行ってしまった。

 朔は、「なーんだ、残念」と、頭に両手をやって白けた様子だったが、郁子は違った。

 はらわたが煮えくり返るほど全身の血が沸騰していた。


 その晩など、寝床で悔し涙を流して枕を濡らすほどだった。

 夫や息子はなにくそと奮起し、隣家を見返してやればいいのに……。情けないことに父子とも、負け癖がついていた。

 隣家による遠回しな嫌がらせは、たびたびくり返された。


 客観的に考えてみれば、児戯じぎに等しい張り合いだった。あまりにも世界が狭すぎる。なのに郁子は、隣と比べ、つい熱くなってしまうのだった。

 西大路家はジリ貧に落ちぶれ、それに反し、高野は徐々に富裕になっていくようだ。




 郁子の隣人に対する嫉妬は、度を超えていた。

 きっとあの土蔵には、高野家が急に成り上がった理由が隠されているにちがいない。

 10年前までは、高野一家はことあるごとにこちらの顔色をうかがい、卑屈なほどペコペコしていたのに、こうも立場が逆転するものだろうか?


 にわかには信じ難い。

 必ず秘密があるはずだ。

 あの蔵には、富を築いたとっておきのカラクリが秘匿されていると信じて疑わなかった。


 郁子の暴走に、歯止めが利かなくなっていた。

 とりわけ電化製品の三種の神器の購入を先に越され、ましてや配送業者の誤配も重なり、ミエ子の前で恥をかかされたのは決定打となった。

 かつてないほどの屈辱の泥を舐めさせられたと思った。


 郁子がナンバーワンの立場から、追い抜かれることによって、ようやく下々(しもじも)の人の痛みがわかるようになった。狂おしいほどの嫉妬と羨望、反感――自分たちだって一生懸命働いている。なのに報われない。

 隣家が莫大な富を得ているのは、あくどいやり方をしているからではないか? それなりの理由があるに決まっているのだ。


 高野家の秘密を炙り出してやる。人間は怒ったときこそ、本性をさらけ出すものだ。

 ハッタリを仕掛けてみようと思いついた。

 郁子はその夜から仏間にこもり、怪文書作りに没頭した。


◆◆◆◆◆


 しばらく経ったころ、村のそこかしこでその封書が出回る。

 あるときは個人宅のポストに投函されていたり、神社の境内に挿し込まれていたり、橋の欄干に結び付けられていたり、村役場や郵便局、学校の窓にまで……。


 村は騒然となった。

 その文書にはこう書かれていた――。


『高野某家の土蔵には秘密の座敷牢ざしきろうがあります。精神疾患である孫を、鉄仮面をかぶせて隠しているのです。』


『高野某家の土蔵には狐持ちだか、犬神持ちだか知りませんが、75匹の憑き物を使役させているにちがいありません。夜な夜な獣の唸り声が聞こえるのです。白米はくまいの家(※狐持ちではない一般の家)の娘を嫁に出すべきではありません。そんなことをすればみんなから絶縁されます。』


『あの蔵には、座敷童子ざしきわらしを住まわしているらしい。それゆえに僥倖ぎょうこうに恵まれていますが、実は石臼いしうすの下敷きにして間引きした子供の白骨死体を隠しているのです。』




 高野 ミエ子をはじめ、高野の家族は血相を変えて怒った。

 緊急の寄合をもうけた。集会所に主だった住民を集め、声をらしてこれらの文書はまったくの事実無根であり、言いがかりだと喚き散らした。


「どうかみなさん、お静まり下さい」と、ミエ子が怪文書を手にしたまま言った。「これ以上余計な噂を広めないで下さい。これを書いた者は、私どもを陥れようとしているのです。私どもの蔵には、このようないかがわしいものはございません!」


「そんなら、おれたちに蔵ん中見せて、事実であること示すべきじゃねえか?」


 寄合に集まった男たちの中で、こう発言した者がいた。それに便乗する形で、次々に男たちが「そうだそうだ」と賛同した。


 収まりがつかなくなっていた。


◆◆◆◆◆


 ほとぼりが冷めかけたころだった。

 寒さが厳しくなった夜。どの家庭も夕飯を終え、くつろいでいる時間だった。

 突如として半鐘が鳴らされた。

 家人は窓を開け、暗い外を見た。

 農村の中央に位置する縫製工場だった。


 赤々と燃えている。

 工場は木造平屋だ。巨大な篝火かがりびとなって、火の粉を散らしていた。風の強い日だっただけに、天高く紅蓮ぐれんの炎が伸び、渦を巻いていた。


 物見(やぐら)で誰かが半鐘を連打している。今どきサイレンで報せる時代なのに、村役場の資金不足からか、まだ半鐘が現役だったのだ。

 男たちは至急、消火に駆り出された。


 なにぶん人手が足りない。中年女たちも現場に向かい、男たちを手伝った。最寄りの用水路から、バケツリレーをした。ないよりはましだ。

 高齢者とて心配になり、誰もが押っ取り刀で現場に集まり、遠巻きに見守るしかない。



 火を放ったのは郁子だった。

 西大路家の門に手をつき、巨大な火柱をうっとりした眼差しで見つめる。

 大方の村人は現場に集合していることだろう。どうやら高野家もテレビを観るのをやめ、物見遊山ものみゆさんがてらかけつけたらしく、郁子は試しに玄関で呼んでみたが、誰もいないようだ。


 眼には狂気の色が宿り、小刻みに揺れていた。

 賽は投げられた。

 もはや後戻りはできない。計画に従い、初志貫徹するしかあるまい。


 嫉妬に狂った郁子は、この混乱に乗じて高野家の土蔵に踏み込むつもりだった。

 縫製工場に火を放ったのは陽動にすぎない。農村は相互扶助そうごふじょの精神で成り立っている。神事をはじめ、葬儀や火災があれば、みんなで助け合わなければならない。逆に協力しなければ、やがてはコミュニティから疎外されるかもしれないからだ。




 郁子は弓鋸ゆみのこを手にしていた。刃は細く、ステンレス製である。

 規夫は趣味で洋ランを育てていた。庭の端に小さな小屋を建て、その中に集めているのだ。

 年々増やすものだから置き場に困り、アングルや角パイプを買ってきては自分でこのカナノコで切断し、溶接までして棚を組み立てるほどの凝り性だった。


 だったら南京錠のツルなど、たやすく切断できるはずだ。

 南京錠を扉に押しつけ、ツルの部分にノコ刃を押し当てる。

 力を入れて、ゴリゴリと押しく。

 何度かくり返すと、断ち切ることができた。


◆◆◆◆◆


 郁子は土蔵の中に足を踏み入れた。

 扉の横には灯りのスイッチがあったので点けた。かまうものか。

 中は広い。

 真冬のこともあり、蔵の中はまるで納骨堂のようにひんやりと冷たく、乾燥していた。

 左の高窓から月明かりが斜めに差し込んでいる。


 今年とれた新米の入った米袋が大量に山積みされている。そのうえ去年の古米までかなり残っているようだ。

 液体の入った大きなかめやらガラス容器までが整然と並べられている。酒や醤油、味噌だろう。驚くべきほどの量であった。

 右の壁には帳面が吊られていた。

 手に取りめくってみると、几帳面な筆跡で、ちゃんと在庫管理がなされている。


 それにしても恐るべき収穫量に、郁子はおののいた。

 西大路家がのんべんだらりと生き、先祖の財産を食いつぶしている間、隣家ではコツコツと働き、いつの間にか村で一番の豪農になっていたのだ。


 ええい、そんな血の滲む思いをしているのは高野家だけではない!――郁子はかぶりをふった。

 みんな都市部の好景気にあやかろうと、必死で働いている。高野だけが特別ではあるまい。


 なにか高野家には、人智を超えた力が味方についているのではないか? あくまで郁子の勘にすぎなかった。今のところ確証はない。しかしなんらかの後ろ盾があると睨んでいた。

 もしやよからぬ悪行を重ね、財を築いたとしたら? その物的証拠をつかんで、世間に暴露してやろうと思った。このコミュニティでは西大路家こそ一番であるべきなのだ。




 広い土蔵のあちこちを隈なく探した。

 しかし座敷牢はおろか、秘密の地下牢が見つかるわけではない。むろん頭の弱い青少年か狐憑きの人間、ましてや座敷童子の元となった幼児の白骨死体らしき姿もない。


 奥の高いところに神棚が祀られ、真下に文机ふづくえが置かれていた。

 机上には子どもが遊ぶ、ブリキのミニカーやけん玉、漫画雑誌があった。一番場所を取っているのは浅い木箱であった。

 木箱はミニチュアの箱庭だった。がりが建ち、いくつかの倉庫と小屋のある風景を再現しているようだった。どうせこれらも孫の玩具かなにかだろう。


 郁子は悔しくてたまらなかった。奥歯をかみ合わせ、歯ぎしりする。

 キリキリ、キリキリ、ギリギリ、ギリギリ……。

 西大路家は没落する一方だった。

 出海いづみは不妊症で、今後も妊娠は期待できまい。そもそもはじめは病気がちで、息子夫婦らの寝室の隣で聞き耳を立てたことがあるが、まるっきり不能(、、)のようだった。したがってこのままでは血は途絶えるのは必定であった。


 規夫のりおは猜疑心が強すぎるうえ、小心者。せっかくの先祖の財産を膨らます才覚にも欠けていた。なんとなく毎日を惰性で生き、貯えを目減りさせるだけだ。


 郁子自身は原因不明の動悸や多汗、脱力感、手足のふるえ、甲状腺の腫れに悩まされていた。1週間に一度は診療所へ通い、処方箋をもらわねばならないほどだった。それに加え、左手の小指が異様に疼くときがある。月夜の晩などは特にであった。


 さらには隣家に対する狂おしいまでの嫉妬心が押さえられない。

 とくにミエ子の成り上がりっぷりには、髪を掻きむしりたくなるほど腹立たしい。寝床に入るたび、ミエ子の哄笑が聞こえるようで、郁子は不眠に悩まされていた。


 西大路家が傾けば傾くほど、なぜか高野家は繁栄するかのようだった。

 これは気のせいなのか?

 まるで高野家に、養分を吸い取られているかのようではないか。


 そう郁子は考えて、はたと気づいた。

 もう一度、文机の箱庭に眼をやる。

 天井の蛍光ランプの灯りを頼りに、今度こそじっくり観察する。

 精巧なミニチュアの屋敷と庭、そこかしこにある倉庫と小屋。


 どこかで見覚えのある家と小屋の造りだった。特徴的なのは、曲がり家よりも屋根瓦の色だ。

 去年葺き直したのは赤茶色だった。まさにこの屋根も同色だ。

 それだけではない。敷地の片隅のちっぽけな小屋も無視できなかった。天井のトタンは鮮やかな水色なのだ。これはまちがいなく夫の洋ランを収納している小屋にちがいない。


 とすれば、この屋敷や庭全体こそ、西大路家そのものを縮小したもので間違いあるまい。

 なぜ隣家の土蔵に、家の模型があるのか?――郁子は頭をめぐらせた。

 よく眼を凝らせば、右側の正門にあたる部分にすき間がある。すなわち、完全な箱ではないのだ。しかも箱の側面に凹凸おうとつがあった。――これはどういう意味なのか?


 屋敷に手を触れてみた。

 瓦葺の屋根が動く仕掛けになっているらしい。

 スポッと、曲がり家の屋根の部分がはずれた。

 室内が見える。ちゃんと和室が2部屋、仏間、12畳のフローリングの洋室、ダイニング、台所、かわや、風呂や縁側が精巧に再現されている。まるでのぞいたみたいに。


 それだけではない。

 マッチの軸を細工して組み合わせて作ったらしく、小さな紙片のついた人型が4体、それぞれの部屋に釘で打ち付けられていた。それぞれに名前が書かれている。言わずもがな、郁子をはじめ、規夫や息子夫婦の名が……。

 そっくりの自宅が再現された時点で、さもありなんだった。


 郁子は机の抽斗ひきだしを開けた。

 そこには西大路家の箱庭と同じサイズの別の箱庭が収められていた。

 手に取ってみた。


 しげしげと見るまでもない。同じ曲がり家と、特徴的ななまこ壁(、、、、)と巨大な土蔵が物語っている。

 これは高野家の縮小版だろう。

 同じく、正門のところがすき間が開いていた。

 これも正門側の箱側面に凹凸があった。

 

 西大路家の正門側と、高野家の正門側を重ねてみる。

 カチッと音を立てて、互いの凹凸が合わさった。

 ここからは郁子の勘だった。


 別の抽斗から壷を見つける。中は玄米げんまい(精白していない米)だった。

 壷の中身を西大路家の敷地にバラ撒く。

 左手で西大路家を持ち、右手で高野家を支える。

 高野家を下にして傾けてみた。

 ザラザラザラ……と音を立てて、正門から正門へ注ぎ込まれ、高野家の庭に玄米があふれる。


 郁子は合体した箱庭を投げ捨てた。

 二つの箱庭は大きな音を立てて分離し、玄米が一面に散らばった。

 頭を抱え、絶叫する。


 やられた。高野の一家にしてやられた。

 この箱庭は呪いだ。

 いや、箱庭のカラクリそのものに、呪いの力があるわけではない。高野家が奮起するための暗示でしかないのかもしれない。

 だったら、西大路一家の身体の不調は単なる偶然か?




 そのときだった。

 郁子の背後で人の気配がした。

 高野 ミエ子その人だった。


「火事だって、ウチの旦那や息子たちが出かけてったけど、私にはピンときた。このあいだ、噂の元となった文書といい、郁子さんの仕業じゃないかと疑ってたの。家に残ってて正解だったわ。このドサクサに紛れて、あんたが蔵にもぐり込むんじゃないかと予想してたら、まさかね」


「これはどういう意味よ、ミエ子さん」


 郁子は言い訳せず、床に落ちた箱庭を指さす。


「西大路家も昔は酷いことして、財産築いたそうじゃない? なら、高野だって負けてられないってことよ。でも、単純に比べた場合、あんたん家の先祖は人殺しまでして金を奪ってんのよ。よっぽど直接的じゃないかしら?」


「西大路家が人殺しですって?」


「おやおや……。知らぬが仏ですか。よろしい、私が教えてさしあげましょ」


◆◆◆◆◆


 あるとき農村を訪れた山伏(もしくは祈祷師)が占ったところ、西大路家の過去に言及した。

 江戸時代のはじめ、大坂出身だという西国巡りの六部(巡礼者)が、老夫婦の住む西大路家に、一夜の宿を請うた。


 そこへ偶然、三人の村人が借金の取り立てに押しかける。二両の借金の形として、老夫婦の田畑を差し押さえようとしたのだ。

「それでは生きていけませぬ」と老人はすがり、押し問答となる。


 その場に居合わせた六部は、宿を貸してくれた恩もあり、代わりに借金を返済してやる。

 老人は手を合わせ、「あなたさまは私どもにとっての神仏の化身であります」と、涙を流して六部に感謝する。

 寒い晩であった。出来るかぎりの馳走を用意し、ありったけの夜具を出して六部をもてなす。

 ところがである。

 深夜、寝床から老女が起き、夫を揺り起こす。


「私は見たの。あの六部は背負子しょいこに二百両もの大金を隠し持っている。殺して金を奪ってしまいましょう」と、持ちかけるのだ。


 老人は首をふり、「恩を仇で返すなど、とんでもない」と、取り合わない。

 ならば一人で決行するまで。老女は夫が寝入るのを待って、そっと寝床を離れる。

 そして隣室に眠る六部の布団に乗りかかるや、菜刀ながたなで首を切りつけてしまうのだ。


 六部はもがきながら、「口惜くちおしや」と洩らし、老女の指に噛みつく。

 老女がとどめを刺し、六部は事切れた。

 老女は荷物をそっくり奪うと、死体を裏の柿の木の下に埋めてしまったという。


 のちに老女はこの二百両を元手に田畑を買い占め、また高利貸資本家として農民から土地を奪い、中間搾取者たる新興地主となり、莫大な富を築くようになる。この六部殺し(、、、、)事件こそが西大路家が成り上がったきっかけとなったのだ。




 郁子の左手の小指全体が、紫色のアザで染まっていた。

 これは嫁に来て直後に、わらを木づちで叩く作業をしていて誤って小指を打ち付けてしまったものだ。

 なんの因果か、西大路家の長男に嫁いでくる女たちは、左手の小指にアザが生じるものらしい。

 義母もそうだった。なんらかの宿業を背負っているのかもしれん、とその母も自嘲的に笑ったという。


「そんな噂、信じない!」と、郁子は鋭く叫んだ。「しょせん貧乏人が作り出した妄言よ!」


「だったら、あんたん家の柿の木の下を掘り返してみるまでよ。もしかしたら、旅の巡礼者の骨が出てくるかもしれないわよ。そうなったらぐうの音(、、、、)も出ないでしょうね」


 と、ミエ子。


「骨ならあります! それが六部のものだかなんだか知らないけど、先代から受け継いだ古い骨なら、床の間に祀ってあります。だから畑を掘り起こすまでもありません!」と、郁子は言った。賭け事好きの父から聞かされた、半ば伝説めいた話だった。パズルのピースとピースが噛み合う感触が湧く。「西大路家が急激に富裕にのし上がったのも、もともとはこの方の財産をせしめたからでしょう。今さらながら腑に落ちます」


 きっとそれだ。

 郁子はしゃべりながら確信していた。

 嫉妬と羨望。落ち目になってはじめて、人間の暗部に気づいたのだった。





        了


※参考文献


『異人論 民俗社会の心性』小松 和彦 ちくま学芸文庫

『悪霊論 異界からのメッセージ』小松 和彦 ちくま学芸文庫 

『憑きもの持ち迷信 その歴史的考察』速水保孝 明石書店

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